第3章:夜盗と血の洗礼 ①初めての選択、ベリスの刃
タカシは森の中を走っていた。
月明かりだけが頼りだった。薄暗い森の中、木々が影を作り、地面は暗い。どこに根があるのか、どこに窪みがあるのか、ほとんど見えない。
木の根が足を引っ掛けようとする。タカシは何度も躓きそうになった。枝が顔を引っ掻く。頬に、額に、鋭い痛みが走る。
息が上がる。ハァハァと荒い呼吸。胸が苦しい。心臓がドクドクと跳ねている。足が痛い。筋肉が悲鳴を上げている。全身が震えている。
でも止まれない。止まったら——ベリスの覚悟が無駄になる。
ベリスがそう命じた。走れ、と。
タカシの頬を、涙が伝っていた。視界が滲む。前が見えない。でも走り続ける。
ごめんなさい——ごめんなさい——
ベリス、ごめんなさい——
また逃げてる。また、何もできない。また誰かを置いて——
あの時と同じだ。召喚された時。勇者として呼ばれて、期待されて、でも何もできなくて、牢に入れられた——使い捨てられた。あの時も、自分は何もできなかった。逃げることすらできなかった。
そして今も——また誰かを置いて、逃げている。
タカシは走り続けた。暗い森を、月明かりを頼りに。枝が顔を掻く。痛い。血が滲む。でも、それすらも感じないほど、心が痛かった。
自分は——本当に、何もできない。
背後から——音が聞こえた。
最初は、男の悲鳴だった。
「ぎゃああああああ!!」
甲高い、苦痛に満ちた叫び。
タカシは思わず足を止めそうになった。何が起きた? ベリスが——何をした?
次に聞こえたのは、金属音だった。
ガキィン——
剣と剣がぶつかる音。鋭く、硬い音。戦闘が始まっている。ベリスが、六人の山賊と戦っている。
ガキン、ガキン、という連続した音。何度も剣がぶつかり合っている。男たちの怒号。罵声。そして——また悲鳴。
タカシは必死で走っていた。息が上がっている。心臓の鼓動が耳を塞ぐ。自分の荒い呼吸。それでも——背後の音は聞こえる。戦いの音。
そして——急に、静かになった。
風の音だけが聞こえる。木々の揺れる音。それだけ。
戦闘の音は——消えた。
タカシは走りながら、混乱した。え? もう終わった?
まだそれほど時間は経っていない。六人いたはずだ。六人の山賊と、ベリス一人。それなのに——もう、静かになった。
ベリスは——どうなった?
勝ったのか。それとも——
タカシは数分走り続けた。森の中を、ただひたすらに。月明かりだけを頼りに。息が上がる。足がもつれる。もう限界だ。これ以上は——身体が動かない。
タカシは木の根に躓き、地面に倒れ込んだ。
両手をついて、辛うじて顔面を地面にぶつけるのを避ける。だが膝を強く打った。痛い。でも、それよりも——
ハァハァと、荒い呼吸が漏れる。胸が痛い。肺が焼けるように熱い。心臓がドクドクと跳ねている。全身が震えている。汗が、それとも涙が、地面に滴り落ちる。ポタポタと、暗い地面に染み込んでいく。
背後は——静かだった。
あの戦闘の音は、もう聞こえない。風の音。木々の揺れる音。遠くで、フクロウの鳴き声。それだけ。
ベリスは——
どうなったんだ。
勝ったのか。それとも——負けたのか。
六人の山賊と、たった一人で戦って——
タカシは震える手で、地面を掴んだ。泥が爪の間に入り込む。冷たい。ザラザラとした感触。小石が手のひらに食い込む。痛い。でも、それすらも——
確認したい。
ベリスが無事か、確認したい。
でも——怖い。
戻ったら、何を見るんだ。
ベリスが倒れている姿を見るのか。血まみれで、動かなくなった姿を。あの山賊たちに囲まれて、地面に倒れて——
それとも——立っているのか。無事に、あの六人を倒して。
分からない。分からないから、怖い。
タカシは涙が止まらなかった。顔を地面に近づけて、声を殺して泣いた。肩が震える。
また逃げた。また何もできなかった。ベリスが戦っている間、俺は——ただ逃げた。
命令だったから。そう言われたから。
でも——これでいいのか?
