エピローグ
かつて、この世界には魔王と呼ばれる魔物の王がいた。魔王は魔物を従えて人類を脅かしていたが、突如現れた一人の英雄によって倒され、世界には平和が戻った。しかしそれでも完全に魔物が消えたわけではなく、野生の魔物は今もあらゆる場所に潜んでいる。
「こ、こっちへ来るなッ!」
麦畑を踏み荒らし、一体の魔物が青年へ歩み寄る。青年は鍬を振り上げて魔物を威嚇していたが、魔物は動じる様子がない。
青年の後ろには一人の女性が縮こまっており、今にも泣き出しそうな顔で後ろから青年を見守っていた。
魔物が青年へ歩み寄ると、青年は追い払おうと鍬を乱暴に振り回す。しかし魔物はそれを事もなげに弾き飛ばし、青年に爪で切りかかる。
「く、クソッ……!」
避けきれなかった青年は肩を軽くエグられ、苦痛に呻く。しかしそれでも後ろにいる女性を守るためにそこで蹲ったりはしなかった。
「ビット!」
女性が悲鳴を上げたが、青年は――ビットは歯を食いしばって女性の手を取り、魔物へ背を向けて走り出す。しかし女性の方がつまずいてしまう。
「ミーア!」
「先に逃げて!」
女性――ミーアはそう叫んだが、ビットはミーアをかばうように蹲る。そんなビットに、魔物は容赦なく爪を振り上げる。
「いやああああっ!」
覚悟を決めてビットが目を閉じ、ミーアが悲鳴を上げた――その瞬間だった。
「――――ッ!?」
突如、ビット達の上を誰かが飛び越えて魔物へ飛び蹴りを食らわせる。そして着地と同時に剣を抜くと、真っ白な長髪をなびかせて魔物へ切りかかっていく。
その様子を、ビットとミーアは呆然と見つめる。軽装の鎧を身に着けたその女は、素早い剣さばきで魔物を圧倒し、やがて一方的に切り伏せた。
「……ふぅ。大丈夫?」
振り返った女は、透き通るような白い肌の美女だった。彼女はすぐにビット達へ駆け寄ると、すぐにビットの傷に気がつく。
「ちょっと怪我してるじゃない! ごめんなさい、来るのが遅れて!」
「ああいえ、そんな……助けていただいただけでも……」
ビットはそう言って頭を下げたが、傷口の痛みに耐え切れずに呻き声を上げる。
「とにかく手当しましょう。手伝わせてもらえる?」
「あ……はい、お願いします!」
ミーアがそう言って頭を下げたのを確認すると、女は任せて、と微笑んで見せる。
「あの……あなたは……?」
「私? 私は……ユーカ。ユーカ・ライオネル」
ビットに問われ、そう答えた女――ユーカはもう一度笑みを浮かべた。
ビットの傷はかなり浅く、家にある救急セットだけでも十分応急処置が可能なものだった。魔物によって受けた傷であるため、一度病院へ行くべきではあったが、ひとまず命に別状はないようだった。
「しかしまさかユーカさんが偶然この村に立ち寄ってたなんて……驚きましたよ」
「え、私のこと知ってるの?」
キョトンとした表情でユーカが問うと、ビットははい、と短く答える。
「噂で聞いたことがあるんです。各地を旅して魔物絡みの事件を解決して回っている美女、ユーカ・ライオネルの噂を」
「そ、そうなんだ……なんかすごく恥ずかしい……」
ユーカが旅を始めてからもう五年近く経つ。行く先々で魔物絡みの事件があれば、旅の資金集めもかねてなるべく全て解決しながら旅をしていたせいで、かなり噂が広まっているのだろう。恐らく商人辺りがそこら中で言いふらしているに違いない。
「それより、ビットさんとミーアさんは一緒に暮らしてるの?」
ユーカがそう話題を切り替えると、ビットは照れくさそうにはい、と答える。
「来月……その、結婚、するんです……」
「まあ」
そう声を上げてから、ユーカは満面の笑みを浮かべて手を叩いて見せた。
「それなら尚の事助けられて良かったわ……。怪我してたのも、ミーアさんをかばったせいだったのね」
「ええ、まあ……。俺が彼女を守れれば一番良かったんですけど……」
「しっかり守ったからミーアさんは無傷なんだし、恥じることなんてなんにもないわ」
ユーカがカラッと笑って見せると、ビットも釣られて笑みをこぼす。
「そっか……結婚、するんだ」
言いながら、ユーカはどこか遠くを見るような表情を見せる。不思議に思ってビットが声をかけると、ユーカはなんでもない、と慌てて取り繕った。
「そういえば、聞きたいことがあるんだけど」
「はい、なんですか?」
