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『錆びた刃と、新しい火』  作者: 紺屋灯探


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8/12

第2章:道中の試練 ④茶の香り、忍び寄る気配

ベリスと出会ってから、四日が経った。


 タカシが目を覚ましたのは、森の奥から響く鳥の鳴き声だった。チチチチと甲高く鳴く声に、別の鳥が応えるように、コロコロと転がるような柔らかい音を返している。まだ日の出前だが、東の空が白み始めており、木々の間から薄明かりが差し込んでいた。


 タカシはゆっくりと身体を起こした。寝袋の中は温かかったが、外気は冷たい。息が白く見える。身体はまだ痛む。背中も、腰も、肩も。だが、初日に比べれば随分マシになっていた。最初の二日間は、歩くだけで足が棒のようになり、荷物の重さに潰されそうだった。三日目になって、ようやく身体が慣れ始めた。そして今日、四日目——足取りは、まだ重いが、確実に軽くなってきている。


 手のひらも、もう痛まない。マメはタコのように固くなり始めていた。ベリスが「潰すな。潰したら何もできなくなる」と何度も注意してくれたおかげだ。火打石を打つ手つきも、初日とは比べ物にならないほど滑らかになっていた。


 不思議と、気分は悪くなかった。むしろ清々しかった。こんな朝を迎えたのは、いつぶりだろう。元の世界では、朝はいつも憂鬱だった。学校に行きたくなくて、誰とも会いたくなくて、布団の中でできるだけ長く目を閉じていたかった。だが今は、自然と目が覚める。それは、今日また何かを学べる、何かができるようになれる、という期待があるからかもしれない。


 焚き火は消えかけていた。灰の中に、かすかに赤い火種が残っている。パチ、と小さく爆ぜる音がして、薄い煙が立ち上った。


 ベリスはいなかった。焚き火の前に彼の荷物はあるが、本人の姿は見えない。タカシは少し不安になった。置いていかれたのだろうか。それとも——だがすぐに、森の奥から足音が聞こえた。枝を踏む音、草を掻き分ける音。規則正しい足音。ベリスだ。


 ベリスが戻ってきた。手には、何かの動物を持っていた。ウサギだった。まだ小さい、子ウサギ。首が折れており、すでに息絶えている。ベリスはタカシを一瞥し、ウサギを地面に置いた。


「起きたか」


「……はい」


「顔を洗ってこい。川はあっちだ」


 ベリスは森の奥を指差した。タカシは頷き、寝袋から這い出して立ち上がる。足がまだ痛むが、昨日よりは少しだけマシだった。




 川は、歩いて数分のところにあった。小さな川で、透明な水がゆっくりと流れている。川底の石が見えた。丸い石、白い石、苔むした石。水は浅く、せいぜい足首まで届く程度だ。


 タカシは川に手を浸した。冷たい。だが、心地よい冷たさだった。肌を刺すような痛みではなく、目を覚ますような、清々しい冷たさ。タカシは顔を洗った。水が冷たくて、頬が引き締まる。髪も濡らし、指で梳いた。櫛はない。でも、手で十分だった。


 水面に、自分の顔が映った。やつれた顔。頬がこけていて、目の下にクマがあり、唇も乾いている。でも——昨日より、少しだけ表情が柔らかい気がした。眉間の皺が、少しだけ緩んでいる。


 これが、今の自分だ。弱くて、何もできなくて、惨めで——でも、初日、火を熾した自分だ。三十回も失敗して、それでも諦めずに、三十一回目で成功した自分だ。


 タカシは小さく息をついて顔を上げ、空を見上げた。ゆっくりと雲が流れている。鳥が飛んでいる。木々の葉が、朝の風に揺れている。この世界に来て、初めて——タカシは、空を「綺麗だ」と思った。




 野営地に戻ると、ベリスがウサギの皮を剥いでいた。手際がいい。ナイフで切れ目を入れ、皮を引き剥がす。赤い肉が露わになり、内臓を取り出して脇に置く。その動きは無駄がなく、まるで何百回も繰り返してきたかのように滑らかだった。


 タカシは少し顔をしかめた。血の臭いがする。生臭い臭い。だがベリスは何も言わず、黙々と作業を続けた。


「火を熾せ」


 ベリスは顔も上げずに言った。


 タカシは焚き火を見た。灰の中に、まだ赤い火種が残っている。それを見て、少し戸惑った。種火が残っているのに、ゼロから熾すのだろうか?


