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スズラン・カフェ

ヒツジの贈り物

作者: 姫野 釉月

 それは、帰りの電車の中でのことだ。


(…あぁ、座られちゃった)


 葉月は近くに立っているおばあさんに伸ばした手を引っ込めた。

 さっきまで葉月が座っていた場所には中年のおじさんが腰掛けている。ふぅ、と盛大に溜め息らしきものをついて、ふんぞり返る勢いで寛いでいる。その様子を見て、声を掛けるのははばかられた。


(ホントはおばあさんに座ってほしかったのにな…)


 葉月は戸惑い、おばあさんと中年のおじさんを交互に見て、それから諦めたように小さく溜め息をついた。


(その席をおばあさんに譲ってもらえませんか…なんて言いづらい…)


 おじさんもきっと、葉月が席を立つのを待っていたのだろう。席はもうどこも空いているところはなく、立っている人もまばらにいる。

 二駅後にはこの中の大半以上が降りることになるのだから、その時におばあさんも座れるはずである。

 だがしかし、先程まで座っていた席を思いもよらない人に座られ、どうしてか横取りされた気分になってしまう。

 明らかにおじさんよりも目の前のおばあさんの方が立っていることが厳しいように見えた。葉月も二駅後に降りるのもあり、最初からずっと座っているつもりもなかったので、勇気を振り絞っておばあさんに声を掛けに行ったのだ。葉月が席を離れた瞬間に入れ替わるようにおじさんが腰を落ち着かせたので口を挟む隙もなかった。

 鮮やかな手口だ、と少しの憤りから思ったが、その言葉がまるで相手を犯罪者のように印象付けさせるものであることに気付き、慌てて思考を振り払う。

 そして、結果的にその駅で降りる訳でもなくただおばあさんの横に立つだけになった葉月は、やるせない気持ちのまま吊革に手をかけた。

 幸運なことに、おばあさんは席が空いたことにも気付かなかったようで、隣にいきなり来た葉月にも訝しむ様子もなく、のほほんとしているのがせめてもの救いだ。

 声を掛けた後に実はおじさんが座ってました、となったら気まずい思いをするところだった。

 釈然としないが、今更仕方ない。そう思った時だった。


「おい、そこどけよ」


 物騒な言葉が近くから聞こえたものだから、葉月は心臓をわし掴みにされたような気持ちになった。ついで、怖々とそちらに目を向ける。

 いつの間にいたのか、先程のおじさんの前に、赤色に染めたであろう髪の青年がそこにいた。その髪色にぎょっとしたが、よく見れば端整な面差しでおじさんを見据える眼差しは剣呑ながら凛々しさがうかがい知れた。

 制服をラフに着崩しており、言葉遣いも荒そうだ。真面目と周りから言われる葉月からしてみたら対極にある人であることを感じられた。更に気付きたくなかったが、彼の制服に見覚えがあると思ったら葉月の通う高校のものだった。白目を剥きそうになったが、寸前で堪える。

 おじさんも彼に良い印象は持たなかったようで、言われた言葉が自分に向けられたことだとわかると怒りに頬を紅潮させた。


「な、なんだね! 君は!」


「そこどけよ。てめぇの席じゃねぇっつってんだ」


「いきなりなんだ! 自分が座りたいからと言って年上に向かって―――」


「ちげぇよ」


「は?」


 唾を飛ばす勢いでおじさんが負けじと赤髪の青年に叱りつけるように言っていたが、青年はあくまで淡々と言葉を返す。おじさんが青年の思いがけない言葉に困惑するのを感じ、どうしても気になって自然と葉月は口論しようとしている二人に完全に顔を向けると、ちょうど、青年がゆっくりと指を指したところだった。


「オレじゃなくて、そこはばあさんの席だ」


 痛いほどの沈黙が車内に落ちる。彼が指していたのは葉月が声を掛けようとしていたおばあさんだと、二拍ほど遅れて理解した。


「そこの女子がばあさんに席譲ろうとしてたところにあんたが勝手に座ったんだ。だから、さっさとそこどけよ」


 まさかの不意打ちに葉月はぎくりとした。名前を出されたわけではないが、明らかに彼が指差している方向にもれなく葉月が入っている。

 おじさんは自分よりも年上の老婦人を見て、彼の言葉に異を唱えることも出来ず、だが憤怒の形相で席を立ち、違う車両へと移った。


「おい、あんた」


「ふぇっ?」


 おじさんの後ろ姿を見送った後に、視線を戻すと漆黒の瞳とかち合う。


「そこのばあさん、座らせろよ」


「えっ…」


「席、空いただろ」


 いやいや。それはないよ。何の冗談?

