20殴ってくれたまえ
セレイアが屋敷に移ってから、一週間が経とうとしていた。
熱は二日ほどで下がったのだが、風邪を拗らせてしまい、咳に苦しむようになった。
最近になり、ようやく咳も落ち着き、普通の食事も取れるようになった。そろそろ離れの方に戻ってもよいと思うのだが、しばらくはこちらで療養するよう、言われていた。
夕食後。アンネと一緒にお茶を飲んでいた時だった。
ノック音の後、ドアが開き、この屋敷の主、ディルク・ヘルトルが部屋に入ってきた。
彼を見るなりアンネが、まるで害虫でも見つけた時のように顔を歪ませたので、セレイアはぱしりと彼女の太股を叩いて窘めた。
「……具合はどうだ?」
「おかげさまで、ずいぶんよくなりました。ご迷惑をおかけしてしまったみたいで、申し訳ありません」
「いや、よいのだ…………お前、席を外してくれ」
ディルクがアンネを見下ろし、言う。
「なんでっ」
「アンネ、少し出ていてくれるかしら」
アンネがディルクに食ってかかろうとしたため、セレイアは強い口調で止める。
アンネは心配げにセレイアを見た後、渋々といった態度で部屋から出て行った。
「メイドが失礼な態度を取ってしまい申し訳ありません。あとで言って聞かせます」
「いや、それはいい……」
ディルクは目を伏せ、口を閉じる。
少しして口を開きかけ、再び閉じる。三度ほどそれを繰り返した。
ニコラスが訪れ、セレイアが彼の股間を蹴り上げた日から、ディルクのこのような挙動不審な態度は、何度か目にしていた。
(……何か、聞いて欲しいことでもあるのかしら)
「あの、私にお話でもあるのでしょうか?」
ようやくセレイアは、彼が自分に何か伝えたいことでもあるのでは、と察した。
ディルクは訊かれるのを待ってましたとばかりに、顔を上げる。
「……私はあなたのことを誤解していたようだ。そのせいで、あなたに失礼な態度を取ってしまった。申し訳ないことをしたと反省している」
ニコラスがコルネリア王女とセレイアの事情を、詳しく話したのだろうか。
ディルクが苦い顔で謝罪を口にした。
「気にしていませんから。大丈夫です」
セレイアは微笑みながら言う。
「……あなたをあれほど傷つけたというのに、赦してくれるというのか。あなたは優しいのだな」
「いえ……」
苦笑を浮かべ褒めてくるディルクに、セレイアは口ごもる。
優しいわけではない。
ディルクに傷つけられた覚えがない。
ただそれだけのことだった。
「だが……あなたが優しいからといって、甘えたくはない。どうか殴ってくれないか」
「……は?」
「一発、殴ってくれ。いや……あなたの気がすむまで、何度でも、好きなだけ、殴ってくれたまえ」
ディルクが懇願するかのような口調で言った。
――あれですよ。女の人に叩かれたり殴られたりして、喜ぶ人なんですよ、きっと。
以前、アンネが口にしていた言葉が、セレイアの脳裏に浮かんだ。
「いえ……あの、結構です」
「あなたが優しいのは理解している。しかし、このままでは私の気がすまない。殴るのが嫌ならば、他の方法でもいい……仕置きをして欲しいのだ」
鞭でも使えというのだろうか。手で叩くよりはマシな気がするが……いやマシではない。
鞭を人間にふるう趣味など全くない。あり得ない。
「いえ、しません。そういうのは他の方に頼んで、して貰ってください」
「あなたでないと意味がないだろう」
男は碧玉の瞳で、じっとセレイアを見据えた。
(股間を蹴り上げたのがいけなかったの?それで目覚めてしまったから、私でないと意味がないって言っているのだろうか。それともお飾りの妻だけれど、一応は妻なのだから、そういう変態行為に付き合えって言っているのかしら)
どちらにしろ無理なものは無理である。
「いくら頼まれても、無理です。殴ったり叩いたりなど……、あの時、乱暴な行為をしてしまったのは自己防衛です。自分の身を守る以外の理由で、あんな真似はしません。どれほど願われても、人を傷つける行為など、私には出来ませんから」
こういうことは誤魔化したりせずに、変態趣味がないことを告げた方がいい。
セレイアは男を見上げ、はっきりと断った。
「私は大きな間違いをしていたのだな……」
「気づいてくださったのならば、よいのです」
きっとディルクはセレイアが乱暴な真似をしたから、同じような性癖の持ち主だと勘違いしてしまったのだろう。
「あなたは、コルネリア王女とは違うのだな」
「……は?」
「あなたは優しくて思いやりがある。平気で人を傷つけるコルネリア王女とは全く違う」
自嘲の笑みを唇に浮かべたディルクの言葉に、セレイアは衝撃を受けた。
コルネリア王女と面と向かって会い、話をしたのは二度だけだ。
矜持の高さと嫉妬深さ。子どもっぽさは、少ない会話の中でも察せられた。
しかしそんな……変態な嗜好の持ち主だとは、わからなかった。
もしかしたら、その変態な部分も、元婚約者は受け入れ難かったのかもしれない。
元婚約者とは長い付き合いだ。殴られて喜ぶような変態ではない。……いや、時々、セレイアがくだらないことで腹を立て、彼に怒りをぶつけているとき、なぜか嬉しそうにしていた。変態の素養も実はあるのかもしれない。考えたくないけれど。
「私は、あなたのことをもっと知りたいと思う。そして、あなたにも私のことを知って欲しい」
「私は、普通の……いたって普通の人間です。知っても楽しめないかと……それにディルク様のお気持ちに添うことは、絶対出来ないと思います」
いくらディルクの人間性を知ったところで、変態行為に付き合うことは出来ないのだ。
「今までのこともあるのだ。私の気持ちに応えられなくて当然だ。とりあえずは、友人から。友人として関係を改善していきたいと思っているのだが、どうであろう?」
とりあえず、の前置きが気になった。
「殴ったり、叩いたりはしませんよ」
「わかった。あなたの優しさを、私は心に刻みつけよう」
心に刻み付けてくれるのなら、変態行為に付き合わされたりはしないのだろう。
「……友人としてなら」
セレイアが答えると、ディルクはよろしく頼む、と言って手を差し出してくる。
変態だからといって振り払うわけにはいかない。
人には色々な趣味嗜好もある。理解は出来ないが、実害がないのならば、見てみぬふりくらいはする。
セレイアはひきつった笑顔を浮かべ、彼の手を握り返した。
セレイアはディルクのお飾りの妻――お飾りの婚約者から、友人になった。