 ベリスはタカシの視線に気づいたように、続けた。


「種火は使うな。昨日と同じようにやれ」


 タカシは頷いた。これは練習だ。種火に頼らず、ゼロから熾す練習。


 タカシは火打石と火口を取り出した。初めての日は三十一回かかった。今日も——二十回以内で、熾したい。いや、できれば十五回以内で。


 タカシは深呼吸をして、火打石を打った。


 カチン——


 火花が飛ぶ。だが、火口に当たらない。角度が少しずれた。


 もう一度。今度は角度を修正して。


 カチン——


 今度は火口に当たった。だが、着火しない。火花が弱かったのかもしれない。


 もう一度。もっと力を込めて。


 カチン——


 火種が生まれかける。小さな赤い光。だが、すぐに消える。息を吹きかけるのが早すぎたのかもしれない。


 タカシは焦らず、呼吸を整えた。初めて教えてもらった日、ベリスは何と言ったか。『火は生き物だ』。そうだ。急いではいけない。優しく、丁寧に。


 タカシはもう一度、火打石を打った。今度は、もっと慎重に。


 カチン——


 火花が飛ぶ。火口に当たる。小さな火種が生まれる——タカシは息を吹きかけた。優しく、ゆっくりと。昨日学んだように。火種が大きくなる。煙が立ち上る。赤い光が広がる。


 そして——火が起きた。


 タカシは小さく笑みを浮かべた。数えていた。今のは——十三回目だった。初めての日より、十八回も早い。タカシは薪を足し、火を大きくする。炎が揺れる。パチパチと音がする。


 ベリスはそれを一瞥し、小さく頷いた。


「悪くない」


 それだけだった。褒め言葉でも、詳しい評価でもない。ただ「悪くない」。でもタカシは、それで十分だった。昨日より早く熾せた。それが何より嬉しかった。




 朝食は、ウサギの肉と昨夜の残りのスープだった。ベリスは手早く肉を串に刺し、火で炙る。脂が滴り、ジュウジュウと音を立てて炎が跳ねた。香ばしい匂いが立ち上る。焼けた肉の匂いは、タカシの空腹を刺激した。


 タカシは黙ってその様子を見ていた。ベリスの手つきは無駄がない。串を回し、均等に火を通し、肉の焼け具合を確認する。まるで呼吸をするように自然な動作だった。


 やがてベリスが肉の串を一本、タカシに差し出した。


「食え」


「はい」


 タカシは串を受け取り、齧る。熱い。だが、美味い。肉は柔らかく、ほんのり塩味がした。ベリスが持っていた塩を振ったのだろう。噛むたびに肉汁が溢れ、口の中に広がる。タカシは夢中で食べた。昨日もたくさん食べたはずなのに、まだ足りない気がした。身体が、もっと栄養を求めている。


 ベリスも黙々と食べている。二人は言葉を交わさず、ただ食事に集中した。朝の森は静かで、焚き火のパチパチという音と、遠くの鳥の鳴き声だけが聞こえる。それは不思議と心地よい時間だった。誰かと一緒に食事をする。ただそれだけのことが、タカシにはとても新鮮だった。