 この微妙な空気の中で、仕切り直しとばかりにおばあさんに座ってもらうと言うのか。

 無理におじさんに席を立たせたというのに、最後のお鉢はなぜ私に回ってきたのか。

 疑問は浮かべどそれを口に出すことはなく、怒られるのは怖いので慌てておばあさんに声を掛ける。


「あの、おばあちゃん。席に座りませんか?あそこ」


「…おやまぁ、いいのかい?」


「あ、はい…たぶん」


「それは助かるねぇ。お嬢さん、あんがとさん」


「いいえ…私じゃ…あ」


 最後まで言い終わらない内にゆっくりと動きだしたおばあさんが転ばないように付き添う。

 どっこいしょ、の声と同時に腰掛けたおばあさんにホッと息をつく。おばあさんとも視線が合い、お互いに会釈をする。…隣に佇んでいる青年からの視線がビシビシ来るのは気のせいだろうか。

 ちょうど、電車が止まり扉が開いた。慌てて駅名を確認し、急いで降りる。

 背後でおばあさんの「ありがと」という言葉が微かに聞こえたような気がした。

 ホームに足を付け、少し歩いたところで息をつく。

 しかし、先程のことを回想する前に、派手な髪をした彼の後ろ姿が視界に入る。

 結構な人数が降りているのに、一番に視界に入るほど彼は浮いて見えた。

 うわぁ、どうしよう…と思ったのは一瞬で、潔く腹を括り、彼に駆け寄る。


「あの、すみません!」


「あ?」


 彼の足が長すぎて小走りでも追い付けないような危機感を抱いたので衝動的に彼の袖を引っ張ったのがいけなかった。頭上から物凄く怖い声が返ってきたのだ。


「あ、え…さ、さっきは…わわ…っ!」


 ホームのど真ん中にいたからか、サラリーマンの人の身体と葉月の肩がぶつかった。チッ、とあからさまな舌打ちが聞こえた。いや、自分からぶつかっといて舌打ちって何…!怖いじゃないか!

 なんてことを思って固まっていたからか、今度は上の方から舌打ちが聞こえてきた。

 そこでハッと我に返り、恐る恐る上を見上げる。

 それはそれは不機嫌オーラが漂う危険な人がそこにいた。いや、自分から袖を掴んでおいて言うのもなんだけど、おっかない顔してますね。


「離せよ」


「はっ、はいっ!」


 言われるままに素直に手を離す。と言ってもグーで掴んでいた手をパーに開いただけで、視線と姿勢はそのままだ。

 そうか、これが蛇に睨まれた蛙というやつですね。この年にして初めて知りました。

 それにしても、さっきまでの私の勇気はどこにいったんだろう。どうするの、この空気。そして私はなんで彼を引き止めたの…!?

 頭は混乱を極めて当初の目的をド忘れしてしまったことに更に焦りが募る。


「……なんだよ」


「ハッ! えっ? あ、そうだ、思い出した、よかった…!あの、さっきはありがとうございました!それではっ!」


 もう忍耐力メンタルが限界だった。勢いよく頭を下げて、すぐに駆け出す。

 彼は足が長い。どうか、追いかけてくれませんように、と心の底から願いながらその場を走り出したのだった。




***



「お家には帰れた?」


「うん、全速力で走ったし、あっちも追いかけて来なかったからイケた」


「よかったね」


「ホントに」


 のほほんとした会話をする二人の横でもう一人、話を聞いていた女子はゆっくりと飲んでいたレモンティーのストローを口から離した。


「……で?」


「ん? 何? 咲希さきちゃん」


「いや、回想が終わったのはわかってるんだけど。つまりあんたはあたしたちに何の相談に乗ってほしいの?」


 咲希と呼ばれた女子はまたストローを口にくわえ、葉月の言葉を待つ姿勢を見せた。

 一通り話し終えた葉月は彼女たちをわざわざ呼んだ理由を思い出した。


「あぁ、そういえば…相談になるんだね、これ。でも、話を聞いてたらそこまで不安に思うところもないと思うけど」


 こちらも当初の目的を忘れていたらしい友人の結衣は思案顔になって、葉月を見る。

 その率直な意見に葉月は「うっ…」と少し詰まる。


「実は、その人…ひいらぎ先輩なの」


「あぁ、赤髪ってその人しかいないもんね」


「あっ、知ってる。この学校のイケメンNo.3に入る人だよね」


「……実は結衣って男の先輩はその三人しか知らないでしょ」


「ふふっ、最近はプラス二人は知ってる」


「少ない少ない」


 そう言う咲希ちゃんはあまり接点がない男子の先輩たちの名前を知りすぎていると思う。

 話が脱線しそうなので、慌てて葉月は言葉を挟む。


「で、その柊先輩ってその…あんまり良い噂、聞かないでしょ?」


「あぁ、喧嘩っ早くて、女にも手が早いってヤツ? たまに顔に湿布貼ってきてたりするよね。彼女もころころ変わってるみたいだし」


「ふぅん、気が短いんだね。ていうか、咲希のその情報網が凄く幅広くて怖いんだけど」


 相談にはうってつけだね!っと輝かしい笑顔でこちらを見る結衣はもしかして早々に相談から離脱するつもりだろうか。


「で? その噂がどうしたのよ」


「う、うん。なんかね、その噂と電車の中での先輩って違うような気がするんだけど。彼女らしき人と一緒に乗ってる姿とかも見たことないし…口調は、怖かったけど言ってることは優しかったし」


