13悪気はないんです
「前にハロルド、コルネリア王女の護衛を任されたことがあってさ。あのお姫様、頭の中、お花畑でしょ?ハロルドが困るところが見たいって言って、取り巻き唆して抜け出して、治安のよくない場所に行ってさ。襲われかけたところを、ハロルドが救出したことがあったんだ。陛下から褒賞を貰ったまでは、まあ良かったんだけど。あの馬鹿、馬鹿正直に、コルネリア王女が私のためにありがとう、って言うと、あなたのためじゃない、って即答してさ」
ディルクが部屋から出ると、ニコラスは砕けた口調で話し始めた。
「自分が騎士でいるのも、危険を顧みず褒賞……勲章を得るために働いているのも、全部、婚約者のためだって。王女に付きまとわれて鬱陶しかったのもあるんだろうけど、馬鹿正直に言っちゃったわけ……。王女はさ、それが頭の中にあったんだろ。結婚前にアタシのために、命をかけて戦って欲しいのぉ!……って。夢見がちなお姫様の考えそうなことだよ」
「そんな……それで、彼の身に何かあったら、どうするのです」
「さあ。悲劇のヒロインぶるんじゃない?……まあハロルドのことは心配しなくていいよ。セレイアさんが心配したって、もうどうなりようもないでしょ」
ニコラスの言うことは、もっともだった。
セレイアは彼の婚約者ではないのだ。
彼を引き止めることは出来ないし、心配したところで、何かが変わるわけでもない。
「セレイアさんは、あいつのことはもういいから、自分の幸せだけを考えなよ。実はさ、辺境領の騎士団に僕の従兄弟がいるんだけど」
と、ニコラスはディルクが控えている扉の方に視線をやり、声を落とした。
「そいつから辺境伯が、セレイアさんを虐げてるって聞いたんだ。屋敷に愛人を囲っていて、セレイアさんのことは離れに閉じ込めているって」
「虐げられてはいませんよ。……離れには追いやられてますけど」
「セレイアさんの嫁ぎ先を決めたのはコルネリア王女……王家だけれど、この結婚……まだ婚約か。不当な処遇を受けていると訴えれば、白紙には出来るんだよ」
「そうなのですか?」
「ある程度の証拠。使用人の証言とかはいるけどね。……王太子殿下はセレイアさんに申し訳ないことをしたから、せめて幸せな結婚を、と望んでおられる。協力してくれるよ」
セレイアは少し考え、首を振った。
「いえ、不当な処遇といっても、離れで有意義に暮らしていますから。別の方と、また婚約するのも、正直、面倒ですし。今のままで結構です」
セレイアの答えに、ニコラスは飄々とした態度を消し、神妙な表情を浮かべる。
「もしかして、もう、惚れちゃった?だったら、辺境伯に態度を改めるよう、遠まわしに脅しておくけど」
「惚れてませんよ」
あれのどこに惚れる要素があるのか。セレイアには、まだわからない。
「性格はちょっとアレだって聞くけど、顔はいいしね。女の子って、ああいう色気のある男、好きでしょ」
「……人それぞれ、好みによると思いますけど」
「セレイアさんは、ハロルドの顔、見慣れてるからね。あいつも性格、別の意味でアレだけど、顔はいいから。……まあ、辺境伯に何かされたとか、困ったことがあったら、いつでも相談して。手紙くれてもいいし、従兄弟経由でもいいから」
ニコラスの従兄弟はテリーという名らしい。
ニコラスそっくりらしく、会えばすぐにわかると言われた。
「……あいつに、何か伝言、ある?」
逡巡の後、ニコラスが訊ねた。
セレイアはすぐに首を振る。
「ありません」
「……そっか」
ニコラスはなぜか、セレイアの顔を見て、眉を顰め、目を逸らした――。
ニコラスが出て行き、入れ替わるように、ディルクが応接室に入ってくる。
「何を話した?」
「何って……」
「まさか、あの男を頼りに、ここを出て行こうとしているわけではあるまいな」
ディルクの険しい顔に、セレイアは思わず笑ってしまった。
「何がおかしい」
「私のことを疎ましく思っておられるのに、出て行くのを嫌がっておられるようだから」
「疎ましく思ってはいるが、あなたには私のお飾りの妻でいてもらわねば困る」
ミアのために、だろうか。
当の本人であるミアはそんなこと全く、望んでいないのだが。
「まだ妻ではありません。お飾りの婚約者ですよ」
セレイアは軽く肩を竦めて、彼を見上げた。
ディルクは眉間に皺を寄せて、セレイアを見下ろしていた。
凄い皺の寄り方だ。細身のペンくらいなら挟めるかもしれない。
そんなことを思いながら、彼の碧玉の瞳を見返した。
「……いずれは妻になるのだ」
やや厚めの唇が、低く、囁くような小さな声を漏らす。
そして――。
男の整った顔が近づいてきて、セレイアの顔に影を落とす。
唇に柔らかなものが触れ、少しして離れた。
セレイアはぼんやりと、男を見つめた。
「……どうだ?」
男が口元に笑みを浮かべ、訊いてくる。
「どうだ、とは?」
「いずれ夫になる男からの、初めての口づけだ」
「はあ」
「あなたが貞淑であるなら、妻としてそれなりの扱いをしてやってもよい」
それなりの扱いが、口づけなのか。
疎ましいと思っているのに。『お飾りの妻』だと言いながら、口づけをする意味がわからない。
そもそも、それなりに妻として扱って欲しいなど、セレイアは望んだ覚えがなかった。
セレイアにはディルクの考えも、言っている意味も、理解出来ない。
ディルクの逞しい腕がセレイアの腰に回る。
思わずだった。咄嗟の反応で、考えるよりも先に動いていた。
「ぐっ……おおぉぉ」
セレイアは膝で思いっきり、ディルクの股間を蹴り上げていた。
この護身方法は、元婚約者から教わったものだ。
「き、きさま……ぁ、おおぉ、う」
股間を押さえ、まるで絵本の中に出てくる怪物のような形相で、セレイアを睨んでいる。
(……やだ、こわい)
「ごめんなさい、思わず……悪気はないんです。申し訳ございません」
セレイアは謝ると、呼び止める声を無視し、そそくさと部屋を後にした。
今は痛みで動けないだろうが、落ち着いたら追いかけてきて、報復されるかもしれない。
――その時は、ニコラスに相談すればよい。
セレイアはディルクから逃げるように、足早に廊下を歩き、アンネの待つ離れへと戻った。




