ユージ沈黙
猫の名前は“ミィ”といった。優二がまだ小学校にあがる前に家に来た。猫が来た当時の経緯については全く憶えていないが、優二はまるで兄弟のようにその猫とじゃれあっていた。同じ年頃の友達は何人かいたが、“親友”と呼べるのはミィだけだった。言葉は通じないけれども、いつしか優二とミィは心でつながることができた。人間同士は言葉を使ってお互いを理解し合えるはずなのに、実際には言葉の通じない猫の方が心を通わせることが出来たのだ。子供のこととて、畜生の寿命など考えるはずも無い。優二はいつまでもミィと一緒に過ごせると思っていた。
だが、別れは突然来た。
優二の目の前で、ミィは大型トラックに轢かれ、動かぬ肉塊と化した。たった今まで生きていた優二の兄弟が、あの愛らしい微笑みが、暴走トラックによって一瞬に奪われてしまった。それは確かに猫だった。優二が愛してやまないミィだった。それが今は、まるでボロ雑巾のようにアスファルトの上に横たわっている。
優二が人を殺したいと思ったのは、この時がはじめてだった。
優二はトラックを恨んだ。そしてもちろん、トラックの運転手も憎んだ。いつの日か絶対に殺してやると誓った。それによって自分がどんなことになってもいい、ミィの仇が討てるなら自分はどんな報いでも喜んで受けよう、と思った。そして、涙が枯れるほど泣いた。
小学4年の時、優しかったおばあちゃんが死んだ。優二は祖母に怒られた記憶がなかった。いつもニコニコと微笑んでいて、会う度にお小遣いをくれた。そんな祖母が突然入院し、手術後に還らぬ人となった。難しい病気で、気が付いた時はもう手の施しようもないほど病状が悪化しており、手術の甲斐もなく死んでいった、と優二は聞かされていた。
しかし、実際は違った。
病院側のミスで、祖母は亡くなっていたのだ。しかも、両親は病院からの多額の見舞金を受けることにより、その事故を表沙汰にしないことに同意した。
それほど特殊なケースではない。しかし、まだ小学生の優二にはそれが全く理解出来なかった。何かの弾みで聞くとはなしに聞いてしまったのだ。祖母は病死ではなく、医療事故によるものだと。口封じの名目で、両親が多額の口止め料を手にしたことを。
どうしようもないことと諦めていたおばあちゃんの死が、実際には病院に殺されていたこと。そして両親は金欲しさにそれを無かったことにしてしまったこと。これは優二少年には耐えられないことだった。医者も憎い。両親も許せない。大人の醜さに絶望し、子供心に人生が嫌になった。
エリート、とはいかなかったが、それなりの会社に就職して、後は安定した人生をおくれるものだと思っていた。順風満帆などということではなく、そんなにイイこともない代わりに、そんなに酷い目に遭う事もなく、平穏な日々をおくることが出来ればそれで十分、と思っていた。実際、自分はそんな感じで一生を終えるつもりだった。世の中には若くして頭角を現して大社長になるヤツもいれば、スポーツや芸能で才能を活かして大きく当てるヤツもいる。でも、それは自分とは縁遠い世界のこと。自分はどこまでも控え目に、欲もかかずに“普通”の人生を歩めばそれでいいと思っていたのだ。
だが、不況は彼を蚊帳の外には置いておいてくれなかった。
リストラされ、特技も資格も無くつぶしも利かず、いつまで経っても再就職の目処は立たなかった。いよいよ困ってアルバイトやパート仕事で凌いだりしていたが、結局妻と娘は優二を見捨てて家を出て行った。その時の、深い悲しみ、憤り。
リストラされた時にももちろん怒りや憎しみ、悲しみがあった。だが、家族に捨てられた時の無情は、それどころではないほど重かった。それまでは家族のために頑張ってきたのだ。これからは何を糧に生きていけばよいと言うのか。何の目標も無く、何の目的も無い。夢もないし希望もない。何がいけなかったのか? 誰が自分の人生をこんな風に変えてしまったのか?
その他にも数え切れないほどの怒り、憎しみ、悲しみを経験してきた。
大きな地震・津波、台風、大雨などによる自然災害。その被害状況を見るたびに心を痛めた。
世の中に蔓延る差別や偏見、弱者を顧みない金権政治。腐り切った官僚主導の政治。そんなものにも毎日のように怒りを感じていた。
鬼畜としか思いようの無い殺人鬼の所業。会社組織を私する大企業のトップ。怠慢や誤魔化しの末の悲惨な人身事故。そういう身勝手で自己中心的な加害者をいつも憎いと思っていた。
本人でさえ時の彼方に忘れ去ってしまっていたような想いが、忘却の封印を解かれ一度に優二の頭の中に逆流した。優二の頭の中は、怒り、悲しみ、憎しみの濁流に呑み込まれた。そして理性は、そのあまりにも激しい負の感情を否定する。それが限界まで達して、ついに優二はオーバーヒートした。
敵の大軍を目の前にして、二刀流で勢い込んで出陣した優二は、その場でガクリとひざを折り前のめりに突っ伏した。
監視していた光が、その異常を察知して慌てふためく。
〈ユージさんが活動を停止してしまいました、どうしますか〉
「何それ、どういうこと?」
彩は突然の報告になす術も無い。
〈ユージさんは動きません。包囲されてます〉
「助けなきゃしょうがないでしょ! はやく黒玉で移動して!」
〈敵はユージさんの周りに結界を造っています。その中には入れません〉
「じゃあどうすればいいのよ! 優二のところへも行けないの?」
彩はその時はじめて、“優二”と名前で呼んだが、全く意識はしていなかった。
〈結界の外なら大丈夫です〉
「だったら早く!」
次の瞬間、彩は膨張した黒玉に呑み込まれて消えた。