「まぁ、あくまで噂だしね。噂と事実は違うとかはよくあるでしょ」


「そうだね…。じゃなくて、まぁそういうところも見たわけだけど、もし噂通りに不良の中の不良だったら、私のあのお礼の仕方って大丈夫だったのかなってちょっと思って…」


「葉月、それっていつの話だっけ」


「二日前」


「…大丈夫なんじゃないかな」


 やんわりと言ったのは結衣だ。

 さすがに二日前となれば彼にとっては過去のことだろう。これで「この前はよくも止めてくれたなぁ、あぁ?」とか「あんな礼が礼だと思ってんのか」と文句を言われたらそれはそれで驚きなのだが。常識的に考えてその線は極めて低い。

 完全なる葉月の杞憂である。

 それでも、その時の状況が彼女にとっては気がかりな点があるようで不安は拭えないようだ。


「なんで二日経ってからそんなに悩んでんのよ」


 ズゴゴー、とストローでレモンティーを吸い上げる咲希は葉月の様子に呆れながら問い掛ける。

 結衣は弁当を食べ終わったようで、ごそごそと鞄の中を整理しているようだった。


「実は今日、柊先輩と同じ車両になりまして…というか、最近よく見かける…」


「うん、それで?」


「それが…、すっごい、睨まれたんです…!」


 それが果てしなく怖かったんだー!と葉月の中で溜まっていた何かが弾けた。

 ぼろぼろと小さな雫が勢いよく頬を伝って、わんわんと泣きじゃくる葉月に友人二人は驚いた。


「ちょ、そこまで泣くことないじゃない!」


「わぁ、柊先輩ってそんなに怖いの?」


 それでも落ち着きを取り戻した結衣はよしよし、と葉月の頭を撫でる。

 それがまた彼女の涙に拍車をかけた。


「先輩が怖い…!電車も怖い…!」


「あー、ダメだ。追い込まれてる」


 次に冷静になった咲希は額に手を当ててどうしたものか、と思案する。

 もともと柊先輩はその髪の色もあって、周囲の者から良い意味でも悪い意味でも一目置かれる存在だ。

 葉月たちが通っている高校のイケメントップ3に入るほどそれは端整な顔でルックスも申し分ない。ただ、どこか不機嫌そうな表情が目立ち、出会う子どもも泣き出すという噂を聞いたことがある。

 言ってしまえば、それが彼の天性の素質なのだから葉月が言うように喧嘩を売られるのではないか、と恐怖するのはお門違いというものだ。

 しかし、そこで一つの疑問が生じる。

 彼が葉月の方を見る必要性はあるのだろうか。葉月のいた場所はわからないが、後ろのポスターを見ていただけ、葉月の後ろの景色を見ていただけというのなら、それこそ葉月の勘違いだろう。