 食事を終え、ベリスが立ち上がった。


「片付けろ」


 タカシは頷き、食器を川に持っていく。冷たい水で洗い、川底の砂で擦る。油が落ちて、水面に虹色の膜が広がった。タカシはそれをもう一度すすぎ、きれいにする。


 戻ると、ベリスは荷物を整理していた。タカシも自分の荷物を背負う。肩に食い込む重さ。だが昨日より、少しだけ軽く感じた。だんだん慣れてきたのかもしれない。それとも、身体が少しずつ強くなってきているのかもしれない。


 ベリスは焚き火の跡を土で埋め、足で踏み固める。そして周囲を確認した。忘れ物はないか、痕跡は残っていないか。プロの冒険者らしい、慎重な確認作業。すべて確認し終えると、ベリスはタカシを見た。


「出発前に、少し訓練をする」


「……訓練、ですか?」


「ああ」


 ベリスは腰のナイフに手をかけた——いや、ナイフではなく、その隣に下げた短剣に触れた。実戦を想定しているのだろうか。タカシは少し緊張した。


「いいか。お前は戦えない」


 ベリスの声は、いつもより低く、真剣だった。


「だが、『逃げる』ことはできる。今日からは、逃げ方を教える」


「逃げ方……?」


「ああ」


 ベリスはタカシの正面に立った。その目は、教師の目だった。厳しいが、見捨てない目。


「敵に襲われた時、どう動くか。どこを見るか。どう呼吸するか。それを身体に叩き込む。戦えない者は、逃げることで生き延びる。それを恥じるな」


「……はい」


「まず、基本だ。敵に背後から腕を掴まれた時、どうする?」


「え……」


 タカシは答えられなかった。どうする? 暴れる? 叫ぶ? それとも——


「考えるな。身体で覚えろ。やってみせる」




 ベリスはタカシの背後に回った。そして——タカシの腕を掴んだ。ぎゅっ、と。しっかりとした、逃れられない力で。


 タカシの身体が、一瞬で硬直した。


 呼吸が止まる。心臓がドクンと大きく跳ねる。頭の中が真っ白になる。


 誰かに——掴まれた。誰かに——捕まった。


 あの時と、同じだ。


 召喚された時。拘束された時。王宮で、誰かに腕を掴まれた時。「逃げられない」と思った時。あの恐怖が、一気に蘇る。


 タカシの呼吸が荒くなる。胸が苦しい。息ができない。視界が揺れる。心臓が早鐘を打つ。全身に冷や汗が噴き出す。


 怖い——




「タカシ」


 ベリスの声が、遠くから聞こえた。まるで水の中にいるような、こもった声。


「深呼吸しろ」


 タカシは——できなかった。息が、吸えない。喉が詰まったようで、空気が入ってこない。


 ベリスは腕を離した。


 タカシはその場に膝をつき、地面に手をついた。ハァハァと、荒い呼吸が漏れる。地面が揺れているように見える。いや、自分が震えているのだ。


「……すみません……すみません……」


 タカシは謝り続けた。なぜ謝っているのか、自分でも分からない。でも、謝らなければならない気がした。できなかった。また、できなかった。期待に応えられなかった。また失敗した。また——


 ベリスは黙ってタカシの隣にしゃがみ込んだ。そして、タカシの背中に手を置いた。大きな、温かい手。その重みが、不思議とタカシを落ち着かせた。


「いいか。俺と合わせて、ゆっくり吸え」


 ベリスの声は、いつもより低く、穏やかだった。怒っていない。呆れてもいない。ただ、そこにいる。


「吸うぞ——吐くぞ——吸うぞ——吐くぞ——」


 タカシはベリスの声に従い、ゆっくりと呼吸した。最初はうまくいかない。息を吸おうとすると、喉がひっかかる。でも、ベリスの手が背中にある。その温もりが、タカシを支えている。そしてベリスも、一緒に呼吸している。その気配が、タカシを導いてくれる。