このまま、誰かが戦っている間、俺はいつも逃げるのか?
タカシの頭の中で、ベリスの言葉が蘇った。
『お前は道具だったのは昨日までだ。今日から選べ』
『選ぶってのは、「できない」を「できる」に変えることだ』
『お前の力をどう使うかは、お前が決めろ』
選べ。
選ぶ——
タカシは震える足で立ち上がった。膝が痛い。でも、立てる。
選ぶ。
俺が、決める。
このまま逃げ続けるのか。それとも——戻るのか。
戻ったところで、何ができる? 俺は弱い。戦えない。ベリスの足手まといになるだけだ。もしかしたら、ベリスはもう——
でも——
確認したい。
ベリスが無事か。それだけでも、確認したい。見届けたい。
もしベリスが倒れているなら——俺は、何をすればいい? 逃げるのか? それとも——
分からない。
でも、確認しないと、先に進めない。
これは、命令違反だ。ベリスは「逃げろ」と言った。「振り返るな」と言った。
ベリスは怒るかもしれない。叱られるかもしれない。
でも——
今度は、俺が決める。
タカシは来た道を、ゆっくりと戻り始めた。
一歩、また一歩。
足は震えている。息も荒い。膝も痛い。恐怖で胸が押し潰されそうだ。
でも——進む。
一歩ずつ、確実に、前に進む。
月明かりが、タカシの影を地面に長く伸ばしている。その影は震えている。
これが、タカシの初めての「選択」だった。
命令に逆らって。
自分で決めて。
前に進む——
* * *
タカシが逃げ出した直後、野営地ではベリスと山賊六人の戦いが始まっていた。
ベリスは剣を抜いたまま、山賊たちを観察していた。冷静に。感情を排して。プロの目で。
六人。
親分らしき大柄な男が一人。体格がいい。顔には古い傷跡——右目の上から顎にかけて、斜めに走る。剣を持っている。構えは——まあまあだ。多少は戦闘経験がある。
残りは手下だ。五人。武器は剣、斧、棍棒。装備はまともじゃない。錆びた刃。刃こぼれした斧。血痕の残る棍棒——誰かを殴り殺したのだろう。
動きは素人だ。足の運びが雑。重心が高い。構えが甘い。訓練を受けていない。
ベリスの頭の中で、戦術が組み立てられていく。まるで家の柱を組み上げるように。どの柱を、どの順番に立ち上げて梁を通すか。
一分で片付ける。
いや——膝のことを考えると、もっと速く終わらせたい。長引けば長引くほど、膝に負担がかかる。
親分が叫んだ。
「ガキを追え!二人行け!」
二人の山賊が、タカシを追って森に走り出す。背中を向けている。無防備だ。
「残りは俺とこいつを囲め!」
残った四人が扇状に広がっていく。包囲しようとしている。だが動きが遅い。連携も取れていない。
ベリスは動かなかった。剣を構えたまま、彼らの動きを見ている。焚き火には、夕食後に準備していた鍋が掛けられていた。水が沸き、湯気が立ち上っている。
タカシを追う二人のうち、一人が完全に背中を向けている。
ベリスは一瞬で動いた。
剣の刃を、鍋のツルに引っ掛ける。シャッ、という金属と金属が触れ合う音。一瞬の動作。無駄がない。何度も繰り返した動き。
そして——投擲。
腕を振る。手首のスナップを効かせる。鍋が回転しながら空中を飛ぶ。熱湯が飛び散る。月明かりに照らされて、水滴が煌めく。まるでダイヤモンドのように。
山賊の背中に——直撃した。
ゴツン、という鈍い音。そして——
「ぎゃああああああ!!」
熱湯が背中と首筋に——服の中に入り込んで、肌を焼く。鍋本体も頭に当たる。男はよろめく。武器を落とす。手で背中を掻く。熱い、熱い、と叫びながら、地面に転がる。
背中から煙が立ち上っている。いや、湯気だ。服が濡れて、体温で湯気が立っている。
ベリスは既に動いていた。
一歩——地面を蹴る。
二歩——距離を詰める。
三歩——よろめく山賊の背後に回り込む。
山賊の首筋に刃を当てる。左の頸動脈。ここを切れば、数秒で意識を失う。
一閃。