 だが、彼女の様子から葉月なりに自分の勘違いではない確信を持つ何かがあったのだろう。

 それは長年の付き合いからわかることだ。


「葉月、葉月。私、いいこと思いついた」


 咲希が疑問を頭の中で巡らせているところに、結衣は優しく葉月に声を掛けた。未だぐずぐずと鼻をすする葉月は、その潤んだ瞳で結衣を見つめる。


「そういう時はね、甘いもの。菓子折り、持っていこう」


 そう言って、先程鞄の中から出していた二つの香ばしい包みを見せた結衣を、葉月は心の底から天使だと思ったのだった。



***



 翌日の土曜日。有言実行とばかりに結衣は葉月を家に招き、一緒にクッキーを作っていた。

 葉月も料理下手ということもなく、少し覚束無おぼつかない手付きだが結衣のアドバイスを聞きながら慎重に生地を練り上げた。

 ちなみに、咲希はバイトである。クッキーを作り上げたらバイト先に乗り込んで相談に乗ってくれたお礼にあげようと思っている。


「じゃあ、今日は時間もあるし、ゆっくり生地を寝かせようか」


 その言葉で二人のティータイムが始まった。


「葉月は紅茶、ミルクティーかアップルティーかストレートどれがいい?」


「アップルで」


「オッケー」


 カチャカチャと小気味いい音を立ててティーポットとカップを用意する。

 計量スプーンで茶葉を入れる結衣に葉月は感嘆の声を上げる。


「いつも思うけど、結衣のところって本格的だよね」


「そう?」


「うん。私なんてティーバックだよ?それなりに色が出たらすぐに取り出すし」


「いつもこんなのじゃないけど。私も時間がなかったらティーバックだって使うし。これはほぼお母さんの趣味。茶葉集めが好きみたいで、消費していかないといけないんだ」


 言いながら湯を注いだ後に、紅茶専用なのか砂時計をひっくり返している結衣はとても手慣れている。

 更に結衣は最近お気に入りだというラスクを出し、わざわざ皿に盛り付けてくれた。なんとも至れり尽くせり状態だった。

 ここまで丁寧にされると恐縮してしまうのだが、これまた「遠慮しないでね」と言われ、おずおずとラスクに手を伸ばす。


「なんか、結衣って結婚したら凄くいいお母さんになりそう…」


「うーん…ラスク(それ)は私が作ったんじゃないんだけどね」


 客人をもてなす姿勢を褒めたつもりなのだが、結衣からは検討外れな答えが返ってきた。照れ隠しなのか、それとも素なのかがわからないが、葉月は黙ってラスクをかじった。

 砂糖がまぶされて、まろやかな甘さが口の中いっぱいに広がって幸せな心地になる。


「おいしい…!」


「でしょ?」


 満足げに微笑んで結衣もラスクを口に運ぶ。「うん、おいしい」と結衣も満面の笑みだ。


「これってどこで買ったの?」


「ここからすぐの小さなドーナツ屋さん。これも、もとはドーナツで、切ってもう一度揚げたんだって」


 へぇ、と感嘆しながらもう一度つまんでいく。うん、止まらない。

 また場所も教えるね、と言ってくれたので期待が高まる。

 紅茶もいつの間にか淹れられていて、結衣の主婦度が垣間見えた気がした。

 もちろん、このアップルティーもおいしかった。さすが。


「そういえば、二人でこうやってのんびり過ごすの、久しぶりだね」


 穏やかな沈黙から先に口を開いたのは結衣だ。その言葉に、葉月もふと気が付く。


「ホントだ。いつも咲希ちゃんもいて三人だもんね」


「学校終わってからもテスト期間以外はバイト三昧だしね」


「結衣もバイト始めたんだっけ」


「うん。成り行きで…」


「?探してたんじゃないの?」


「探してたけど、なんか想像と全然違うところに落ち着いた感じ」


「ふぅん? あ、噂に聞いたんだけど…」


「ん?」


「結衣って、君影きみかげ先輩と付き合ってるって本当?」


「―――っ、げほ、げほッ!」


「えっ、ちょっ、大丈夫?」


「大丈夫―――んんッ、ごほん」


 明らかに大丈夫そうではなさそうなのだが、懸命に喉の調子を整えようとしている様子を見守るしかできない。

 ほどよく落ち着いてきたのか、紅茶を飲んで一息吐いて、ようやく結衣が口を開く。


「―――ごめん。紅茶が器官に入った」


「うん、まぁ…そうだろうね」


「……付き合ってません」


「えっ、ホント?」


「ホント。先輩とはバイト先が一緒なだけ」


「でも、紅茶貰ったり、頭撫でられたりして仲良さげって聞いたけど」


「いったい誰からの情報なの…!?」


「私は咲希ちゃんから聞いた」


「咲希…!!」


「結構有名な噂だよ?」


「ウソでしょ!?」


「ホント」


 赤くなったり青褪めたりする結衣がなんとなくかわいそうに思えて、これ以上追求するのは憚られた。

 付き合っていない云々も正直怪しいと思える程の親密な様子の噂などもあるのだが、知らぬが仏というし…。目に見えて混乱している友人に追い打ちをかけるようなマネはする必要もないだろう。

 しかし、結衣は何やらどう話そうか悩んでいる様子だ。会話を続けられる雰囲気ではなくなった。

 

 ―――唐突に、家のインターホンが鳴った。


「…配達?今日は来るなんて聞いてないけど。…えっ」


 急ぐでもなくゆっくりと立ち上がって玄関先の映像を見に行った結衣は音を立てて固まった。

 どうしたのだろう。そんなに相手を待たせて大丈夫だろうか、と葉月が心配になった頃に、再度インターホンが鳴り響いた。


「葉月、ちょっとそこで待っててね」


 言い置いて結衣はそこで応答はせず、玄関へ急ぎ足で向かった。

 ―――誰なのだろう…?

 日頃はそこまで気にすることはないのだが、先ほどの会話もあってか好奇心がむくむくと起き上がる。

 葉月はゆっくりと椅子から離れ、リビングのドアを音を立てないように静かに開けた。

 リビングから顔を出すと、正面に玄関がある。声は小さいが、結衣と来客の姿はよく見えた。


「―――すみません、今日は午後からだとてっきり…」


「いや、あってる。あんたは十八時ろくじ出勤」


 噂の君影先輩がそこにいた。

 これは衝撃の光景である。咲希ちゃん、君影先輩は結衣の家にまで入ってきてるよ…!