 吸うぞ——吐くぞ——吸うぞ——吐くぞ——


 少しずつ、呼吸が整ってくる。心臓の鼓動が、ゆっくりになる。視界が、はっきりしてくる。地面の石が見える。草が見える。自分の手が見える。


 タカシは顔を上げた。ベリスが、隣にいた。心配そうな顔で、タカシを見ていた。その目には、責めるような色はなかった。ただ、静かに待っていた。


「……すみません」


「謝るな」


 ベリスは立ち上がり、タカシに手を差し伸べた。タカシはその手を掴み、立ち上がる。足がまだ少し震えている。


 ベリスはタカシの目を見た。その視線は真っ直ぐで、逃げることを許さない。でも、責めてもいない。


「いいか。俺はお前を傷つけない。これは訓練だ。お前を守るための訓練だ」


「……はい」


「お前は、誰かに捕まることが怖いんだな」


 タカシは頷いた。声が出なかった。喉が、まだ震えている。


「……召喚された時、拘束されました」


 タカシの声は、かすれていた。


「腕を掴まれて、部屋に閉じ込められて——何もできませんでした。抵抗もできなくて、ただ、怖くて——」


 言葉が震える。目に、また涙が浮かんでくる。タカシは必死にこらえた。泣いてはいけない。もう子供じゃない。でも——


 ベリスは小さく息をついた。


「……そうか」


 それだけだった。でもその短い言葉に、タカシは救われた気がした。ベリスは否定しなかった。「甘えるな」とも言わなかった。「それくらい我慢しろ」とも言わなかった。ただ、「そうか」と言ってくれた。それは、タカシの恐怖を認めてくれた、ということだった。




 ベリスは少し考えた後、言った。


「じゃあ、今日は別の方法でやる」


「別の……?」


「ああ。もう一度やる。だが今度は、目を開けたままでいい。俺の顔を見ろ。俺は敵じゃない。それを、お前の身体に教えるんだ」


 ベリスは再びタカシの背後に回った。タカシの身体が、また強張る。でも、今度は逃げない。ベリスの言葉を信じる。


「いいか。今から腕を掴む。だが、お前は俺の顔を見続けろ。振り返って、俺を見ろ」


 タカシは頷いた。


 ベリスはゆっくりと、タカシの腕を掴んだ。今度は優しく、でもしっかりと。


 タカシの身体が強張る。また恐怖が蘇る。でも——今度は、振り返った。


 ベリスの顔が見える。その顔は、怖くなかった。厳しいが、優しい顔。タカシを見捨てない顔。


 ベリスは静かに言った。


「いいか。敵に捕まった時、まず最初にすることは——相手の顔を見ることだ。どこにいるか確認しろ。目を逸らすな。恐怖に支配されるな。相手を見ろ。それが、最初の一歩だ」


 タカシはベリスの目を見た。その目は、優しかった。タカシを責めていない。ただ、教えようとしている。


「次に、呼吸を整えろ。パニックになれば、身体は動かない。深呼吸だ」


 タカシは深呼吸した。吸って——吐いて——少しずつ、心臓の鼓動が落ち着いてくる。ベリスの手が腕にあるが、もう怖くない。いや、怖いが——それでも、逃げなくていい。ベリスは敵じゃない。


