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『錆びた刃と、新しい火』  作者: 紺屋灯探


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第2章:道中の試練 ③刃を研ぐ夜、向き合う過去


 夜。焚き火の炎が、二人の顔を赤く照らしていた。

 タカシは火の番を任されている。時折薪を足し、火が弱まらないよう気を配る。昼間、31回目でようやく熾すことができた火。その記憶が、まだ手のひらに残っていた。

 手のひらには豆が潰れた跡があり、触れるとまだ痛む。だがその痛みは、不思議と心地よかった。これは、自分が何かをやり遂げた証だ。誰かに与えられたものではなく、自分の力で掴み取ったもの。

 タカシは焚き火を見つめた。炎が揺れる。パチパチと薪が爆ぜる音が、静かな森の夜に響く。

 風が吹いて、木々が揺れる。葉擦れの音。遠くで何かの鳴き声。この世界に来てから、タカシは初めて、夜の静けさを「怖い」と思わなかった。

 それは、ベリスがそこにいるからだ。

 ベリスは焚き火の向こう側に座り、腰の鞘からナイフを抜いた。刃には薄く汚れが付着していた。獣の血か、それとも別の何かか。タカシには判別がつかない。

 ベリスは懐から砥石を取り出すと、水袋から水を垂らし、何も言わずに研ぎ始めた。

 シャッ、シャッ、シャッ——

 規則正しい音が、夜の森に響く。

 タカシはその様子を黙って見つめていた。ベリスの手つきは無駄がない。一定のリズムで、一定の角度で、刃を砥石に滑らせる。まるで呼吸をするように自然な動作だった。


「お前もやれ」

 ベリスは顔も上げずに言った。

 タカシは少し驚いて、「え?」と声を上げる。

 ベリスは手を止め、タカシを見た。そして予備のナイフと砥石を取り出し、焚き火越しに差し出す。

「刃物は命だ。手入れを怠れば、お前が死ぬ」

 タカシは震える手でナイフと砥石を受け取った。ナイフは思ったより重い。刃には鈍い光沢があった。

「……どうやって、研ぐんですか?」

「見てただろう」

「でも——」

「見真似でいいから、やれ」

 ベリスは再び自分のナイフを研ぎ始める。

 タカシは見様見真似で、砥石にナイフを当てた。だが角度が分からない。力加減も分からない。適当に動かすと、刃がガタガタになった気がした。

 ギチギチ、という不快な音がする。これは違う。ベリスの音とは全く違う。

 タカシは焦った。どうすればいいんだ。どうやって——

 何度か試すが、うまくいかない。手に力が入りすぎている。呼吸も浅い。タカシは自分が緊張していることに気づいた。

 またできない。また失敗する。そういう思いが、頭の中を巡る。


 ふと、ベリスが立ち上がった。

 タカシは身体を強張らせた。怒られるのだろうか。「下手だ」と言われるのだろうか。

 だがベリスは何も言わず、焚き火を回り、タカシの隣に座った。そしてタカシの手を取った。

 タカシは一瞬、身体が強張る。

 誰かに触れられる。それは、この世界に来てから、恐怖と結びついていた。召喚された時。拘束された時。王宮で、誰かに腕を掴まれた時。

 だが——

 ベリスの手は温かかった。

 大きな手だった。ごつごつとした、剣だこのある手。だがその手は、不思議と優しかった。

「こういうナイフは、だいたい15度だ」

 ベリスはタカシの手を導き、ナイフの角度を調整する。

「この角度を身体で覚えろ。力はいらない。重さに任せて、滑らせるだけだ」

 彼の声は低く、静かだった。怒っているわけでも、呆れているわけでもない。ただ、教えている。

 タカシはベリスの手の動きに従い、ナイフを研ぐ。

 シャッ——

 音が変わった。

 さっきまでのギチギチという不快な音ではなく、滑らかな音。ベリスと同じ音だ。

 タカシは目を見開いた。

「そうだ。それでいい」

 ベリスはタカシの手を離し、自分の場所に戻る。


 タカシは一人で、ナイフを研ぎ続けた。最初はぎこちなかったが、少しずつリズムが生まれてくる。15度の角度を、手が覚え始めていた。

 シャッ、シャッ、シャッ——

 自分の音と、ベリスの音が重なる。

 二人は黙々とナイフを研ぐ。

 焚き火の音と、砥石の音だけが響く。

 それは不思議と心地よい時間だった。言葉は交わさないが、同じ作業を共有している。同じリズムで、同じ音を奏でている。

 タカシは今まで、誰かと何かを共有したことがあっただろうか。

 学校では、いつも一人だった。クラスメイトの輪には入れなかった。誰かと並んで何かをする、ということがなかった。放課後、誰かと一緒に帰ることも。休み時間、誰かと一緒に笑うことも。

