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無加工  作者: noriduke
4/5

4. 加速引力

文化祭当日。


ステージ裏の控えスペースは、ヘアスプレーと緊張で飽和していた。鏡の前で最後の確認をする。衣装のライン、髪の位置、表情。つい癖でスマホのインカメを起動して自分の顔を確認した。画面の中の私はちゃんと「楽しみにしてる顔」をしている。


「余裕じゃん、楓」。隣の子に笑われて、私も笑った。余裕なわけない。でもそう見えているなら、今日もフィルターは作動している。


出番を待つステージ袖で、目の前にハルカ先輩の背中があった。


プラチナブロンドをきつく結い上げたうなじ。そこから立ち昇るもの。シトラス。ここ十日間ずっと避け続けた匂いが、いま至近距離にある。何のブランドなのかも知らないまま、これがハルカ先輩の匂いだということだけを鼻が知っている。頭じゃなくて、鼻が。身体が。ずっと前から。


暗転。照明が切り替わる。歓声。音楽が始まる。


最初の八カウントは、完璧だった。


私は自分の立ち位置で、振付通りに踊った。腕の角度、ステップの幅、首の傾き、全部正しい。隣の子たちと同じ動き。鏡がないから目視では確認できないけれど、身体に染み込ませた精度を信じる。一ミリもはみ出さない。正しい自分。安全な自分。ここ十日間ずっと磨いてきた、完璧な振付のなかの完璧な楓。


一番のサビを踊りながら、ふと思った。こうやって正確に踊っている自分は、TikTokの画面の中の自分と同じだ。フレームに収まっている。破綻がない。誰にも文句を言われない。でも、このまま最後まで踊りきったとして、残るものは何だろう。


——余計なことを考えるな。集中。


頭がブレーキをかける。身体はそれに従う。従っている。まだ。


二番に入る。


サビ前のフォーメーション移動。私はハルカ先輩の斜め後ろ、一メートル半の位置につく。


先輩が腕を大きく回した。空気が動いた。シトラスが届いた。


先輩が、客席を見ていなかった。鏡でもなかった。


振り向きざまに、私を見ていた。


あの木曜日の夜、暗い体育館で一人で踊っていたときと同じ目。何かを探す目。でもいまは——見つけたものを確かめるような目。


振付の「シックス」で、私の右腕が軌道を外れた。


頭がパニックを起こす。戻せ。カウント。ファイブ、シックス——


腕が戻らない。


腕だけじゃなかった。肩が開いた。背骨が伸びた。指先が、振付では行かないはずの方向へ伸びていく。重心がわずかに先輩の方へ傾いて、振付にない動きが身体の奥——あの木曜日にポケットの中で震えていた場所のもっと奥——から湧き上がってくる。


止められない。


頭が必死にカウントを叫んでいる。戻れ。合わせろ。みんなと同じにしろ。でも身体が聞かない。鏡の前で何百回も殺したはずの逸脱が、消したはずの動きが、ステージの上で、照明の下で、何百人もの目の前で、噴き出している。あの日先輩に見られた「振付と違う私」が、今度は自分から出てきている。


怖い。


怖い。身体が自分のものじゃないみたいで、でも同時に、初めて本当に自分の身体で踊っているみたいで——


指先の震えが、消えていた。


あの木曜日からずっとポケットの奥に押し込めていた指が、いま、照明の光を浴びている。震えていた場所に、震えとは全く違うものが満ちている。何なのかはわからない。名前はない。でも、爪の先まで確かに通っている。熱くて、冷たくて、怖くて、怖くない。矛盾しているのに、矛盾していない。身体がそう言っている。頭じゃなくて、身体が。


音楽が止まる。


静寂。


それから——拍手。体育館を満たす歓声。


私は息を切らしたままステージ袖に戻った。


手が震えていた。さっきまでの「伸びる」感覚は消えて、代わりに全身が脱力している。何が起きたのか、頭が追いついていない。振付を外した。ステージの上で。本番で。でも——でも? 「でも」の先に来る言葉が見つからない。


メンバーが「やばかったね」「最高じゃん!」と口々に言ってくる。振付を外したことを誰も指摘しない。というより、気づいていないのかもしれない。あるいは気づいた上で、それを含めて「最高」だったのか。わからない。でも私は笑った。今度はTikTok用の笑顔じゃなかった。角度も計算もない、ただの——なんだろう。安堵? 放心? それとも、ずっと閉じていた窓を開けた瞬間に部屋に入ってくる風みたいな——


ああ、だめだ。言葉にしようとすると全部嘘っぽくなる。


汗を拭きながら、視界の端で先輩の姿を探している自分に気づく。探そうとしたんじゃない。目が勝手にそうした。また。身体が先に動く。


体育館の出口近く。夕暮れの光が低く差し込んでいる場所に、ハルカ先輩が壁にもたれて立っていた。水を飲みながら、窓の外を見ている。オレンジ色の光がプラチナブロンドの輪郭をぼんやり燃やしていて、横顔のほとんどは夕暮れの影に沈んでいた。長いまつ毛と鼻筋の輪郭が、光の糸に縁取られている。


近づいた。今度は、足が迷わなかった。


「先輩」


「ん?」


先輩がこちらを向く。何を言えばいいのかわからなかった。ありがとうでも、すみませんでもない。ステージの上で起きたことを説明する言葉を、私はひとつも持っていない。


黙っている私を、先輩は急かさなかった。


少し間があって、先輩が笑った。部活のとき——みんなの前で見せる「自信に満ちたハルカ先輩」の笑い方じゃなかった。もっと小さくて、静かで、でもちゃんとこっちを見ている。こっちの奥まで見ている。あの体育館の夜に見た、蓋の下にあるものと地続きの表情。


「よかったよ、さっき」


「……振付、めちゃくちゃでした」


「うん」


先輩は、否定も肯定もしなかった。「めちゃくちゃだった」ことと「よかった」ことが、先輩の中では矛盾なく同居しているみたいだった。


夕暮れの光が、体育館の床を長く横切っていた。埃が光の中をゆっくり落ちていく。先輩と私の間の空間——一メートル半より、たぶん少しだけ狭い——を、オレンジ色の粒子が通り過ぎていく。


何も言わなかった。何も言えなかった。


先輩も何も言わなかった。ただ水のボトルを傾けて、もう一口飲んで、それからまた窓の外に目を戻した。私を追い出しも、引き留めもしない。何かを求めも、拒みもしない。ただ、一緒にいてくれた。


ステージの上でめちゃくちゃに踊った私を、先輩は「よかった」と言った。それは慰めじゃなかった。お世辞でもなかった。先輩がロシア語の音楽で一人踊っていたとき、あの身体にあったものと同じ種類の何かを、先輩は私の逸脱の中に見たんだと思う。たぶん。わからないけど。


わからないままでいい、今は。

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