「そして——力を抜け」


 ベリスはタカシの腕を掴んだまま、言った。


「お前は、身体が硬すぎる。力を抜け。脱力しろ。力で対抗しようとするな。それは無理だ。お前は敵より弱い。だから、力以外の方法で逃げるんだ」


「でも——」


「『でも』じゃない。力を抜いた方が、動ける。騙されたと思って、試してみろ」


 タカシは意識的に、肩の力を抜いた。最初は難しかった。恐怖があると、身体は自然と強張る。でも、ベリスの声に従い、ゆっくりと力を抜いていく。


 すると——不思議なことに、身体が少しだけ軽くなった気がした。呼吸も楽になる。


「いいか。今から、俺が腕を引く。お前は、その力に逆らうな。流れに乗れ。力を流せ」


 ベリスはタカシの腕を引いた。


 タカシは、その力に逆らわず、身体を動かした。ベリスの動きに合わせて、身体を回転させる。すると——自然と、ベリスの手から腕が抜けた。


 タカシは目を見開いた。


「……抜けた……?」


「ああ。力じゃない。タイミングだ。相手の力を利用するんだ」


 ベリスは小さく笑った。その笑みは、珍しく穏やかだった。


「もう一度やる。今度は、もっと速く」




 二人は何度も練習した。最初、タカシは毎回硬直した。身体が動かなかった。恐怖が先に来て、思考が止まる。でもベリスは焦らせなかった。タカシが硬直するたびに、腕を離し、深呼吸を促した。


「いいか。お前は今まで、誰かに捕まることしか知らなかった。だから怖いんだ。でも、これから覚えるんだ。『捕まっても、逃げられる』ということを。それを身体に刻み込むんだ」


 タカシは頷いた。何度も、何度も繰り返した。


 五回目——少しだけ、身体が動いた。まだぎこちないが、前よりは硬直が短い。


 一〇回目——呼吸が整うのが早くなった。ベリスの顔を見ることを忘れなくなった。


 一五回目——ベリスの手から、スムーズに腕が抜けた。


 タカシは目を見開いた。


「……できた」


「ああ」


 ベリスはタカシの肩を叩いた。その手は、重かったが温かかった。


「まだ実戦で使えるわけじゃない。だが、昨日のお前とは違う。少しずつだ。焦るな」


「はい」


 タカシは自分の手を見た。さっきまで震えていた手が、今は少しだけ落ち着いている。できた。また、できた。初日は火を熾した。これまでベリスについて歩いてくることができた。そして今日は、腕を抜くことができた。小さなことだ。でも、確実に前に進んでいる。


 タカシは小さく笑みを浮かべた。その笑みを見て、ベリスも小さく頷いた。




 訓練を終え、ベリスが荷物を背負った。


「さあ、出発だ」


「はい」


 タカシも荷物を背負う。肩に食い込む重さは相変わらずだが、もう慣れた。二人は再び、森の中を歩き始めた。


 一時間ほど歩いた頃——ベリスが突然立ち止まった。タカシも立ち止まる。


「……どうしました?」


 ベリスは答えなかった。彼は森の奥を見つめている。その目は鋭く、何かを探すように木々の間を見渡している。タカシは少し不安になった。何かあるのだろうか。


 ベリスは数秒間、じっと森を見つめた後、小さく息をついた。


「……いや」


 そして歩き始める。だがその歩き方は、さっきまでと少し違った。もっと慎重で、もっと緊張していた。足音も小さい。まるで獲物を追う獣のような歩き方。タカシはその変化に気づいた。何かが——変わった。


 しばらく歩いた後、ベリスが再び立ち止まった。そして、タカシを振り返った。その顔は、いつもより険しかった。


「タカシ。今日から、俺の三歩後ろを歩くな」


「え?」


「五歩後ろを歩け」


 タカシは戸惑った。なぜ? 三歩でも十分離れているのに、なぜさらに離れなければならないのか。


「そして、何か音が聞こえたら——すぐに伏せろ。考えるな。反射的に伏せるんだ」


「……何か、あるんですか?」


 ベリスは少し黙った後、答えた。その声は、いつもより低かった。


「……分からん。だが、用心に越したことはない。俺の指示に従え」


 タカシは頷いた。


「はい」




 二人は再び歩き始めた。だがタカシは、今度はベリスの五歩後ろを歩いた。距離が開いた。それは少し寂しい気がした。昨日まで、ベリスの背中はもっと近かった。その背中を見ているだけで、安心できた。だが今は、少し遠い。


 でも——これが必要なのだ、とタカシは理解した。ベリスは、何かを警戒している。だからタカシを遠ざけている。守るために。


 ベリスは時々立ち止まり、周囲を警戒した。木々の間を見る。風の音を聞く。鳥の鳴き声に耳を澄ます。その姿は、まるで野生の獣のようだった。研ぎ澄まされた感覚で、森のすべてを読み取ろうとしている。


 タカシは黙ってベリスの後ろをついて歩いた。森は静かだった。鳥が鳴いている。風が吹いている。木々が揺れている。何も変わっていない——ように見える。


 だが、ベリスは警戒を解かない。その緊張が、タカシにも伝染した。タカシは周囲を見回した。何かいるのだろうか。獣? それとも——人?