 だが今、この焚き火の前で、ベリスと同じようにナイフを研いでいる。

 それは、とても些細なことだ。ただナイフを研いでいるだけ。でも——

 タカシは少しだけ、胸が温かくなるのを感じた。

 これが、「誰かと一緒にいる」ということなのかもしれない。


 しばらくして、タカシが口を開いた。

「ベリスは、いつから冒険者なんですか?」

 声が、静かな夜に響く。

 ベリスは手を止めず、答えた。

「……12の時だ」

「なんで冒険者に?」

「他に何もできなかったからだ」

 タカシは少し驚いた。ベリスのような人でも、「何もできなかった」と思う時があったのだろうか。この強い人が。この、何でもできそうな人が。

 タカシは、ベリスの顔を見た。焚き火の光が、彼の横顔を照らしている。その顔には、何の感情も浮かんでいないように見えた。

「……」

 ベリスは一度ナイフを研ぐ手を止め、タカシを見た。

「お前は? 元の世界では何をしてた?」

 タカシは少し迷った。何を話せばいいのだろう。

「……普通の、中学生、でした」

「中学生?」

 ベリスは少し首を傾げた。

「……学生? ……ああ、学校か。何歳だ?」

「十四、です」

「そうか」


 ベリスは小さく笑った。それは嘲笑ではなく、どこか懐かしむような笑みだった。

「普通、か」

「でも、普通じゃなくなりました」

 タカシは自分の膝を見つめる。寝袋の上に置かれた、自分の手。傷だらけの手。

「勝手に呼ばれて、勝手に使われて——」

 言葉が途切れる。

 何を言っているんだ、自分は。こんなこと、言っても仕方ないのに。ベリスだって困るだけだろう。

 だが——

 ベリスはナイフを研ぐ手を止め、タカシを見た。その目は、いつもより少しだけ柔らかかった。

「……そうだな」

 それだけだった。

 でもタカシは、その短い言葉に救われた気がした。ベリスは否定しなかった。「甘えるな」とも言わなかった。ただ、「そうだな」と言ってくれた。

 タカシは顔を上げ、ベリスを見る。

「ベリスは、俺のこと、可哀想だと思いますか?」

 ベリスは少し考えてから、答えた。

「思わない」

 タカシは少し驚いた。即答ではなかった。少し考えてから、答えてくれた。

「……」

「可哀想なのは、『選んでこなかった』お前だ」

 ベリスは再びナイフを研ぎ始める。

「だが今のお前は違う。今日、お前は火を熾した。自分の力で。それは、誰も奪えない」

 タカシは自分の手のひらを見た。マメはできていないが赤くなった指は、明日には、もっと痛くなるかもしれない。

 だがそれは、確かに自分が何かをやり遂げた証だった。

 30回。

 30回も失敗して、それでも諦めずに、31回目で成功した。

 自分の力で。

「……はい」


 タカシは再びナイフを研ぎ始めた。

 焚き火の音が、優しく響く。

 タカシは、ベリスの言葉を反芻していた。「誰も奪えない」。そうだ。今日の火は、自分が熾したものだ。30回失敗しても、諦めずにやり遂げた火だ。

 それは、誰かに与えられたものではない。王様に命令されて得たものでもない。自分で掴み取ったものだ。

 タカシは少しだけ、自分のことを誇らしく思った。

 こんな感情、いつぶりだろう。

 小学生の頃、テストで百点を取った時以来かもしれない。あの時は、母が喜んでくれた。「すごいね、タカシ」と言ってくれた。

 でも今は、誰も褒めてくれない。ベリスは「次は20回以内にしろ」と言っただけだ。

 でも——それでいいのかもしれない。

 褒められるために、やったわけじゃない。自分が、やりたかったからやった。できるようになりたかったから、やった。

 それだけで、十分だった。


 さらにしばらくして、タカシが再び口を開いた。

「ベリスは、Aランクじゃないんですか?」

 ベリスの手が一瞬止まった。

 タカシは、自分が何か悪いことを聞いてしまったのではないかと思った。だがもう、言葉は出てしまった。

「昔はな」

 ベリスの声は、いつもより少しだけ低かった。

「なんでBランクに?」

「……ギルドの上層部と、折り合いが悪い」

「折り合い?」

 ベリスは砥石を置き、ナイフを見つめた。刃は炎を反射して、鋭く光っている。完璧に研ぎ澄まされた刃。

「奴らはある仕事を俺たちに『やれ』と言った。俺は『やらない』と言った。それだけだ」

