第一話 孤独な少女
今でも時々考える。自分は誰なのか。
世の中には、自分のことは自分が一番よく分かっていると思う人もいる。だが、天宮瑠璃はそうではない。自分自身のことは自分が一番分かっていないのではないかと思う。
今、自分はそういう考えを持っているということを思い出した。その原因は、一枚の紙、自己紹介カード。学年が一つ上がり、クラス替えが行われ、新しいクラスメイトと親睦を深めよう。と、いう目的で担任から皆に配られたカードである。
とりあえず名前を書く。続いて誕生日、趣味、長所、短所とあるが、瑠璃は名前以降何も書けずにいる。
趣味などで悩むのは分かるが、自分の誕生日を書けない人はそういないだろう。しかし瑠璃には自分の誕生日を書くことができない。誕生日を知らないわけではない。だが、瑠璃が知っている自分の誕生日は自分の生まれた日ではないからだ。
瑠璃には家族がいない。父の顔も母の顔も見たことがない。まだほんの数か月の赤ん坊の時に孤児院に捨てられた。瑠璃の誕生日とは孤児院に捨てられた日。だから瑠璃は自分の本当の誕生日を知らない。
だが、さすがに何も書かずに提出するわけにもいかず、誕生日とされている日をカードに書き込む。
続いて趣味、長所、短所……。何も思い付かない。自分のことすらわからないなんて、ほとほと愛想が尽きる。人差し指で机をコツコツ叩く音が六畳間の部屋に響く。
やがて瑠璃は諦めたように短くため息をつき、机から離れた。
壁に掛けてあった上着を着て、必要最低限であろう荷物をカバンに詰め、部屋を出た。
外に出ると、風が瑠璃の頬を撫でた。春の風はなんとも不思議だ。ほんのり暖かいと思えば、その中にわずかに冬の寒さを含んでいる。
瑠璃は築五十年程の小さな古いアパートの一室に住んでいる。
元々孤児施設にいた瑠璃だが、その孤児院は十五歳までしかいることができないので、高校入学と同時に一人暮らしを始めた。地道に続けているアルバイト代と、毎月施設から送られてくるわずかな仕送りが瑠璃の生活を支えている。
夕暮れの町を十分ほど歩き向かった先は、アルバイトをしている「四季の味」という名の定食屋である。
店の裏口に回り、そこから中に入る。
「こんにちは」
中に向かって挨拶をすると一人の女性が厨房で仕事をしていた。
「あら瑠璃ちゃん、こんにちは。今日もよろしくね」
優しい笑顔で瑠璃を迎えてくれたのは「四季の味」の女将、和江。年齢聞いたことはないが、三十代後半~四十代前半といったところか。いつも瑠璃を思いやり、心配してくれる心優しい人だ。
「早速だけど、これ運んでもらえるかしら。表の仕事は頼んだわね」
はい、と返事をし、湯気の立った焼き魚定食を持って瑠璃は店の客席に出る。
「お待たせしました。こちらサワラの焼き魚定食です」
丁寧に伝票と一緒にお客さんのテーブルに置く。お客さんが軽く会釈をしてくれたので、瑠璃も同じように返す。
そろそろ夕飯の時間ということもあって、会社帰りや、学校帰りの人たちでお店が賑わい始めた。一応お酒もあるので、いい感じに酔っぱらう人たちもでてきた。
瑠璃は厨房と客席を行き来して料理を運び、テーブルの片づけ、レジなど忙しく働く。
そして、とある中年のサラリーマン三人組の会計をしている時、そのうちの一人が瑠璃に声をかけてきた。見るからに酔っぱらっている。
「姉ちゃん、美人だね~。いくつ?学生?」
「こ、高校生です……」
苦笑いをしながら小声でそう答える。
「今度おじちゃんとデート行こうかー?」
「何ナンパしてんだよ」
「でも本当に美人だな」
三人はワイワイ話し始めた。瑠璃としては早く会計を済ませてほしい。
時々こういったことがある。この人たちの言う通り、瑠璃はかなり美人だ。顔のパーツ一つ一つが整っていてクレオパトラもびっくりだろう。そのため、店には瑠璃のファンもよく来る。
「じゃあ姉ちゃん、また来るからなー」
あの後しつこく名前を聞かれたりもしたが、教えたくなかったので適当に受け流した。
「お疲れ、瑠璃ちゃん。だいぶしつこいお客さんだったね」
どうやらあのサラリーマンたちが最後のお客さんだったようで、奥から和江さんが出てきた。
「そうですね…。お酒を飲んでいらしたので仕方ないと言えばそうですけど…」
あまり社交的な性格ではない瑠璃は、人と話すのにかなりの気力を使う。お客さんに絡まれることも少なくはないので慣れてはきたが、どうしても人と話をするのが苦手だ。
物心がついた時からかなり内向的な性格で、学校では孤児院の子達以外に友達がいなかった。それは高校生になっても変わらない。最初の頃は、このままではいけない、変わらなければと思っていたが、そう簡単に性格が変わるはずもない。加えて、今は孤児院の子達も周りにいない為、本当に孤独になってしまった。最近はそれでも良い、これが自分なのだから仕方ないと、開き直っている自分がいる。
「そういえば新学期が始まったけど、新しいクラスはどう?馴染めそう?」
和江さんに痛いところを突かれ、テーブルを拭いていた手が止まる。
「いえ、まだ何とも。でも今さらそんな馴染もうなんて思ってないので別に…」
「何言ってんの。花の高校生なんだよ。たくさん友達作ってたくさん遊ばないと。おっと勉強もしなくちゃね」
瑠璃は苦笑いで返事をする。
「心配しなくても大丈夫よ。瑠璃ちゃんはきっと自分が思っているより明るい性格で、楽しいことが好きなはずよ」
「そう、ですか?」
それは瑠璃が昔からいろいろな人によく言われていた言葉だった。なぜそんなことを言われるのか瑠璃は心の底から不思議に思ってきた。それは自分が思っている自分像とはあまりにかけ離れているからだ。そもそもなぜ他人に自分のことが分かるのだろうか。いや、他人だからこそ分かるかもしれない。
(やっぱり私は私自身を何も分かっていないんだ)
瑠璃の自分自身に対する謎は深まっていくばかりだ。
考え込んでしまい手が止まっていたことに気づき、片づけを再開する。
二一時三十分、すべての仕事を終えた瑠璃は、帰る準備をする。
「あっ瑠璃ちゃん、これ余り物だけど持って帰って」
そう言って和江さんから手渡されたのは、今日余った料理を包んだ袋。時々こうして余った料理を瑠璃に持たせてくれる。
「おいしそう、いつもありがとうございます」
一人暮らしをしている瑠璃は、これで食費も浮くのでとても助かっている。そしてなんといっても和江の料理は絶品だ。笑顔で袋を受け取る。まだほんのり温かい。
「こんなことしかできないけど、私はいつでも瑠璃ちゃんのこと応援してッるからね。何か困ったことがあったら遠慮なく言うのよ」
「いいえ、充分助かってます。本当にいつも、感謝してもしきれないくらいです」
瑠璃は母親がどんなものか知らないが、自分にとっては和江さんが母親みたいなものかもしれないと思った。
店を出ると夕方より冷たくなった風が瑠璃の頬を撫でていった。春といえど、夜はまだ冷える。瑠璃はしっかりと上着を着直して帰り路を歩く。
ふと、自己紹介カードのことを思い出してため息をついた。
もういいや、適当に書こう。