 昼過ぎ。二人は小さな開けた場所で休憩した。ベリスは荷物を下ろし、水を飲んだ。タカシも水を飲む。喉が渇いていた。歩き続けて、汗もかいている。


 ベリスは立ったまま、周囲を警戒していた。その目は、休んでいない。常に何かを探している。タカシは小さな声で聞いた。


「……ベリス、本当に何かあるんですか?」


 ベリスは少し黙った後、答えた。


「……気配がする」


「気配?」


「ああ。誰かが、この辺りを移動してる。そして俺たちが止まると、そいつらも止まる」


 タカシの背筋が凍った。誰か、と言った。獣ではなく、人。人が——この森にいる。そして、追跡している。


「誰、ですか……?」


「分からん。まだ遠い。だが——」


 ベリスは森の奥を見た。その目は、さらに険しくなった。


「俺たちを追ってるのか、それともたまたまこの辺りにいるのか、それも分からん。だが、油断はできない」


 タカシは喉が乾いた。いや、さっき水を飲んだばかりなのに、また喉が渇く。それは恐怖からくる渇きだった。


「もし、敵だったら——」


「その時は、お前は逃げろ」


 ベリスの声は、静かだが強かった。有無を言わせない、命令の声だった。


「いいか。もし何かあったら、お前は俺を置いて逃げろ。来た道を戻れ。そして街まで走れ」


「でも——」


「『でも』じゃない。これは命令だ」


 ベリスはタカシを見た。


 その目は、真剣だった。


「お前は戦えない。だから、逃げるんだ。それが、お前の役目だ」


 タカシは何も言えなかった。


 ベリスは荷物を背負った。


「行くぞ。今日中に、次の村まで着きたい」


「はい」




 二人は再び歩き始めた。だがベリスの警戒は、さらに強くなっていた。彼は時々立ち止まり、街道の右手側——深い森の方を警戒した。タカシもつられてそちらを見たが、何も見えない。


 森は静かだった。何も変わっていない——ように見える。でも、何かが——いる。タカシはそう感じた。それは理屈ではなく、本能的な恐怖だった。見えない何かが、自分たちを見ている。追っている。近づいている。


 太陽が西に傾き始めた。木々の間から、オレンジ色の光が差し込んでいた。影が長くなる。森が、少しずつ暗くなっていく。


 ベリスは立ち止まり、周囲を見回した。


「今日はここで野営する」


「……もう、ですか?」


 まだ明るい。いつもなら、もう少し歩いてから野営するはずだ。


「ああ。暗くなる前に、準備を終えたい」


 タカシは頷いた。ベリスの判断は正しい。暗くなってから野営の準備をするのは危険だ。特に、何かがこの森にいるなら——


 ベリスはいつもより早く、野営の準備を始めた。焚き火を作る。荷物を整理する。周囲を確認する。その動きは、いつもより速く、そして——慎重だった。無駄な動きが一切ない。まるで何度も繰り返してきた作業のように、機械的に、正確に。


 タカシも手伝った。薪を集める。火を熾す。今度は10回で成功した。今朝より、さらに早い。だがベリスは今日、それを褒めなかった。ただ一瞥し、頷いただけだった。彼の意識は、完全に警戒に向いている。


