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「笑われろ、その方が必ず得するから。」ー
ある上司のことを思い出していた。いつも笑いながら私にそう言っていたその人は、自分のその言葉通り人に笑われていることが多かった。
「お前はバカだなー」「いつも、そんな事ばっかりやってるから、しくじるんだろう」
上司やお客さんから毎回そんな事ばかり言われていた。それに対して冗談を返してはまた、笑われているのだった。
しかし、彼を笑う人の中に彼以上に優秀な者は誰一人としていなかった。それは私が個人的にそう思うのではなく、きっと誰も皆同じ意見だったろうと思う。
少なくとも私の同期の意見は、それで満場一致であった。
本当に誰からも慕われる人だった。
「いつも、そんな事ばっかりやってるから、しくじるんだろう」
そう、言われる時は大抵、誰かのミスを庇った時だった。新人だった私のミスも、その人はよく庇ってくれた。私のせいで、お客に怒られている姿を見るのは辛く、自分が怒られた方がどれくらい楽だろうと思った。
しかし、その人はそんな気持ちさえ汲んでくれるかのように
「あいつうるせーからよー、気を付けた方がいいぜ」
そう言うだけで他には、ほとんど何も言わなかった。
その事で強く指導することもなければ、私をかしこまらせないために、優しく許す様な素振りを見せることもなかった。
ただ、ありふれた出来事の一つとしてー
ただ、つまらない冗談の一つとして、私に対し振る舞うだけだった。
こんな大人がいるのだな、と素直に思った。
学生時代に出会った大人達を私は一応、尊敬しているつもりではいた。しかしながら心の何処かで
「こいつらは何もわかってないんじゃないか」
とも、ぼんやり思っていた。
私は青年らしい皮肉さから、必ずしも人間は年齢に応じて正しく年輪を積み重ねていけるわけではないと考えていたし(まま、今でもそれに変わりはないが)、中学生と変わらないような悪口で大人が盛り上がっているのを見たときには一層、その気持ちが強くなった。そんな事が度々あった。
人間こんなものだろうと思う反面、裏切られたような、失望したような気持ちもあり、生活がルーティーンワークになると人間が毒されていくのだ、とも思っていた。今でもそれに変わりはないが、当時の私は周囲の学生同様、自分のことは棚に上げて人々に対し、そんな事ばかり思っていた。
だからこそ私は率直に驚いたのだろうと思う。
自分の従来の大人の概念を覆す人間をはじめて見たような気がした。
「こんな大人もいるのだな」
そう思えた事は私にとって幸せなことだったと思う。
そのために私は少なくともこの一点で、世の中に対し、失望しないで済んでいるのだから。偉そうな言い方だが、私はそう思っている。
「僕は探偵になりましたよ」
そう言ったらあの人は何て言うだろうか。
きっと笑ってくれるだろうな、と思う。