刃が肉を切り裂く音。ブッッ、という鈍い音。
頸動脈が切断される。血が——噴き出す。黒い血。月明かりの下では、血すらも黒く見える。まるでインクのように。
山賊は声も出せずに倒れた。喉を押さえる間もなく。地面に崩れ落ちる。ドサッ、という重い音。身体が痙攣する。足が痙攣する。でもすぐに——動かなくなる。
ベリスは剣を振って、血を払った。シュッ、という音。血滴が地面に散る。
もう一人の山賊——タカシを追っていた男が振り返った。
「な、何だ!?」
仲間が倒れているのを見て、硬直する。その目には恐怖の色。口が開いている。何が起きたのか理解できていない。
ベリスはこの男に駆け寄り、中段に構える。刃を相手に向けて、重心を低く。
喉に向けて突き出す——
血が刃を伝い、柄を伝い、地面に滴り落ちる。ポタポタと。
山賊は喉を押さえて倒れる。声にならない悲鳴。地面に崩れ落ちる。
これで二人目。
残り、四人。
親分が叫んだ。
「おい、お前ら囲め! 一人ずつじゃ勝てねぇ!」
手下二人がベリスに向かって走る。剣と斧を構えて、突進してくる。
ベリスは剣を構えた。
一人目の剣を受け止める——ガキィン——
火花が散る。二人目の斧を躱す。体を捻って、刃を避ける。また一人目の剣——ガキン——けん制の応酬。
ベリスは冷静に観察していた。
動きが遅い。訓練を受けていない。二人同時でも、脅威にならない。
さっさと終わらせるか。
ベリスはショートソードを無造作に持ち、自然体のまま一歩前進した。気迫にたじろいだ二人の山賊は後退し、焚き火を挟んでベリスと対峙した。焚き火でベリスの直進を妨げるように。
二人の山賊との間に、焚き火がある。燃えている薪。大きめの薪が、火の中にある。
ベリスは歩を進め、焚き火の中の薪を無造作に蹴り飛ばした。
燃える薪が空中を飛ぶ。火の粉が散る。オレンジ色の光の軌跡。
「うわっ!」
二人の山賊が顔を庇う。視界が遮られる。そして燃える薪が顔面に——
「熱っ!!」
ひるむ。その隙を、ベリスは見逃さない。
一歩踏み込む。一人目の喉に剣を一閃。
喉が切り裂かれる——血飛沫。月明かりの中で、血の霧が舞う。
山賊は喉を押さえて倒れる。喉から血が溢れる。息ができない。苦しそうに身体を捩る。だがすぐに、動かなくなる。
即座に二人目へ。
同じく喉を一閃。
二人目も倒れる。地面に崩れ落ちて、痙攣する。血の海が広がっていく。
親分が舌打ちした。
「ちっ……こいつ、思ったより強ぇ!」
親分は残った手下を見た。一人だけだ。恐怖で震えている。
「お前、一気に行くぞ!二人で挟むんだ!」
手下——震えている男も、渋々頷く。
「お、おう!」
二人が位置を取る。
正面にロングソードを持った親分。
ベリスの左手には斧を持っている手下。
ベリスの右手にはこん棒を持った手下。
親分が叫んだ。
「行くぞ!」
三人が同時にベリスに突進する。剣、斧、こん棒が振るわれる。
ベリスは冷静に判断した。
三人同時か。だが——左の斧使い、斧の重さに振り回され構えが甘い。
ベリスは左に動いた。
左側の手下の斧を躱しながら、その懐に一気に踏み込む。至近距離。
手下の目が見開かれる。
「え!?」
斧使いは、振り下ろす斧を止められない。意識はベリスに。斧に振り回されて体は流れ親分に抱き着くようにぶつかる。そして斧は右の手下へ流れる。右の手下は、その斧をなんとかこん棒で受け止める。ゴツン、という鈍い音。
ベリスの剣が、背を向けた手下の左脇の下から肋骨の間に滑り込む。
心臓を貫く。
手下の目が、さらに見開かれる。口が開く。だが声が出ない。
「が……」
声にならない悲鳴。
ベリスは剣を引き抜く——血が噴き出す。手下の身体が、糸の切れた人形のように崩れる。
ベリスはその倒れかける身体を押しやり——親分にもたれかからせた。
「うおっ!?」
親分は仲間の身体を受け止めようとして、バランスを崩す。剣を振り下ろそうとしていた腕が止まる。