 夜が近づいてきた。森が暗くなる。木々の影が、地面に長く伸びる。風が冷たくなってきた。




 夜。焚き火の前で、二人は黙って座っていた。


 ベリスは今夜も簡単なスープを作った。干し肉と野菜の切れ端、移動中に採取したキノコを入れた、質素だが温かいスープ。それに固パンを浸して食べる。ベリスは師匠から「野営でも、ちゃんとしたものを食え」と教わったのだと、以前話してくれた。


 二人は黙々と食事を済ませた。


 だが今夜は、いつもと違った。


 ベリスは食事を終えた後も、鍋を火にかけたままにしていた。ときおり水を足し、湯を保っている。そして懐から、小さな布袋を取り出した。


 中から、乾いたなにかを取り出す。


 タカシは少し驚いた。お茶? この世界に来てから、一度も飲んだことがなかった。王宮でも、出されたことはない。どれほど貴重なものなのだろうか。


 ベリスはコップに湯を注ぎ、茶葉を入れた。甘い香りが立ち上る。いや、甘いというより——複雑な、何とも言えない良い香り。森の夜に、その香りが広がっていく。


 ベリスはそれをタカシに差し出した。


「飲め」


「……いいんですか?」


「ああ」


 タカシは温かいお茶を受け取った。一口飲む。


 苦い。でも、その後にほのかな甘みが広がる。不思議な味だった。身体が、芯から温まる気がした。こんな飲み物があるのか。


 ベリスも自分のコップにお茶を注ぎ、ゆっくりと飲んだ。その様子は、いつもより——落ち着いているようで、でも、どこか緊張しているようにも見えた。


 お茶の香りが、夜の森に漂う。焚き火の煙に乗って、遠くまで届いているような気がした。


 なぜベリスは、今夜に限ってお茶を? たぶん貴重なものだ。いつもなら、食事が終われば鍋を片付けるのに、今夜は火にかけたまま、湯が一定以上減らないように、ときおり水を足している。


 タカシは何も聞かなかった。ベリスには、理由があるはずだ。


 ベリスは鍋を火にかけたまま、周囲を警戒し続けた。


 そして——ふと、気づいた。


 森が、静かすぎる。


 鳥の鳴き声が、聞こえない。虫の音も、聞こえない。風は吹いている。木々は揺れている。だが——一方向から生き物の気配が、ない。そちらはまるで森が息を潜めているかのように、静まり返っている。


 タカシは不安になった。


「ベリス……」


「静かにしてろ」


 ベリスの声は、いつもより低かった。彼は立ち上がり、焚き火の前に出ると腰のナイフに手をかけた。いや、ナイフではない——剣だ。腰に下げた剣の柄に、しっかりと手を置いている。