 心の中でもう一人の友人に興奮気味に報告をする。

 噂をすればなんとやら…て本当のことだったんだね、と近くに咲希ちゃんがいたら語りたい勢いだ。

 この時点で野次馬確定である。


「え?じゃあなんで…」


「これ」


「はい」


 思わず受け取った、という感じで先輩の差し出した何かを手におさめる結衣は次に驚愕の声を上げる。


「え、これ、なんっ…!」


「ミルクティーだけど」


「中身入ったまま!?」


「違う。新しく淹れた」


「え…、どういうことですか?」


「聞いてないのか?兄さんがあんたにミルクティーあげたいからってあんたの母親にボトルを借りたって」


「母が?どうりで…。なくなったかと思ってました」


「いや、こっちも渡すのが遅れた。すまない」


「それは仕方ないです。オーナーもお忙しいですし」


「兄さんは淹れてない」


「はい?」


「じゃあ、今日もよろしく」


「?はい。ありがとうございました」


 どうしよう。胸キュンが止まらない。

 甘酸っぱいやり取りを見てしまった。何故かこちらがニヤけてしまう。

 今まさに結衣が見送りに立っている妻にしか見えない。

 君影先輩が玄関のドアを開けた時にふわり、と向かい風が入ってくる。

 不意に二人が不思議そうな表情で振り向いて、葉月を認めた。


「え、葉月…!?」


「……」


「あ、ご、ごめんなさい。勝手に出てきて…」


 なんと気まずいことだろう。バレてしまった。

 結衣はほんのりと赤く染まった頬のままこちらを見ているが、君影先輩はまっすぐとこちらを涼しげな瞳で見ている。見ている、というには少し語弊があるような違和感を抱いた時に彼は呟いた。


「―――花が、開く」


「え?」


「なるほど」


 一人で納得して、君影先輩はその場を後にした。

 なんだろう。謎だ。


「葉月、ごめんね。待たせて」


 玄関の鍵をしっかり閉めて、慌てて戻ってくる結衣に葉月は問いかけた。


「結衣」


「うん?」


「ホントに先輩と付き合ってないの?」


「!?―――付き合ってません!!」


 どうだか。



***



「はい、咲希ちゃん。おつかれ様のクッキー」


「やった、ありがとう!」


 瞳をキラキラとさせて喜んでくれる友人に葉月も顔がほころぶ。


「今日は特にお客さん多かったんだー。はぁー、つかれた」


「あがるまでにお客さんも落ち着いてよかったね」


「ホント。もう今日は働きたくない。そんじゃあ早速、頂くね」


 嬉々として袋を開け、こんがりときつね色に焼けたクッキーをつまんで口に運んだ。

 やや心配げにこちらを見つめる葉月に、咲希は苦笑しながら美味しいことを伝えた。


「よかった。結衣と一緒に作ったから大丈夫だってわかってるけど、手作りなんて特別な日にしか作らないから」


「あぁ、わかる。なんか手作りって自分で食べる分にはいいけど、人に出すときは凄く緊張するよね」


「咲希ちゃんも緊張なんてするの?」


「あんたも大概失礼ね。バイトでもホール担当にもなったりするからそりゃ、緊張もするわよ」


「へぇ…」


 もうひとつクッキーをつまんで咲希は満足げに微笑む。


「やっぱ疲れた時には甘いもんが効くわねー。ほんと、ありがとー」


「ううん、いつも話聞いてくれてるし。こっちがありがとうだよ」


「柊先輩にはいつあげるの?」


「日曜日の夜にもう一回作って、月曜日あたりに。電車降りたらすぐに渡して逃げようって思ってる」


「逃げるって…うん、まぁ今回はお詫びの品になるわけで告白とかじゃないからね。うん、いいんじゃない?」


「ホントは鞄の中にさりげなく入れれたらいいんだけどね」


「スリだと思われるから絶対ヤメな」


「うん。それ以前に、あの人の身長とか考えて鞄に忍ばせるなんて到底無理だしね。そこは諦める」


「目をつけられないための詫びの品っていうのがそもそも前提としておかしいんだけどね。あんたまだ高校生よ。全然色気ないわね」


「いいの。今日、甘酸っぱい青春を見れたから。私はそれだけで幸せって思えた」


「悟りに入った…?」


「それより、咲希ちゃん聞いて。今日ね、結衣のところにね―――」



「遅い」



 唐突に聞いたことのある男性の声が耳に飛び込んだので葉月は驚いた。

 対する咲希は剣呑な眼差しで言葉を発した男性に顔を向ける。


「何よ、スバル」


「待ってたヤツにそれかよ。最近、変な奴がこのあたりに出るって言うから咲希の母さんに頼まれてきたってのに」


「あたしは頼んでない」


「言ってろ」


 ムスっとふてくされながらもこちらに近づいてくる茶髪の好青年はさりげなく咲希の鞄を手に持った。

 あまりにもさりげない仕種に咲希も反抗するタイミングを逃してしまったようで一瞬だけ愕然としていた。


「ちょっ、返しなさいよ!」


「早く帰ろーぜ」


「人の話を聞け!大体、あんたの出る幕はない―――」


「それじゃ、咲希ちゃん、ばいばーい!!」


「あ、葉月!?」


 お邪魔虫になりそうな予感がしたので急いで駅への道のりを駆けていく。

 後ろの方で何やら咲希ちゃんが昴流すばるくんに怒っている声がしているが気にしないように努めた。

 昴流くんは、我が校のイケメントップ3次期候補に入る男の子だ。葉月たちから見ると一つ下の後輩にあたり、咲希にとっては幼馴染である。

 昴流くんの咲希への想いを知っているだけに、葉月と結衣はいつもやきもきしながら二人の様子を見守っている。咲希も何か気付いているだろうに、なかなか発展していない現状は果てしなく謎だ。


