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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

魔女殺しの騎士は嘘を吐く ~王子に婚約破棄された公爵令嬢を俺が殺した理由~

作者: 上下左右
掲載日:2026/02/23

本作はハッピーエンドですので、ご安心ください!


「……ねえ、見て。あそこ」

「エリシア様とルイフェン殿下だわ」


 さざめくような囁きが、夜会の喧騒に溶けていく。


 王城の大広間は、今宵も貴族たちの虚飾で満ちていた。


 天井高く吊るされた幾重ものシャンデリアが無数の光を降らせ、磨き抜かれた大理石の床は、着飾った男女の姿を鏡のように映し返している。


 楽団が奏でる優雅な旋律、香水と花々の甘い香り、そして笑顔の裏に潜む値踏みの視線。ここは社交の場であると同時に、貴族社会という名の戦場でもあった。


 その中心に存在感を放つ少女がいる。


 エリシア・ルミール公爵令嬢。


 淡い黄金の髪を上品に結い上げ、夜会用のドレスを纏った彼女は、まるで一枚の肖像画のように端正な姿で佇んでいる。


 透き通る青の瞳は穏やかに細められ、指先の角度一つに至るまで、名門の教育が染みついていた。


「エリシア様といえば、王国の財政を立て直したとか」

「王国一の才女だと噂ですわね」


 感嘆と敬意の混じった声が、あちこちから漏れ聞こえる。


 ここ数年、王国の財政は明らかに傾いていた。旧態依然とした徴税制度、膨れ上がる王家の支出、誰も責任を取ろうとしない官僚機構。遅かれ早かれ破綻すると、上流層の間では半ば既定路線とさえ囁かれていた。


 その流れを、たった一人でねじ伏せたのがエリシアだ。


 王家財務の再整理に、徴税制度の抜本的見直し。貴族特権にまで踏み込んだ歳出削減。


 老練な官僚ですら及び腰になった領域に、この若き公爵令嬢は一切の躊躇なく踏み込み、そして結果を出した。


「ですが殿下の方は、相変わらずのご様子で」

「とびきりの無能だとか」

「エリシア様のお飾り同然だと有名ですものね」


 誰かが、扇の陰で小さく笑う。


 エリシアの隣に立つ青年。ルイフェン第一王子へ、含みのある視線がそっと向けられた。


 銀糸の髪に、血のように鮮やかな赤い瞳。王族に相応しい華やかな容姿。しかし、社交界の評価は辛辣だった。


 外見だけは一級品。


 それが、多くの貴族が胸の内で共有している本音である。


 政務への理解は浅く、判断力にも乏しい。重要な局面では必ず誰かの後ろに隠れる。そんな評価が広まっており、本人も影で囁かれていると自覚していた。


 ルイフェンはわずかに眉根を寄せると、隣に立つエリシアを横目で見やり、露骨に不機嫌な声音を落とした。


「……少し離れていろ」

「私が傍にいて、何かご不都合でも?」

「目障りだ」


 あまりにも率直な物言いだった。


 近くにいた数名の貴族が、わずかに息を呑む気配を見せる。エリシアの指先がほんの一瞬だけ止まったが、次の瞬間には何事もなかったかのように微笑みを保っていた。


「承知いたしました、殿下」


 エリシアは淀みなく一礼すると、完璧な所作で一歩、また一歩と距離を取る。


 ゆっくりと身を引く彼女を、ルイフェンは一瞬だけ横目で追ったが、すぐに興味を失ったように踵を返す。


 銀髪が揺れ、王子はそのまま大広間の奥、バルコニーへと歩き去っていった。


 あとに残されたエリシアは、しばしその背を見送る。


 完璧に保たれていた微笑みが、ほんのわずかに曇る。しかし次の瞬間には何事もなかったかのように表情を整え、令嬢としての仮面を隙なく被り直した。


 青い瞳が巡り、やがて壁際に控える一人の騎士を捉える。


(レオン……)


