ゲームとリアル
その二本足で立つ獣は、鋭い牙を光らせ、眼には狂気の光を宿していた。
たてがみは怒りで逆立ち、その爪はここへ訪れる者を何人も死へと届けてきたのだろう、と分かる。
人狼。ウェアウルフだ。
「皆。戦闘体制を取って。サンドラは銀製の装備に持ち替えて斬りつけて。ツキモリはサンドラの援護」
りりしく、透き通った女の声がこだまする。
「…了解。言われなくてもすでに、装備は交換している」
サンドラと呼ばれた女騎士は冷静な声で答える。
そして、俊敏な動作で異形の怪物のところへと駆け寄り、斬りかかる。
銀特有の光を帯びたその剣―シルバーロングソードが、ウェアウルフへと振り下ろされる。
「ッ…!」
すんでのところで、ウェアウルフにかわされてしまう。
ウェアウルフは剣をかわすため飛び退いた姿勢のまま、バネのように跳躍してサンドラの懐に飛び込む。
「ぐっ」
ウェアウルフの爪がサンドラの肩に喰い込み、肉を削ぐ。
幸い致命傷はまぬがれているものの、女騎士の肩口の傷は深く、血に染まっていく。
しかし次の瞬間。傷口は淡い光に包まれ、そして光は傷口を見る見るうちに塞いでいく。
「ありがとう。ツキモリ」
ツキモリと呼ばれた魔術師は微笑をたたえそれに答える。しかし、すぐに表情を引き締める。
「サンドラさん、次が来ます!」
獣は再度サンドラの位置まで跳躍すると、今度は外さぬとばかりサンドラの首筋を目がけて爪を振り下ろす。
だが、その腕がサンドラに届くことはなかった。
シルバーロングソードが今度は正確に目標の腕をとらえ、退魔の銀の力がウェアウルフの腕を一瞬で切り落としたのだった。
「リョウ、止めを」
先程の女の声が言うか言わないかのうちに、黒い影が動く。
助走も付けずに、高く跳躍する。
リョウと呼ばれた男のデュアルブレードは、ウェアウルフの心臓を正確に貫いた。
ウェアウルフは最後の断末魔をあげると息絶える。
そして、地面には「この世界」の通貨―アゼナが落ちる。
35アゼナ―それがこのウェアウルフを倒した代償として手に入れた金だった。
どういった仕組みになっているのか、皆目検討もつかないがこの世界のモンスターは皆、倒すと通貨を落とす。
「…進むぞ。雑魚に構っている暇はない」
リョウは先ほどまで戦闘をしていたという様子を微塵も見せずに、誰にともなく言う。
「そうね、先は長いわ」
先程まで戦闘を指揮していた、セリーナは答える。
しっとりとした質感の長い髪が美しい。
おおよそ戦闘には向いていないと思われる華奢な肉体からは、高貴な一族のものと思われる気品が漂っていた。
―そう、このセリーナこそが、「私のキャラクター」だ。
このゲーム、「ブラッディプレッジ」は世界中で大人気のMMORPG。
いわゆる「ネトゲ」というやつだ。
私は大月加子。このゲームにどっぷりハマっている女子大生。
とは言っても、大学にはもう長いこと行っていない。
最後に行ったのは―いつだったろう?
別に大学が面白くなかったわけじゃない。
単に、このゲームが面白すぎただけだ。
それにこのゲームでは私のやることは多すぎるほどあった。
私はギルドを率いるプリンセスのキャラクターだったから、ギルドへの入脱退などの仕事は毎日のように発生した。
お互いに顔は見たことはないし、文字でのやりとりしかなかったが、毎日のように「狩り」に出かけてモンスターを狩った。
このゲームではキャラクターが勝手にロールプレイしてくれるから、私はいつでも的確な指示を出せる優秀なチームリーダーとしての役割をこなすことができた。
とにかく、毎日が面白すぎた。
今、私の―「リアルの」私の周りには、食べ散らかしたカップ麺が散乱していた。
一人暮らしの生活は本当に気楽だ。
私は一息ついて、お茶のペットボトルをそのままラッパ飲みする。
将来がどうなるかなんて分かったものじゃないけど、私の人生なんてそう大したものにならない。
だったら、私は「この世界」で、皆のチームリーダーとして生きていたほうがずっと幸せだと本気で思う。
人には気持ち悪いと言われるのかもしれない。そういうのも、少しだけ気になるけど、そういう人たちとはどうせ分かり合えることはない。
ゲームやったことない人達はすぐゲームやってる人をばかにする。
それが我慢ならないのだ。我慢ならない思いを、ゲームをやることで解消する。
パーティのみんなも口にはださないが多かれ少なかれそんなことを思っているはずで、そんなことを思っているんじゃないかという推測だけが私のモヤモヤを幾分晴らしてくれた。
一息つこうか。
そう考えていると、サンドラがチャット画面で言う。
「ちょっと夜ぐらいまで落ちますー」
先ほどの凛々しい女騎士の様子とは違い、ロールプレイモードを解除しているからなんとなく間延びしたようなセリフに映る。
そのギャップのようなものも、このゲームの魅力かもしれなかった。
ふつう、ネトゲというのはパーティを組んで狩りをしているときに、そんなに簡単に離脱できるようなものじゃない。
誰かが落ちてしまえば、特にサンドラのような前衛が落ちてしまえばパーティとしては崩壊する。
だがこのゲームは、ロールプレイモードが非常に高度にシステムに組み込まれているおかげで、ゲーム内のキャラクターを自動操縦に切り替えることができるのだった。
いわゆる「放置ゲー」としての要素を組み込んだMMORPGとなっていることも、このゲームの魅力だった。
「了解。じゃ、私も落ちます、また夜に」
私はそういうと、皆に別れを告げ、キャラクターを自動操縦に切り替えてふーっと伸びをした。
またカップ麺でも食べるか。
そう思って振り返ると、そこには異形の怪物がいた。
全体としてはカエルに似た顔と、異様に背の丸まった、毛むくじゃらの体躯。
私より二回りぐらい大きく、首は亀のように伸び縮みできるようだった。
その怪物が、口から何か腐臭のする緑色の液体を撒き散らしながら、私の顔を不思議そうに覗き込んでいた。
生暖かいそいつの鼻息が私の顔にかかり、前髪がぶわっ、と揺れた。
その顔はどんどん私に近づいてくる。
私はゲームの話をしているわけではない。
これは現実なのだ。しかし、現実にこんな怪物が…
声が出なかった。
私の耳に抑揚のない声が聞こえてくる。
それが何かずっと繰り返している。
「キヲツケロ」と言っているのだ。私は何回か聞いてやっと認識した。
何が何だか解らなかった。
気を失ったほうが楽だと私の脳が無意識に判断したのかもしれない。
私の意識は、そこで途切れた。
<つづく>