恐怖
前方およそ50メートル先。緑の平原がそこだけ黒い染みのように見えた。かなりの大軍である。一体どのくらいの数の敵兵が群がっているのか、ちょっと見当がつかなかった。
だが二人は全く臆していなかった。こちらには秘密兵器“ノートゥング”がある。これさえあれば今までの数倍の効率で敵を撃破することが出来る。何しろ相手は物理的攻撃が出来ない。つまり手も足も出ないのだ。引っ込まないだけモグラタタキよりも簡単である。
〈精神攻撃に気を付けて下さい〉
「ああ、分かってるよ」
優二の理解している“精神攻撃”とは、初戦で経験した頭痛の延長のようなものだ。あの程度の攻撃で自分がどれほどの戦闘力を削がれることだろうか? あの時同様、相手に攻撃の余地を与えないほどに素早く壊滅に追い込んでしまえばいい。おそらく最後は逃げるのに精一杯で、攻撃を仕掛けるどころではなくなることだろう。優二にも彩にもそういう驕りがあった。そう、彼らにとって今回の戦いは敵を倒すためのものではなく、聖剣“ノートゥング”の威力を実感するためのものでしかなかった。“勝敗”などというものは始めから意識していない。
優二と彩は二人並んでゆっくりと敵の群がるポイントへ歩を進めた。戦いの意識は希薄である。左右に分かれて挟み討ち、などという戦略的なことを考えようとも思わない。ただ二人、思い思いに敵を倒していけば最終的な目的は達せられるだろう。
「どっちがたくさんやっつけられるか競争」
彩が楽しそうに優二を見る。鬱屈していた思いを一気に吐き出そうと思っているようだ。
「いちいち斃した数を数えろってか? 数えなくたって俺の方が多いに決まってるじゃないか」
「えー、年寄りには負けないと思うんですけど」
「バカ、誰が年寄りだ」
二人ともレジャー気分になってしまっている。全く緊張感を欠いていた。二度の大勝と、今回までの間が開いてしまったことで、気持ちが弛緩し切ってしまっていた。
敵の集団まであと20メートルくらいまで迫った時、異変は起こった。
「何これ、イヤだ!」
彩が頭に手を当てて表情を歪ませていた。だが、優二はそれ以上に苦悶の形相を見せていた。頭痛ではない。全く痛みは感じなかった。ただ、どうにも我慢出来ない、今すぐ逃げ出してしまいたいような気持ちが込みあげてくる。何が危険なのかは分からないが、この場にいることが耐えられないように感じてしまっている。
「どうしたのコレ、何かすげぇ気持ち悪いんだけど」
精神攻撃だ、と優二は了解した。頭痛のような感覚的な痛みではなかった。そう、それは確かに精神に直接作用するかたちの攻撃であった。二人の感じているのは“恐怖”である。具体的に何かが怖いというわけではない。対象など全くない状態で“恐怖”だけを感じさせられてしまっているのだ。そして、その作用はやはり優二の方がより大きいようだった。最初は何が起ったのかも全く理解出来ず、あまりの恐怖にもう少しでパニックを引き起こすところであった。
困惑して優二を頼ろうとした彩だったが、優二が自分以上に苦しさに喘いでいる姿を見て、なんとなく何が起ったのか理解した。おそらく自分の方が敵の攻撃の影響が少ない。優二はこの後、戦えるかどうか分からない。だとしたらここは自分が戦わなければいけないのだ。彩は恐怖に負けまいと闘志を奮い立たせ、敵兵の群れへ踊りこんで行った。
一方、優二の方は今にも逃げ出さんばかりに狼狽していた。恐怖に捉われて一歩も前へ進むことが出来ない。ただ、それでも理性は残っている。これは自分の脳に細工して“恐怖”を喚起させているだけであって、本当に怖いモノなどないのだ。本能に直接作用して呼び起こされる恐怖を、理性の力で封じ込めることが出来れば戦闘行為を行なう上でなんら支障となるものではない。それは分かっているのだが、この今まで味わったこともないような恐怖を制御することは優二にとって非常に至難の技であった。
今にも破裂せんばかりに早鐘を打つ心臓を押さえつけて、霞む目で前方を凝視すると、そこには敵兵に踊りかかる彩の姿があった。彼女も敵兵の精神攻撃に晒されていたが、何とか恐怖心を封じ込め、勢いで敵兵を薙ぎ倒していた。彩の周りの敵はジリジリと後退し始めていたが、彼女はそれに追い縋って手当たり次第に叩き潰していた。恐怖に顔を引き攣らせながら荒れ狂うさまは、まるで悪鬼の如くであった。
彩は近くの敵を片っ端から駆逐していった。優二は頼りにならない、と思った。自分と比べてどれほどの打撃を受けているのかは分からないが、先ほど表情を見た限りでは、おそらく戦いは無理だろう。優二が参戦しないのであれば、それは即ち参戦出来ないほどの打撃を受けてしまっているのだ。自分がやらなければならない。彩はここへきて初めて義務感のようなものを感じていた。そう、優二には出来ないが自分には出来る、というのは優越感でなくむしろ責任を感じさせた。出来る者がやらなければならないのだ。
敵は前回の偵察隊とは比べものにならないほどの大軍だが、彩は恐怖を感じながらも善戦していた。新兵器“ノートゥング”の前に夥しい数の敵兵が次々と屠られていく。精神攻撃は確かに効いているが、物理的な攻撃には手も足も出ないのが現状だ。
「このーっ! あっちいけ、こいつっ!」
彩の戦いぶりはまるで子供のケンカのようであったが、確実に戦果をあげていた。
優二は頭を抱えて震えていた。何とか理性で恐怖を封じ込めようとしている。怖い、恐ろしいのは現実だが、実際には恐怖の対象は具体的に存在しないのだ。恐ろしいモノなどないのに、身体が勝手に恐怖を感じてしまっている。そう、どんなに恐怖を感じていても、優二の存在を脅かすようなものは現在、この世界には存在していないのだ。
彩が戦っている。助けなければいけない。優二もまた責任感に駆られていた。自分は彩のサポートなのだ。こんなところで恐怖にうち震えて縮こまっているわけにはいかない。造り物の恐怖など克服して今すぐ己の義務を果さなければいけない。
優二は脂汗の滴る顔を上げ、棒を持って立ち上がり、敵に突進していった。恐怖で歪んだ表情はそのままに、優二は敢然と敵に挑んだ。
彩は優二の参戦に気付いてその顔を見た。彼女の顔もまた半泣きだった。
「待たせたな、もう大丈夫だ。あとは任せろ、とは言えないけどね」
苦悶の表情で、やっとそれだけ言うことが出来た。
「やっとおやぢンガー復活か、遅いよ」
彩の口がへの字に歪んだ。優二の参戦で、それまで張り詰めていた気持ちが少し緩んだようだった。