 レオンはエリシアの幼馴染であり、グローヴァル公爵家の次男でもあった。


 夜会の喧騒から半歩引いた位置に立ち、彼は騎士としての警備任務に就いている。


 背筋は寸分の狂いもなく伸び、視線は正面に据えられたまま。飾り気のない礼装の下に、研ぎ澄まされた緊張だけが宿っている。


 エリシアは周囲の会話の輪を自然にすり抜け、足音を忍ばせるように歩み寄る。


 やがて彼女は、レオンの前で足を止めた。


「お久しぶりですね、レオン」

「ご健勝のようで何よりです」


 あくまで騎士としての形式的な口調だった。


 エリシアの視線が一瞬だけ伏せられる。ほんのわずかな間を置いてから、彼女はやわらかく微笑んだ。


「相変わらず、堅いのですね。昔はもう少しだけ、話しやすかった気がしますが……」

「今は職務中ですので」


 きっぱりとした線引きだった。


 エリシアは小さく息を吐くように、「そうでしたね」と呟く。その声音には寂しさが滲んでいたが、彼女自身はそれ以上踏み込もうとはしなかった。エリシアが話題を変えるように問いかける


「騎士団での評判、耳にしております。どんな激しい戦場でも生きて帰ってくることから『不死身のレオン』と呼ばれているとか」

「過分な呼び名です」

「あまり危険なことをしてはいけませんよ。あなたは子供のころから、無茶ばかりでしたから」


 どこか懐かしむような声音だった。レオンは視線を正面に向けたまま、「ご心配には及びません」と事務的に答える。


 エリシアは何か言いかけ、ほんのわずかに唇を開く。だが結局、言葉は続かなかった。代わりに彼女は、令嬢としての完璧な微笑みを浮かべ直す。


 そのときだった。


 ルイフェンが向かった先のバルコニー付近で、ざわめきが起こった。最初は小さな波紋に過ぎなかったそれは、瞬く間に人々の視線を引き寄せ、夜会の優雅な空気を軋ませていく。