右側の手下——親分と仲間がぶつかったのを見て、一瞬動きが止まる。たたらを踏む。どうすればいい? 攻撃すべきか? それとも——
ベリスはその隙を突いた。
右側の手下の左膝を、踏みつけるような蹴りを叩き込む。
ゴキッ——
鈍い音。骨が折れる音。膝が逆方向に曲がる。
「ぎゃああ!!」
手下は前に崩れ落ちる。膝から崩れて、顔から地面に倒れ込む。
ベリスの蹴りが、その頭に直撃する。
ガツン——
手下は意識を失って、地面に倒れる。動かない。死んではいないようだが、戦えない。
親分は仲間の身体を脇に押しやって、ベリスを睨んだ。
剣を構える。
「て、てめぇ……!」
だがその目には——恐怖の色があった。
五人の手下が、全員倒された。こいつは——化け物だ。
ベリスは剣を構えたまま、静かに言った。
「悪いが、急いでる」
親分は後退した。
逃げるしかない。このまま戦っても、勝てない。
親分は剣を投げ捨てて、森の奥へ走り出した。
「ちくしょう!!」
ベリスは追おうとした——が。
右膝に、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
激しい動きで、古傷が悲鳴を上げている。熱を持っている。腫れている。追えない。
親分の姿が森の奥に消えていく。足音が遠ざかる。そして——静寂。
ベリスは舌打ちした。
「逃がしたか……」
ベリスは深呼吸した。
終わった。一分——いや、二分かかったか。
だが——親分を逃がした。それが問題だ。
右膝に、鋭い痛みが走る。
「っ……!」
激しい動きで、古傷が悲鳴を上げている。熱を持っている。腫れている。
まずいな。やっちまった。
ベリスは周囲を見回した。
地面には五人の山賊。二人は即死している。頸動脈切断と、心臓貫通。二人は出血多量で、もう助からない。喉を切られて、血の海の中で痙攣している。一人は膝を砕かれて、失神している。こん棒使いだ。
血の臭い。生臭い臭い。月明かりの下で、血の海が黒く光っている。
ベリスは膝を押さえる。痛い。動かすたびに、鋭い痛みが走る。
そのとき。
森の端に——タカシの姿が見えた。
息を切らしている。顔は青白い。震えている。周囲の惨状を見て、硬直している。
ベリスは驚いた。
「タカシ!?」
なんで戻ってきた。
怒りと——そして、どこか安堵の感情が混ざる。
「なんで戻ってきた!」
タカシは立ち尽くしている。言葉が出ない。初めて見る戦闘の跡。死体。血。その光景に、呆然としている。
足が震えている。顔が青白い。吐きそうな顔をしている。
ベリスはもう一度叫んだ。
「なんで戻ってきた!」
「親分が逃げた。追わなきゃいけないのに——」
だがタカシは——動けなかった。硬直している。恐怖で足が動かない。初めて見る戦闘の跡。死体。血の海。
ベリスは舌打ちした。
「ちっ……!」
親分の気配は、もう完全に消えていた。追うのは無理だ。膝も限界だ。
ベリスは膝を押さえたまま、タカシを見た。
怒りと——複雑な感情が、その目にあった。
「なんで戻ってきたって、聞いてるんだ」
低い声。抑えた怒り。
タカシは震えながら——小さな声で答えた。
「……確認したかったんです」
「ベリスが……無事か」
ベリスは何も言わなかった。
ただタカシを見つめる。
その目には——怒り、呆れ、そして——どこか、誇らしげな色があった。
周囲は静かだった。風の音。木々の揺れる音。そして——地面に倒れた山賊たちの、途切れ途切れの呼吸。
血の臭い。焚き火の煙の臭い。それらが混ざり合って、夜の空気を満たしている。
タカシは初めて見る光景に、吐き気を催した。でも——堪える。これが、戦いの現実なんだ。
ベリスは膝を押さえながら、ゆっくりと歩いた。
「……後で話す」
その声は、いつもより低かった。
「今は、後始末だ」
後始末。
タカシは、その言葉の意味を——まだ理解していなかった。