「結衣に先越されちゃうぞー」


 なんとなく面白くなって一人で呟いてみる。結衣も今日のは近所付き合いのひとつだと頑なに認めなかったが、これからどんどんと変わっていく気がする。それが楽しみだ。

 だって、二人はかわいい。友人としての贔屓目もあるが、結衣はおっとりしている雰囲気があって和むし、咲希は姉御肌というのもあって凛々しくって頼りがいがある。

 それだけでも十分に魅力的だが、そこに更に美しい何かが加わっているように見えるのだ。それが、かわいい。

 いいな、と思う。けれど、自分にはまだ早いな、とも思う。


「せめて好きな人がいたらなぁ…」


 月曜日には怖い人に立ち向かわなければならない、なんて自分は本当に色恋沙汰には向いていない。

 ひしひしと感じながら、あっという間に駅に着き、帰りの電車に乗り込む。

 使う線が高校へ行く線と同じなので慣れた道のりだ。土曜日の夕暮れどきというのもあり、電車内は人でいっぱいだった。座れる席は一つもなく、吊革を持つ人も多い中、葉月は開閉する扉付近の手すりに身を寄せる。

 お菓子作りと移動の連続で少し疲れた。これが日曜日だったら、と思うと心労も合わさって大変なことになっていただろうと予想がつく。月曜日に謝罪イベントがあるのだから、心を休めるクッションとしての時間がなければやっていけない。わざわざ土曜日に時間を開けてくれた結衣には頭が下がる思いだ。


 ―――ひとつため息を落とした時だ。


「―――?」


 膝裏にかすかな違和感。最初は混雑している中で電車の揺れで誤って触れたのだと思った。

 しかし、それは明確な意思を持って少しずつもも裏に上がり、さわさわと撫であげられた。


「―――ッ」


 痴漢、という言葉が頭に浮かぶ。

 そんなはずない、と自分に起こっていることを認めたくなくてその手から逃れるように身をよじってみるが人混みの中ではそれすらも難しい。むしろ、それは相手に有利に働いたようで、電車の揺れで一瞬、足の間に手が入り込んだのを感じた。それほどに近い距離になったのもあり、手の主であろう人の息遣いも聞こえた。一気に鳥肌が立ち、声を上げたいのに恐怖で喉が詰まる。

 怖い。イヤだ。離れて―――!!

 次の駅では絶対に降りる、早く違う場所へ。やだ、やだ―――。

 かちかちと口が鳴りそうなほどに身体が緊張しているのがわかった。

 だから、後ろの喧騒があまり聞こえていなかった。不意に横に立った人影から発された声が耳に届くまで。


「おっさん、その手、現行犯で捕まえるぞ」


 えらくドスの効いた声だったので恐怖が倍になった錯覚を抱いた。

 ―――後ろと横からの攻撃だなんて…!

 感極まって、堪えていた涙がぼたぼたと落ちた。

 後ろで「ヒッ」と引きつった声が聞こえたような気がしたが、もう葉月はそれどころではない。

 電車が駅に着き、無我夢中で駆け出した。

 しかし、あともう少しで下りの階段だというところで、誰かに腕を掴まれた。


「おい、お前が逃げてどうすんだ―――」


 振り返ると赤髪の柊先輩がいた。だが、その端整な顔を不機嫌そうに顰めて鋭い眼光を飛ばしてくるものだから葉月の混乱は頂点を極めた。


「怖い人ぉーーー!!!」


 あらん限りの声を張り上げて、葉月はその場で泣きじゃくった。



***


「あの…大変、ご迷惑をおかけして…えと…」


「……」


「助けて頂いて…しかも警察沙汰…」


「見事に仇で返しやがったな」


「あぅ…すみません。…本当に…申し訳ないです…」


「わかった。わかったから泣くな。めんどくさい」


 ところ変わって、降りた駅近くの公園。二人はベンチに腰掛けて先ほどのことを話していた。

 と言っても、葉月が一方的に謝罪を繰り返して、柊がその場で適当に返事を返しているだけなのだが。


「だって、尋問室行き…」


「来たのは三人で詳しい話聞かれただけだろ。それに、もう済んだことじゃねぇか。いい加減落ち着け」


「本当に、お詫びしてもしたりない…」


「くどいぞ。涙拭け」


 言ってそっぽを向く柊に、またもや申し訳なさで涙が溢れる葉月である。キリがない。

 これには、先程起こった事件が関係している。

 電車の中で葉月は痴漢にあってしまった。恐怖のためにその場を脱兎のごとく逃げ出したのがいけなかったようで、腕を掴まれた途端に助けてくれた柊本人にありえない叫びをホームに響かせてしまった。

 それが原因として見られた柊は、何故か恐喝と痴漢の疑いをかけられて先程まで個室で事情聴取をかけられていたのだ。

 彼の言った通り、完全に恩を仇で返している。

 結果的には、その痴漢本人を柊が一緒にホームへ突き飛ばしていたため、真犯人逮捕となり、汚名も返上された。涙ながらに「柊先輩は違うんです…!」という葉月の言葉は聞き入られていたかどうかはわからない。