「……何かあったようですね」

「確認いたします」

「私も参ります」


 エリシアは人の流れを縫うように歩き出し、レオンは一歩遅れてその斜め後ろに付いていく。


 人垣の前方へと近づくにつれ、張り詰めた女の声がはっきりと聞こえてくる。


「エリシア様と別れて、私と結婚してくれるって約束したのに!」


 周囲の空気が揺れる。


 人垣の中心にいたのは、まだ若い令嬢だった。頬を紅潮させ、今にも泣き出しそうな表情で、ルイフェンに真正面から詰め寄っている。


「そ、それは……」


 ルイフェンがたじろぐ。


 明らかに狼狽した声音だった。


 その一瞬だけで、周囲の貴族たちはすべてを察する。扇の陰で口元を隠す淑女が面白がるように目を細め、ひそひそと言葉が交わされる。


「エリシア様とはもうやっていけないって、愚痴を漏らしていたではありませんか!」

「だから、それは……」

「結局は私を捨てるんですか!」

「だ、黙れ。場所を弁えろ!」


 ルイフェンは声を荒げたが、その叱責には覇気がなかった。むしろ焦りを押し隠そうとする響きの方が強く、火に油を注ぐ結果にしかなっていない。


 そのとき、不意に彼の視線が人垣の中に佇むエリシアへと流れる。


 完璧な微笑みを保ったままの彼女を発見した瞬間、ルイフェンの表情が露骨に歪む。気まずさと狼狽が入り混じり、彼は思わず後退する。


 その小さな動きを、令嬢は見逃さなかった。


 ぐい、と強い力で、ルイフェンの腕を掴む。


「逃げないでくださいまし!」

「離せ!」


 振り払おうとするルイフェンに、令嬢はさらに身を乗り出す。


 その瞬間、令嬢の体が大きくよろけ、ヒールが床を滑る。体勢を立て直す間もなく、その身体がルイフェンの胸元へと強くぶつかった。


 予想外の衝撃に、ルイフェンの上体がぐらりと揺れる。


 背後にあったのはバルコニーの手摺だ。


 彼の腰が手摺にぶつかり、鈍い音が響く。


 次の瞬間、重心が完全に外側へ流れていく。


「ルイフェン様!」


 彼の危機に真っ先に反応したのはエリシアだ。


 人垣を押し分けて駆け寄ると、白い手を精一杯に伸ばす。しかし、彼女の指先が届くよりも早く、ルイフェンは令嬢と共に手摺を超えて、夜の闇へと滑り落ちていった。


「まだ間に合います!」


 エリシアは周囲が止める間もなく、追いかけるように手摺の向こう側へ身を躍らせる。淡い色のドレスが大きく翻って軌跡を描く。


 なぜ一緒に命を投げ出すような真似をするのかと、その場にいた貴族たちの思考が固まる。


 困惑とざわめきが広がる。その瞬間だった。


 地上から上空へ突き上げるような突風が唸りを上げた。落下していたはずの三つの影が、まるで見えない手に掬い上げられるかのように浮かび上がってくる。


「う、浮いている……」

「ま、魔術だ!」

「エリシア様は魔女だったんだ!」


 恐怖に染まった囁きが、波紋のように広がる。


 魔術。それは魔力を用いて奇跡を起こす、選ばれし者の力である。


 王国において魔術の発現自体は珍しいものではなく、男性であればおよそ百人に一人の割合で顕現するとされていた。


 だが女性の場合は事情がまったく異なる。一千万人に一人とさえ言われる稀少な発現率でありながら、ひとたび目覚めれば、その出力は男性のそれを遥かに凌駕し、時に国家すら覆しかねないと恐れられてきた。