 そして——森の奥を見つめた。


 タカシも同じ方向を見た。だが——何も見えない。暗い森。揺れる木々。月明かりに照らされた、木々の影。


 何も——


 そのとき。


 遠くで、何かが動く音がした。


 ガサッ——


 枝を踏む音。木の葉を踏みしだく音。一つではない。複数の足音。


 ベリスの身体が、一瞬で臨戦態勢に入った。剣に手をかけたまま、膝を落として重心を低くする。その動きは、まるで獣のようだった。


 タカシは息を呑んだ。何かが——来る。


 ベリスは小さな声で言った。その声は、低く、抑えられていた。


「タカシ。焚き火の後ろにいろ。小さい水袋と固パンだけ持っておけ、何があっても動くな」


「はい」


 タカシは焚き火の後ろで立っていた。心臓がドクドクと跳ねている。手が震える。呼吸が浅くなる。今朝の訓練を思い出せ。深呼吸だ。吸って——吐いて——


 ベリスは剣を抜いた。


 ジャッ——


 鋭い音が、夜の森に響いた。


 刃が、月明かりを反射して鈍く光る。


 森が、静寂に包まれた。風すら、止まった気がした。タカシは息を殺して、焚き火の後ろに身を潜めた。


 そして——何かが、近づいてくる。


 複数の足音。複数の——人間の足音。


 ため息とともにベリスは低く呟いた。その声には、諦めと——覚悟が混ざっていた。


「……来たか」




 タカシは震えながら、焚き火の後ろに身を隠した。怖い。何が来るんだ。誰が——


 そして、森の奥から——声が聞こえた。


「おい、そこの旅人。火を貸してくれねぇか?」


 荒い、男の声。明らかに友好的ではない。その声の裏には、嘲笑と侮蔑が滲んでいた。


 複数の笑い声が続く。ヒュー、ヒュー、という口笛。そして——木々の間から、影が現れた。


 一人、二人、三人——いや、もっといる。六人。


 彼らは武器を持っていた。剣、斧、棍棒。まともな装備ではない。錆びた刃、刃こぼれした斧、血痕の残る棍棒。それでも、人を殺すには十分な武器だ。


 そして——その顔には、笑みが浮かんでいた。それは、善意の笑みではなかった。獲物を見つけた獣の笑み。金になる獲物を見つけた、盗賊の笑み。


 ベリスは剣を構えたまま、静かに言った。


「……山賊か」


 男たちの一人——おそらくリーダーらしき大柄な男が、ニヤリと笑った。体格のいい男だった。顔には傷跡があり、右目の上から顎にかけて、斜めに走る古い傷。


「おう、そうだ。で、あんた——」


 男はベリスを見た。その目は、値踏みするような目だった。そして、焚き火の後ろに隠れているタカシにも気づいた。


「どうせ、オヤジとガキの二人旅だろ? ガキの顔見りゃわかる、そいつは荒事に慣れてねぇ。随分といい装備してんじゃねぇか。それ、全部置いてってくれや。そうすりゃ、命だけは助けてやる」


 ベリスは動じなかった。剣を構えたまま、静かに、しかし明確に答えた。


「断る」


「あぁ?」


 男の笑みが消えた。その目が、冷たくなる。


「じゃあ、殺して奪うだけだ。お前一人で六人相手に勝てると思ってんのか?」


 男たちが、じりじりと近づいてくる。タカシは息を殺した。見つかったらどうしよう。自分も殺されるのだろうか。


 ベリスは顔の前で水平に剣を構え口元を隠して、小さな声で言った。タカシにしか聞こえない、低い声。


「タカシ。いいか。今から、お前は走れ。街道を戻れ。お前が走れるところまで走って隠れろ。森には入るな。街道沿いの茂みに隠れて、夜明けまで動くな」


「でも——」


「命令だ。走れ」


 タカシは震えた。走る? ベリスを置いて? 一人で? できない——


 だが、ベリスの声は、絶対だった。拒否を許さない、命令の声。


「三つ数えたら、走れ。一——」


 男たちが、さらに近づく。包囲するように、扇状に広がっていく。


「二——」


 タカシは立ち上がった。足が震えている。膝がガクガクと震えて、今にも崩れ落ちそうだ。


「三——走れ!」


 ベリスが叫んだ。


 同時に——男たちが、襲いかかってきた。


 タカシは——走った。後ろを振り返らず、ただ——走った。足が縺れそうになる。木の根に躓きそうになる。でも、走り続けた。


 背後で、剣と剣がぶつかる音が響いた。ガキィン、という金属音。ベリスの叫び声。男たちの怒号。誰かが悲鳴を上げた。


 だがタカシは——走り続けた。暗い森の中を、月明かりだけを頼りに、ただひたすらに走った。


 涙が溢れた。頬を伝い、顎から滴り落ちる。


 ごめんなさい——ごめんなさい——


 ベリス、ごめんなさい——


 俺は、また——


 また、誰かを置いて、逃げてる——


 タカシは走り続けた。息が上がる。足が痛い。胸が苦しい。でも、止まれない。止まったら——ベリスの覚悟が、無駄になる。


 タカシは暗い森の中を、ただ走り続けた。



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