2. 違和感
その週の合同練習は、二年と三年の合わせだった。文化祭のステージまであと三週間。フォーメーションの確認で、何度も同じ八カウントを繰り返す。
鏡の向こうに並ぶ三年の中で、ハルカ先輩はすぐに見つかる。プラチナブロンドの髪をひとつに結い上げて、首筋に汗が光っている。
ハルカ先輩は、うちのダンス部で一番上手い。——いや、上手いとかそういう話じゃない。先輩が踊ると、同じ振付なのに、先輩の身体だけ違う時間軸にあるみたい。重力のかかり方が他の人と違うというか、音と身体のあいだにある隙間が限りなくゼロに近いというか。言葉にするとぜんぶ嘘っぽくなるけど、とにかく目を奪われる何かがある。多分みんなそうで、だから先輩は部内でちょっと特別な存在になっている。
ロシア人のお母さん譲りの金髪は地毛だって聞いた。入学した頃は「染めてるの?」って何度も訊かれて、先輩はいつも「天然なの、便利でしょ?」って笑っていたらしい。その笑い方を、私はなんとなく想像できる。何も気にしていないように見える、完璧に調整された明るさ。
先輩はそうやって、自分の「違い」を軽く扱うことでやり過ごしてきたんだろう。地毛が金髪であること。顔立ちが少しだけ日本的じゃないこと。望んでもいないのに最初から目立ってしまうこと。私がカメラの前で「見せたい自分」を編集するのと、先輩が「気にしてない」を演じるのは——構造としては、同じなのかもしれない。
やめよう。その直感はすぐに流して追わないことにした。追っても何もないし、私には関係ない。
練習が終わって、壁際で水を飲んでいた。タオルで首の汗を拭いて、スマホを見ようとした——そのとき。
「楓ちゃん、だよね」
ハルカ先輩が、すぐ横に立っていた。
心臓が一回、大きく鳴った。それまで練習で上がっていた心拍とは全く違う、不意打ちみたいな一拍。先輩が私の名前を知っていたことに驚いたのか、距離が急に縮まったことへの反射なのか、わからない。わからないけど、その一拍はしばらく胸の底に沈んで消えなかった。
「さっきの二番、サビ後のターン。振付と変えてたの、気づいてた?」
血の気が引いた。間違えた。ちゃんとやっていたつもりだったのに。何回も確認したのに。
「あ、すみません、次からちゃんと——」
「ううん、そうじゃなくて」先輩は首を横に振った。タオルを肩にかけたまま、こちらを見ている。微かに緑色の瞳が、真っ直ぐ私に向いていた。「あっちの方がよかったなって。振付より、流れが自然だった」
何を言われたのか、すぐには処理できなかった。私が、振付を間違えた? しかもそれを、先輩が見ていた? そして——よかった?
先輩は私の顔を少し見て、何かを読み取ろうとするみたいに首を傾げた。それから「まあ、なんとなくね」と軽く笑って離れていった。
先輩が通り過ぎたとき、空気が動いた。
そこに、かすかに残ったもの。柑橘系の、でもオレンジとは違う、もっと透明で冷たい——シトラス。制汗剤かボディミストか、わからない。ただ鼻がそれを捉えて、なぜか手放さなかった。しばらくのあいだ、呼吸のたびに残り香がちらついて、そのたびにさっきの先輩の目が蘇った。まっすぐこちらを見ていた、あの瞳。
その夜、布団の中で何度も先輩の言葉を反芻した。
「あっちの方がよかった」。
振付と「違う」私を、先輩は見ていた。私が自分でも気づいていなかった動きを。コントロールの外側にある何かを。誰にも見せたつもりのないものを、あっさりと見抜いた。
褒められたはずなのに、感覚としては、裸を見られたことに近かった。
TikTokでは何万人に見られても平気だ。カメラの前なら、どんな自分も出せる。編集すればいい。切り取って、フィルターかけて、気に入らなかったら撮り直せばいい。でもあの瞬間は違った。編集できない。巻き戻せない。先輩の目に映った私は加工前の、生データの私だ。それが「よかった」と言われたことの意味を、布団の中で何度考えても消化できなかった。
怖いのは見られたことだけじゃない。見られて、嫌じゃなかったことが、もっと怖い。
次の練習から、私は自分の身体を注意深く監視した。振付通り。正確に。一ミリもはみ出さないように。鏡に映る自分が、隣の子たちと寸分たがわず同じ動きをしていることを何度も何度も確認しながら踊った。
それでいい。はみ出した部分を元に戻せば、あの感覚はもう来ない。
——はずだった。