 ゆえに王家は、その力を脅威として扱った。


 魔術を扱う女性を特別に区別し、忌むべき存在として魔女と名付けた。そしてその呼称とともに、迫害の慣習は長い年月をかけて王国の文化へと根づいていったのである。


 その魔女が、今まさに夜会の只中へと降り立った。


 見えない力に導かれるようにエリシアの靴先がバルコニーの石床へ触れ、翻っていたドレスの裾がゆっくりと重力を取り戻していく。


 先ほどまで荒れ狂っていた風も嘘のように鎮まり、傍らでは落下の恐怖に耐えきれなかった令嬢がぐったりと意識を失っている。


 一方でルイフェンは、辛うじて体勢を立て直しながらも、目の前の現実を受け入れきれない様子でエリシアを凝視していた。


 瞳には助けられた直後の感謝の色はなく、代わりに露骨な嫌悪が浮かんでいた。


「……エリシア、貴様、魔女だったのか」

「命の恩人に対する言葉が、それですか?」

「うるさい! 魔女と婚約していたなど、俺の人生最大の汚点だ。貴様との婚約は、この場で破棄させてもらう!」


 あまりにも一方的で冷酷な宣告だった。それでもエリシアは怯まず、胸元でわずかに手を握りしめながら、ルイフェンを見据える。


「私はあなたを助けるために魔術を使ったのですよ」

「だからどうした? 感謝して、魔女を受け入れろとでも? 冗談ではない。魔女は一人残らず死刑と決まっているのだからな!」


 その言葉に、エリシアは唇を引き結ぶ。それ以上の反論が無駄だと悟ったからだ。


「どうやら私はあなたの理想の妻にはなれなかったようですね……」


 その一言だけを残し、エリシアは廊下へと足を踏み出す。ドレスの裾が翻り、次の瞬間には迷いのない足取りで姿を消していた。


「誰でもいい! あの魔女を捕まえてこい!」


 ルイフェンが声を荒げる。


 凍りついた空気の中で、騎士たちは固まっていたが、ただ一人、前へ出た影があった。


 レオンである。


 彼は数歩進み出ると、その場で膝を折り、ルイフェンへ向けて深く頭を垂れた。


「殿下。私に魔女討伐をお任せください」


 低く、よく通る声音だった。ルイフェンの眉がわずかに動く。


「だが貴様は、エリシアの幼馴染ではなかったか?」

「幼馴染ではありますが、魔女は魔女です。必ず仕留めてまいります」


 あまりにも揺らぎのない口調だった。


 ルイフェンはしばし値踏みするようにレオンを見下ろし、露骨な不信の色を浮かべたまま沈黙する。


 その張り詰めた間を、レオンの次の言葉が断ち切る。


「その代わり、魔女討伐を成し遂げた暁には、騎士団長の椅子を頂きたい」


 露骨な出世要求。だがそれは同時に、私情ではなく野心で動いているという分かりやすい動機の提示でもある。


 ルイフェンの瞳に浮かんでいた警戒が明らかに緩んだ。


「……いいだろう。貴様にエリシア討伐を任せる」


 許可が下りると、重苦しい空気の中、レオンは立ち上がる。命令を受けた彼は廊下に向かって駆け出すのだった。


 ●●●


 夜会の喧騒を背に、レオンは迷いのない足取りで廊下を進んでいた。その背を数名の騎士たちが追いかけている。


「レオンさん!」


 背後から若い騎士の声が飛ぶ。息を弾ませながらも必死に歩調を合わせ、半歩後ろの位置を保っていた。


「相手は魔女ですよ。倒す自信があるのですか?」

「なければ、受けていない」


 簡潔な一言だった。


 だが、その揺るぎのなさに、後続の騎士たちは思わず顔を見合わせる。若い騎士が、なおも食い下がるように問いを重ねた。


「しかし……相手は、あのエリシア様です。先ほどの魔術も尋常ではありませんでした」

「分かっている。だが俺には回復魔術がある」


 王国において、魔術の才を持つ男性は決して珍しくない。およそ百人に一人。それが通説だ。


 しかも、その大半は灯火程度の出力に留まり、実戦で意味を持つ者となれば、数は一気に絞られる。


 その中で、レオンの持つ力は明らかに異質だった。


 肉体を治癒する回復魔術。


 それも、並の治癒術ではない。致命傷すら短時間で塞ぎ、骨折も、裂傷も、内出血さえも強引に修復してしまう規格外の再生力。


 戦場において何度も致命傷を受けようとも立ち上がってくる姿から、いつしか彼は『不死身のレオン』の異名で呼ばれるようになっていた。


 その名は、畏怖と半ばの呆れをもって騎士団内に広まっている。


「……レオンさんの回復魔術って、他の人は治せないんですよね?」

「できない。もし治せたなら……俺は今頃、騎士なんかやってない」


 他人を治癒できるなら、戦場に立つ必要もない。貴族から庇護を受けることも、治癒師として莫大な報酬を得ることも容易だからだ。


「なるほど……それにしても、魔女殺しの報酬が騎士団長の椅子とは。ずいぶん思い切りましたね」


 半ば感嘆、半ば探るような声音で彼は続ける。


「騎士団長ともなれば、高い報酬に宝物品の下賜、功績次第では領地まで与えられるとか……国外への移動も、審査なしのフリーパスだと聞きました。レオンさんが、魔女を殺してでもその椅子を手に入れたい気持ち。理解できます」


 探る響きを含んだ一言だった。


 だがレオンは何も答えない。ただ前方へ向けていた視線を、ほんのわずかに細めただけだった。


 そのとき、中庭の方角から不穏なざわめきが届く。


 長い廊下を迷いなく進み抜け、夜の庭園へ踏み出した瞬間、目に飛び込んできたのは、夜に沈む庭園の中央で、数名の騎士たちが半円状に陣を組む姿だ。その中心には、淡い色のドレスを纏ったエリシア立っている。


