彩 回想
彩の身体の中を爽やかな一陣の風が吹き抜けていったようであった。今まで生きてきた中での漠然とした不満や不安、それに目の前の優二への心配も薄らいでゆくようだ。不思議と心が落ち着き、闘争心は遠ざかっていった。それが目の前に出現した異生物によるものであることに、彩は気付けなかった。癒されるような穏やかな波の中に、彩の精神はゆったりと浮遊していた。敵の存在など全く気にならない。自他を隔てる境界がドロドロと融けて崩壊していくようであった。次第に意識が遠のいていく。どこまでもどこまでも、自分の内側へと潜りこみ、遂には自分が何者なのかさえ意識できない状態に陥っていた。
意識が戻ったと思った時、彼女は仲間達と戦禍を避けて逃げ惑っていた。街の至るところで火の手が上がっていた。彼女は怪我人や弱者を誘導しながら、被害の少ない地区へと逃げた。敵の力は圧倒的で、彼女とその仲間はその攻撃に右往左往するばかりであった。彼女の愛した住居も、親兄弟達も、降り注ぐ敵の火炎弾によって焼き尽くされた。幼い子供達が泣き叫んでいる。老人がこの世の終りよと達観して炎の中に身を投じる。こんな戦いがもう何年も続いている。いつ果てるとも知れない永い永い戦い。その戦いに終止符がうたれる日も間近と思われた。もう彼女達の同胞はほとんど残っていない。このまま絶滅してしまえば、当然戦いも終わる。彼女達の一族は絶望の淵に立たされていた。何としても生き延びなければならなかった。
そんな悲嘆に暮れる彼女のもとに朗報が届いた。この世界と隣接する異次元世界に、自分達が暮らせそうな世界が見つかったと言うのだ。進化の過程で自分達と分岐し、好戦的な種族となった亜種である現在の敵から遁れるには別世界に逃げ込むしかない。現状ではどのような戦い方をしたとしても、彼女達が勝利を収めることは不可能なのだ。移住候補地には大型の捕食動物がいないことが分かり、移住計画は俄然現実味を増していった。避難民達は歓喜の声を上げた。このままでは絶滅か奴隷として生きるしかないと誰もが諦めていたのだ。一条の希望の光が射した。これで死ななくてすむ、みんな幸せに生き続けることが出来るのだ。
移住先の状況を把握するために、何度か探査隊が出された。報告は彼女達を失望させるものであった。
“難有り”
彼女らを拒む何者かが、彼女らが希望する移住先に存在するらしいのだ。
彼女は異次元侵攻部隊の一員として志願した。どのような障碍が待ちうけていようとも、自分達が生き残るには何としても敵の攻撃の及ばない世界を手中に治めるしかないのだ。そして一民間人である彼女も、種族の存続を賭けて偵察隊として参戦した。
だが、彼女が勢い込んで参加した戦場は惨憺たるものだった。偵察行為を主目的としてつくられた彼女達の隊は総勢30名。最初から戦闘を目的とはしていなかったので、女子供、年寄りが中心の部隊であった。兵士達の多くは防衛作戦を実行中であり、また300名の先行部隊は移住予定地に移動後に連絡が途絶えていた。
現地の知性体との接触は極力避けて、とにかく地形や気象、物理的な特性などを観察したら速やかに撤収する予定であった。そして消息不明の先行部隊と合流することが主な任務であった。しかし、偵察隊の目の前に現れたのは、この世のものとも思われない奇怪な怪物であった。突然の怪物の出現にみな恐れおののいた。後から移動した彼女も、その醜怪な生物を見て我が目を疑った。このような生物が現実に存在しているとは。
怪物は草に何かを巻きつけ、引き抜こうとしているようであった。自分達の出現に気が付いていることは間違いないと思う。が、その行為は何をせんがためなのかは理解し難かった。
「あれ、何これ! ヤダ、抜けない! どうしよう」
怪物は何か信号のようなものを発したが、彼女にはどのような意味なのかは分からなかった。やがて怪物は草を引き抜いた勢いで尻餅をついたようであった。その仕草は鈍重で、とても知性の高い生物のようには思えなかった。
「痛ぁ~! もう最悪! 血ぃ出てるし」
怪物の脚からは赤い血が流れ出していた。彼女はゾクリと身体を震わせた。二本しかない脚、そこから流れる赤い色をした体液。このような怪物の存在を、ここにいる有志の偵察部隊の内の誰が想像し得たであろうか?
「畜生ぉ、よくもやりゃあがったな」
怪物は一声大きく咆哮するや、いきなり偵察隊の先頭に襲い掛かってきた。引き抜いた草を武器にして振り回し、その一撃によって彼女の同胞5名が最初の犠牲者となった。そこからはもう悪夢のようであった。こちらには全く攻撃力は無い。もちろん防御力も無い。まるで無力な偵察部隊は次々と怪物の振るう草の武器によって息絶えていった。
30名の偵察部隊が半減するのに10分と掛からなかった。その時点で既に勝敗は決している。が、怪物は執拗に襲い掛かってくる。生き残るための楽園を求めての偵察行が、まさかこんな惨劇に変わり果てるとは、一体誰が想像し得たであろうか?
もう止めて! もうこれ以上命を奪わないで!
そんな彼女の心の叫びも、結局この二本足の怪物には届かないようであった。彼女は8本の脚で必死に逃げ惑った。こんなところで死ぬ訳にはいかない。一族の命運を賭けて、やっと見つけたこの移住先の偵察隊としてこの地に来たのだ。こんな馬鹿馬鹿しい死に方は出来ない。何としても生き延びなければ。死んでいった友人や親兄弟、みんなのためにも生きなければ。
次の瞬間、彼女は青緑色の血溜まりの中に息絶えていた。