「この辺りで、人型の、黒い翼と山羊の角を持った魔物が出たって噂は本当?」
ユーカの問いに、ビットは少し驚いたような表情を見せたが、やがて静かに頷く。
「……はい。村の外れの方で数日前に。見たのは俺です」
その言葉に、ユーカは強く反応を示す。
「それで!? それでその魔物はどこに……!」
「山の方へ飛び立っていきました。確かその時に落とした羽根が……」
ビットがそう言うと、ミーアは近くの棚から黒い羽根を取り出してこちらへ持ってくる。
「ああ、ありがとう。これです」
ミーアから受け取り、ビットが差し出したその黒い羽根を、ユーカはまじまじと見つめる。そして自身が持っているもう一本の羽根を取り出して見比べ、同じものであることを確認した。
「……間違いないわ」
「あの……やっぱり、危険な魔物なんですか? あの山に住み着いているかも知れないって、皆怯えているんです」
ビットにそう問われ、ユーカは少し考え込むような表情を見せたがやがて小さく首を左右に振る。
「大丈夫よ。害はないわ」
「でも……かなり恐ろしい姿をしていました……」
「そうね……確かに見た目は怖いかも」
そう言って薄く微笑むと、ユーカは軽く息を吐く。
「それじゃ、そろそろ行くわね」
ビット達はせめて食事くらいしていって欲しい、と何度も頼み込んでいたが、ユーカは柔らかく断り、ビット達の家を後にした。
ビット達の家を出た後、ユーカはすぐに山羊角の魔物が飛び立っていったという山を目指して移動を始めた。麓までは馬で向かったが、山の傾斜は少しきつく、あまり馬を消耗させたくなかったユーカは馬を麓に残して単身山を登り始めた。
あまり大きな山ではないが、日が落ちるまでに登り切るのは無理だろう。一度引き返してから明日早朝に出るのが体力的にもベストな気はしたが、はやる気持ちが抑え切れずにユーカは山を登り続ける。
次第に日は落ち、山が赤く染まっても、ユーカは足を止めない。休む気にもあまりなれず、ユーカがそのまま山を登り続けているといつの間にか夜になっていった。
木々に囲まれた真っ暗な山の中を、ユーカはひたすら登り続ける。もう何度もこんな経験をして、何度も無駄足だった。それでもユーカは諦めずに進み続ける。
常に持ち歩いている携帯用の干し肉をかじりながら、ユーカは歩いていく。例え今回も無駄足だったとしても、ユーカは絶対に諦めない。
彼が、諦めなかったのと同じように。
止まらずに進んでいる内に夜は更けていき、山の傾斜もきつくなっていく。もう歩けるような傾斜ではなく、突き出た岩を掴みながら必死に上っている状態だ。
「はぁっ……はぁっ……」
気がつけば尖った部分で切ってしまったのか、手袋が裂けて血が滲んでいる。まるでユーカを拒むかのように岩は尖っていたが、それでもユーカは登り続ける。
それから何時間登り続けただろうか。完全に夜が更け、月明かりでさえ雲に隠れた闇の中で、ユーカは必死に登り続ける。もう引き返しようもないし、野宿のしようもない。ここで意識を失えば、ふとした瞬間に下まで真っ逆さまということもあり得る。
疲れ切った身体に鞭打って、眠気をこらえながらユーカは必死に登る。明らかに判断ミスだったが、それでもはやる気持ちは抑えられなかった。
「今度こそ……そこに……いなさいよね……っ」
誰に言うでもなくそう言って、ユーカは気合を入れ直す。後もう少し登れば、この山の頂上だ。
そして少しずつ夜が明け始めて、薄ぼんやりとした明るさが世界を包み込む。いつの間にか朝が来て、闇が晴れ始めたその瞬間、ユーカはやっとの思いで頂上へ登る。
霧が立ち込めるその場所を、ユーカはなるべく急ぎ足で歩く。もう走るような体力は残っていなかったけれど、とにかくすぐに会いたかった。
霧の中に、黒くて大きな影が見える。
その場に座り込んでいたソレは、ユーカが来たことに気づいたのかゆっくりと立ち上がって、こちらへ身体を向けた。
山羊の頭骨のような頭が上からユーカを覗き込む。ソレはユーカを見ると少し驚いたような表情を見せて、それがおかしくてユーカは笑みをこぼす。
「……やっと、見つけた」
絞り出すようにそう言って、ユーカはそっと手を伸ばす。ソレはしばらく躊躇うように硬直していたが、やがてそっとユーカの手に自分の大きな手を重ねた。