「包囲を維持しろ。軽率に近づくな!」


 騎士が声を張り上げ、慎重に一歩踏み出す。


 だが、その足が次の一歩を刻むより早く、地面の下から低い地鳴りが唸りを上げる。土が槍のように鋭く突き上がり、騎士の目前で空気を裂いた。


 反射的に飛び退いた騎士の顔がみるみる青ざめ、周囲の隊列にも明らかな動揺が走る。


「土が……動いた……」

「地面から、いきなり……」


 ざわめきが広がる中、レオンが前へ出る。無駄のない動作で剣帯に手をかけ、視線をまっすぐエリシアへと据えた。


 その緊張を煽るように、頭上のバルコニーから甲高い声が夜気を切り裂く。


「魔女を始末しろ! 成し遂げれば、約束通り、騎士団長の椅子はお前のモノだ!」


 バルコニーから顔を出したルイフェンが、興奮と苛立ちの入り混じった声音で叫ぶ。


 声が降り注ぐ中、レオンはゆっくりと剣を抜き放つ。鞘を走る金属音が、張り詰めた空気の中で響き、切っ先がエリシアへと向けられる。


「……私を殺すのですか?」

「ああ、悪いとは思っている」

「そうですか……」


 エリシアはすべてを受け入れる覚悟を決めたかのように安らかに微笑む。


 レオンは剣を構えたまま、一歩、また一歩と確実に距離を詰めていく。大地を踏みしめる靴音が、静まり返った庭園に反響し、そのたびに周囲の騎士たちの喉が無意識に鳴った。


 誰もが固唾を呑み、訪れるであろう決着の気配を見守っていた。


 次の瞬間、鋭く尖った土槍が地面を裂いて突き出す。乾いた破砕音とともに生まれたそれは、人体を貫く威力を備えていた。


「――っ!」


 だが、その軌道は明らかに甘かった。レオンの身体を正確に捉えた角度ではない。脅しのためだけの攻撃に、彼は避けようとすらしなかった。


 そのまま距離を縮めるためにレオンが踏み込む。そして、月光を弾いた刃をエリシアの胸元へと突き立てた。


 ドレスに、じわり、と血の赤が滲む。


「……どうして俺に魔術を当てなかった?」

「あなたに殺されるなら悪くない……そう思っただけです」


 言葉の終わりと同時に、彼女の口元から血が溢れた。赤い雫が顎を伝い、ドレスの胸元へとぽたり、ぽたりと落ちていく。青い瞳の奥には、涙が滲んでいた。


「だって、あなたは……私の初恋の……」


 震える吐息とともに零れた言葉は、最後まで形にならない。レオンの瞳が、その瞬間、初めて大きく揺れた。


「……俺もだ。子供の頃からずっと……エリシアのことを愛していた」

「ふふ……なら、両想いですね……」


 かすれた笑みとともに、彼女の身体から力が抜けていく。


 レオンは無言で剣を引き抜くと、支えを失ったエリシアの身体が大きく傾いた。溢れ出した血が石畳に染め広がり、次の瞬間、庭園のあちこちから歓声が沸き起こる。


「やったぞ!」

「魔女を討った!」

「レオンさん、万歳!」


 興奮が弾けたように声が響き渡る。喧騒の中で、レオンはエリシアの身体を抱きしめると、ゆっくり顔を上げ、周囲を見渡す。


「……俺が供養する。構わないな?」


 低く落とされた一言に、異を唱える者はいない。誰の目から見ても、エリシアはすでに息絶えているようにしか見えなかったからだ。


 レオンは何も言わず、彼女を抱き上げると、そのまま背を向け、夜の庭園を後にする。月光に長く伸びるその背中は、寂寥に満ちていた。


 ●


 死んだはずのエリシアが意識を取り戻し、最初に感じたのは木の匂いだった。


 次に湿り気を帯びた土の気配と、焚き火の残り香、それにベッドの軋む音が、意識の底から浮かび上がってくる。


「ここは……」


 視界に映ったのは、見慣れない木組みの天井だった。


 粗削りの梁、簡素な壁に、質素な寝具。ぼんやりと状況を探ろうとして、エリシアは上体を起こす。


「無理に動くな。傷は塞いだが、まだ完全じゃない」


 低い声が、すぐ傍から届く。


 エリシアの瞳が見開かれ、声のした方へ視線を向けると、粗末な椅子に腰掛けたレオンが、腕を組んだままエリシアを見つめていた。


「ここは、俺が山籠もりの訓練で使っていた小屋だ。騎士団の連中も、王城の人間も、誰も知らない」

「いえ、そんなことより……私はあなたに殺されたはずじゃ……」