 だが、今思い返しても大変な修羅場だったと思う。そこに多大な労力と迷惑をかけた自覚はあるので葉月はこの空気をどうしようとまだ混乱している頭であれこれ考える。

 唐突に、柊が席を立つ。あぁ、大変だ。背中が遠ざかる。

 たくさんごめんなさいを伝えたいのに。まだ、何もお礼してないのに。

 行ってしまう。でも、涙が止まらない。涙が出ているから、きっとうっとおしくなったのだ。

 今、追いかけても話は聞いてもらえないだろう。それ以前に、まだ立てる気力が残っていない。

 どうしよう。どうしよう。

 柊の姿が見えなくなった。

 ここには、自分ひとり。

 行っちゃった。どうしよう。とても、心細い。

 涙は、止まらない。だって、怖かった。始めてだった、あんなの。あんまりだ。

 泣いたら負けだ、と心の奥底で思っていた。でも、あっけなく泣いてしまって、弱さをさらけ出してしまったようで悔しくって恥ずかしくって――――。

 本当に、怖かったのだ。どうしようもなく。


 穏やかな風が頬を撫でたのを感じた。まるで、慰めてくれているようだ――――。


「やっぱ、まだ泣いてんだな」


 ハッと顔を上げると鮮やかな赤色の髪が瞳に映った。夕焼けが沈むその光を背に、彼は呆れたようなため息をひとつ吐いた。


「これで、涙拭けよ」


「え…」


「あと、コレ飲んで落ち着け。オレも喉渇いた」


 黄色のふわふわとした女の子らしいハンカチと紅茶のペットボトルを手渡され、呆然としている葉月の隣に彼はドサッと腰掛け、手元の缶コーヒーを飲んだ。

 ハンカチと紅茶、彼を交互に見て、またもや困惑する。

 これは一体――――?


「紅茶、あけてやろうか?」


「あ、いいえ、あけれます。…あの、お金」


「んなの、奢られとけよ。大したモンじゃねぇんだし」


「いえ、でも…はい」


 段々と厳しさを増す眼差しに耐え切れなくなって、視線を外す。

 言われた通りにもらったハンカチで涙を拭い、ペットボトルを開ける。


「あ…アップル?」


「苦手か?」


「いえ、大好きな味です」


 結衣の淹れてくれたものとは違う風味でも、慣れ親しんだ味に心がようやくほぐれたような感覚を味わう。そうして、同時にあることを思い出した。


「あの…、クッキーは食べられますか?」


「は?」


「いえ、お詫びに…。本当は月曜日にお渡ししようと思っていたんですけど…」


「詫び…?まぁ、食べれるけど…」


「今、出しますね」


 鞄の中に入っていたタッパーを出して、彼に差し出す。


「どうぞ」


 本当にあったのか、という顔をされたが、ひとつつまんで口に運んでくれた。


「うわ、うめぇ」


「よかったです」


 クッキーでそこまで驚愕する人も初めて見たのだが、喜んでいるようで安堵する。

 彼はもうひとつ、と次々に口に運ぶ。


「今日は助けて頂いてありがとうございました。先日も、おばあちゃんに席を譲ってくださるようにわざわざ言ってくださってありがとうございました」


「あぁ…アレね。あのおっさんは前から態度デケーなって思ってただけだから別にお前は関係ねぇんだけどな。引き止められたのは意外だったけど」


「家路を邪魔してしまって申し訳ないです」


「オレはどんだけ狭量なんだ。んなこと思ってねーよ」


「?でも、あれから怒っていらしたんじゃ…」


「は?なんで?」


「目があった途端、とても怖い顔をしていました」


「……。怒ってねーよ」


「えっ」


「まぁ、でも。怖がらせたんだったら謝らなきゃな。生まれつきなんだ、許せ」


「いえ、私こそ失礼なことを」


「ホントにな」


「…はい」


 では、結局は葉月の勘違いだったということか。

 なんという人騒がせなんだ。結衣と咲希ちゃんに後でたくさん謝ろうと心に誓った瞬間である。


「…なぁ、オレってそんなに怖いのか?」


「……他の人は『イケメンでかっこいい』って言ってましたよ」


「お前は?」


「……かっこいいとは思っています」


「…コワイは確定なんだな」


 なんだろう。この問答はおかしくないだろうか。

 こちらの顔を覗き込むような姿勢でクッキーを頬張る彼が違う意味で怖い。


「まぁ、いいや。完全に悪い印象は持ってないってことはわかった。ところで、お前、俺の名前知ってるか?」


「はい。柊先輩ですよね」


「お前の名前は?」


林堂りんどう 葉月です」


「…偽名か?」


「えっ、本名です」


「まぁ、そりゃそうだろうな。お前みたいな素直なヤツ、ウソついても絶対わかる自信ある」


「…凄いですね。友人にもよく言われます」


「天然か」


 不思議だ。あれほど怖いと思っていた先輩と今では普通に話しているこの状況が。

 気持ちが落ち着いてきた、と柊先輩も感じたようで、最後のクッキーをつまんで席を立った。


「おし、帰るか」


「はい」


「しゃあねぇから送ってってやるよ」


「いえ、これ以上ご迷惑は…」


「送られろよ」


「あ、はい」


 タッパーを鞄に詰めたと同時に腕を掴まれ、そのまま駅へと歩みを進める先輩に引っ張られていく。

 強引な口調であったが、腕を掴む力は緩く、歩幅も葉月に合わせてくれている。

 そのことに気付き、葉月はハンカチとアップルティーを持つ手を胸に抱きしめ、淡く微笑んだ。

 

