5. 未定義
十一月。先輩たちが引退して、部室は少し広くなった。
新しいフォーメーションの練習が始まって、私は二列目のセンター寄りに移った。斜め前の一メートル半先には、もう誰もいない。
着替えのとき、ロッカーの隅にかすかな匂いが残っていることに気づいた。シトラス。先輩のロッカーは私の二つ隣で、もう中身は空っぽなのに、匂いだけがまだここにいる。
スマホを開く。TikTokの下書きフォルダに、未投稿の動画がひとつ入っている。文化祭の日、ステージ裏で何気なく回した十五秒。画面の端に、先輩のうなじが映り込んでいる。
投稿はしない。これはフォロワーに届けるものじゃない。レンズの向こうに差し出す必要のない、私だけの十五秒。
スマホを閉じた。
部室に一年生の声が響いている。新しい後輩たちは振付を覚えるのに必死で、鏡の前で何度も同じ八カウントを繰り返している。かつての私みたいに。正確に、正しく、はみ出さないように。
私はそれを見て、何かを言いたくなった。でも何を言えばいいのかわからない。「振付通りじゃなくていいよ」なんて無責任なことは言えない。振付通りに踊ることの安心を、私は誰より知っているから。
練習前のストレッチ。正面の鏡に、楓が映っている。前髪が少し崩れて、ジャージの襟がよれている。TikToker的には撮り直し案件。でも鏡の中のこの子は——四月に廊下の窓ガラスで見た「これ、誰だっけ」の子とは、少しだけ違う気がする。
何が変わったんだろう。正確にはわからない。恋が実ったわけじゃない。気持ちを伝えたわけでもない。名前すらつけていない。「好き」とも「恋」とも、一度も声にしていない。
ただ、あの日ステージの上で、身体が勝手にやったことを、私は止めなかった。止められなかっただけかもしれない。でも、止めなかった自分を、まだ否定していない。あの瞬間の指先の感覚を——熱くて、冷たくて、怖くて、怖くなかった、あの感覚を——なかったことにしていない。
名前はまだつけない。つけなくていい。ただ、あったことだけは認める。私の身体の中で、確かに何かが起きた。それは振付の外にあった。フィルターの外にあった。私がコントロールできる領域の外にあった。でも、私の中から出てきたものだった。
それだけのことが、鏡の中の輪郭をほんの少しだけくっきりさせている。気がする。
わからない。全然わからない。
けど、嫌いじゃない。
ストレッチを終えて立ち上がる。音楽をかけて、最初のカウントを待つ。
——ハルカ先輩。
声にはならなかった。でも、胸の奥で、ちゃんと響いた。
音楽が始まる。
私は踊り出す。