「俺の回復魔術で治した」

「そ、そんな、ありえません! あなたの魔術は、他人を治せないはずですから!」


 知られているレオンの回復魔術は、あくまで自己再生に特化したものだったはずだ。


 だがレオンは、迷いなく言い切る。


「それは嘘だ。俺が他人を治せると、この時のために秘密にしていたんだ」


 エリシアは言葉を失ったまま、ただ彼を見つめる。レオンは椅子の背にもたれ、視線を逸らさずに続けた。


「実は、エリシアが魔女だってことは、ずっと前から気づいていた」

「え……」


 掠れた声が、ほとんど無意識に零れる。驚きと戸惑いが混ざり合った、あまりにも無防備な反応だった。


 レオンは視線を逸らさないまま、ゆっくりと言葉を継ぐ。


「秘密はいずれ露呈するものだ。将来、エリシアが死を偽装しなきゃならないタイミングが来るはずだと俺は予想した」


 小屋の中には、焚き火の残り香と夜の冷えた空気が満ちている。


 その中で語られる言葉は、まるで遠い未来をあらかじめ見通していたかのような、不思議な確信を帯びていた。


「だから、俺は他人を治癒できることを隠してきた。騎士団に入ったのも、なるべくエリシアの傍にいて、もしもの時に、救いの手を伸ばせるようにするためだ」

「どうして、私のためにそこまでのことを……」

「それだけ、エリシアのことを愛していたからだ」

「そ、そうですか……」


 飾り気のない率直な答えに、頬が熱を帯びるのが自分でも分かった。


 そんな彼女の様子を一瞥したのち、レオンは小さく息を吐く。


「実はエリシアが意識を失ってから、すでに三カ月が経過している」

「そんなにですか!」


 思わず声が裏返る。大きく見開かれた青い瞳には隠しようのない驚愕が浮かぶ。


 対するレオンは、その反応をあらかじめ見越していたかのように表情を崩さない。


「この三カ月の間に王家では混乱が起きた。エリシアが立て直した財政は、表面上はどうにか持ちこたえているが、細部の調整が効かなくなっている。実務の中枢を担っていた頭脳が、ある日を境に突然消えたんだ。無理もない話だろう」


 あまりに冷静で的確な分析に、エリシアは思わず感嘆の息を漏らす。その様子を横目に、レオンはさらに言葉を重ねた。


「それとルイフェンへの責任追及も、すでに始まっている。魔女だからといって、エリシアをあの場で処分にしたのは早計だった。そういう声が、貴族の間で上がっているらしい」


 エリシアの呼吸が、わずかに止まる。しばらく言葉を発せずにいたが、やがてゆっくりと顔を上げ、迷いを滲ませた声で問いかけた。


「私は、これからどうすれば……」


 その問いを、レオンは真正面から受け止める。ほんの一瞬だけ間を置いたのち、彼は口を開いた。


「行き先がないなら……俺と一緒に、他の国で暮らさないか?」


 小屋の空気が、わずかに張り詰める。レオンは続けて、現実的な根拠を積み上げるように言葉を重ねた。


「魔女を差別しない国もある。そこなら、エリシアも普通に暮らせるはずだ。それに……俺は騎士団長の椅子を手に入れた。今なら国外への移動も自由にできる」


 そもそも、彼が騎士団長の地位を欲したのも、団長特権によって許可なき国外移動を可能にするためだった。


 エリシアを連れて王国を離れることも、決して絵空事ではない。そう伝えると、彼女はしばし彼を見つめ、それからふっと柔らかな笑みをこぼす。


「いいですね。これからは、二人で生きていくとしましょうか」

「ああ、そうしよう」


 短い返答だったが、その言葉は、決して嘘ではない。魔女殺しと呼ばれた騎士は、ほんのわずかに笑みを深めたのだった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございました!


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― 新着の感想 ―
エリシアが死んだと見せ掛けられた時は歓声を上げてたのに身勝手だなぁ。この国は王子貴族含めてこれから大変そう。
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