 怖い人。だけど、優しい人。なんて温かい人。

 たとえ、この手が離れてもまた、機会があれば挨拶はできそうな気がする。

 ささやかな勇気がゆっくりと心の中で芽生えるのを感じながら、彼と家路を辿った。


 その先で、彼からアプローチを受けることになるとはこの時の葉月は思いもしなかったのだった。



***


 カランカラン、とドアベルが音を立てて開いた。

 それと同時に、ふわりとかぐわしい花の香りが風と共にスズラン・カフェ内に吹き込んだ。


「いらっしゃいませ。あら、ヒツジさん?」


 出迎えの言葉の後に、ゆっくりと歩みを進めるものに結衣は瞳を丸くする。

 風と共にやってきたのは、二本の角を持つ、ヒツジの形をした何かだった。

 毛皮には大小様々な暖色の花が咲き誇っており、ヒツジが歩みを進めるたびにゆっさゆっさと揺れて花の香りが広がる。

 重たそうな見かけによらず、空いてる席を見つけると身軽に飛んで席に落ち着いた。

 何か嬉しいことがあったようで、ヒツジの表情にもお花が舞っているように見える。よくよく見てみると、左右に揺れている。上機嫌だ。


「おっ、【幸花気流こうかきりゅう】じゃないか。見事に咲いたなぁ」


 オーナーである君影 陸人がヒツジに陽気に話しかけた。

 ヒツジは更に花を飛ばして微笑んだ。


「えぇ、良い“気”を分けてもらって。…不器用な恋だがお蔭で花が開きました」


 朗らかに話し込んでいる二人に、厨房付近に戻った結衣は首を傾げる。


「【幸花気流】…?」


「幸せを花開かせる気の流れのこと」


「あのヒツジさん、気流なんですか?」


「ヒツジの形をしてるのは初めて知った。いつもは風に包まれてる。ここはその場に留まれる結界も張ってあるからああして姿を見られるんだろう」


「なるほど」


「【幸花気流】はすべての成功、成就に導く力を持っている。その力を授かれば人生の春が来たみたいに、望んだ幸せが次々と花開く、と言われている」


「あぁ、だからお花に包まれてるんですね」


「昼間の風はやっぱり【幸花気流】のものだったか」


「あ、私の家に入ってきた不思議な風ってあのヒトだったんですか?」


「ああ。…アップルティーだ。クッキーはちょっと待ってもらう必要があるな」


 海人は瞳を細めて、ヒツジを注意深く見つめた。

 結衣も、今ではこのカフェのウエイトレスとなり、客の注文の見方がわかった。

 食べたいもの、飲みたいものが客の頭上に吹き出しとして出てきて、見えるのだ。

 頭の中でイメージしたものがそのまま映像として見られるような仕組みに自然となっているようで、働き始めの頃はとても驚いたのを覚えている。


「クッキー…。あ、先輩、私持ってます。きっとそれで満足していただけます」


「…そう。じゃあ、それ出して」


 少し考えた海人を背に、持ってきた鞄の中に入れていた小さな包みを取り出す。

 今日、葉月と作ったクッキーがそこに入っていた。


「ホントはミルクティーのお返しにあげたかったんだけど…。今日はヒツジさんにあげてもいいよね。きっと、葉月の作ったものがヒツジさんも食べたいだろうし」


 大切な友人に何か良いことがあったのだ。

 その幸せを運んできてくれたのがあのヒツジさんだというのならばお礼をしなければ。


「先輩の分は、また明日作ろう」


 周りにスズランの模様が描かれているアンティークなお皿にクッキーを出して、アップルティーと共に運ぶ。


「やぁ、お嬢さん。噂はかねがね…」


「はい、佐々木 結衣と言います。アップルティーとクッキーです。ゆっくりしていってくださいね」


「おぉ、これだ。これだ。これが食べてみたかったんです。ありがとう」


「おお、【幸花気流】ではないか。長い旅路ご苦労さんじゃ」


「ペンペン殿。あなたも変わらず」


「見事に咲いたものよ。この後はどこに行くのかの?」


「仲間を探しに行くのです。花が咲いたら、次は実らせねば。メェいっぱい頑張るのです!」


「ほっほっ、では今宵限りの逢瀬。存分に寛ぐとよろしかろ」


「なんでペンペンさんが仕切ってんだよ。まぁ、そういうことだからゆっくりしてってくれ」


「かたじけないです」


 そう言って、花香るヒツジは始終花を舞わせて店内を明るく華やかせたのだった。




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