「……何を、やらないって?」

 ベリスは少し黙った後、答えた。

「人を値札で測るようなことだ」

 タカシは、その言葉の意味を完全には理解できなかった。人を値札で測る? それは、どういうことだろう。

 だが、ベリスが「何かを曲げなかった」ことは分かった。

 彼は自分の信念のために、何かを失ったのだ。ランクという評価。それに伴う報酬や名声。おそらく、もっと多くのものを。仲間や、地位や、もしかしたら——

 それでもベリスは、「やらない」と言った。

 タカシは、その重さを感じた。


「ベリスは、後悔してますか?」

 ベリスは遠くを見た。焚き火の向こう、暗い森の奥を。

 風が吹いて、木々が揺れる。葉擦れの音が、ざわざわと響く。

「……さあな」

 彼は再びナイフを研ぎ始めた。

 シャッ、シャッ、シャッ——

 その音は、さっきより少しだけ強かった。

 ベリスの視線の先にはナイフにあったが、ナイフではなく遠くを見ていた。タカシには見えない、何か遠い場所を。

 タカシは何も言わず、ただベリスを見つめていた。この人は強い。本当に強い。でもその強さは、何かを失った上に成り立っているのかもしれない。

 そう思うと、胸が少し痛んだ。

 同時に、タカシは思った。ベリスは、自分で「選んだ」のだ。「やらない」という選択を。その結果、失うものがあったとしても、彼は自分の意志で選んだ。

 それは、タカシにはなかったものだった。

 タカシは今まで、何も選んでこなかった。選ばされてきた。周りに流され、従い、言われるがままに動いてきた。学校でも、家でも、そして——この世界に来てからも。

 だがベリスは違う。彼は自分で選び、その選択の結果を受け入れている。後悔しているかもしれない。でも、それでも彼は自分の選択を曲げていない。

 タカシは、そんなベリスを尊敬した。

 そして——少しだけ、羨ましいと思った。


 やがてベリスが立ち上がった。

「寝ろ。明日も歩く」

「はい」

 タカシは寝袋に入った。地面は硬く、身体のあちこちが痛む。足は昼間の歩行で疲れている。肩も、背中も、腰も痛い。

 だが不思議と、眠れそうな気がした。

 これは、疲れているからだろうか。それとも——

 ベリスは焚き火の前に座り、夜の森を警戒している。その背中は、大きく見えた。頼もしく見えた。

 タカシは寝袋の中から、小さな声で言った。

「……ベリス」

「何だ」

「ありがとう、ございます」

 ベリスは少し黙った後、答えた。

「……礼を言うのは、村に着いてからにしろ」

「はい」


 でも、タカシは今、言いたかった。

 火の熾し方を教えてくれたこと。31回も失敗した自分を、見捨てずに見守ってくれたこと。

 ナイフの研ぎ方を教えてくれたこと。手を取って、優しく教えてくれたこと。

 そして、「選べ」と言ってくれたこと。

 タカシは、今まで誰かに「ありがとう」と言ったことが、あまりなかった気がする。

 いや、言葉としては言っていた。母に、先生に、店員に、いろんな人に。でも、それは本当の感謝だっただろうか。ただの習慣、ただの社交辞令だったのではないだろうか。

 でも今、この「ありがとうございます」は、本物だった。

 心から、そう思っていた。

 タカシは目を閉じた。

 焚き火の音が、優しく響く。パチパチという薪の爆ぜる音。シャッ、シャッ、という砥石の音。ベリスはまだ、ナイフを研いでいる。

 それらが混ざり合い、不思議な子守唄のようだった。

 タカシの意識は、少しずつ遠のいていく。

 だが眠りに落ちる直前、タカシはふと思った。

(明日も、火を熾せるかな……)

 それは不安ではなく、期待だった。もう一度、自分の力で火を熾してみたい。今度は、20回以内で。いや、できれば15回以内で。

 できるようになりたい。

 もっと、できるようになりたい。

 タカシは微かに笑みを浮かべて、眠りに落ちた。


 ベリスは夜の森を警戒しながら、ふと、タカシの寝顔を見た。

 穏やかな表情だった。昨日までの、怯えた表情とは違う。眉間の皺もない。口元も、少しだけ緩んでいる。

 ベリスは小さく息をついた。

(……15年前のロウも、こんな顔で寝ていたな)

 ベリスは目を閉じた。


 15年前。

 まだ若かった頃。ベリスが27歳の時。

 辺境の村で、親を失った孤児が冒険者志望だと聞き、ベリスは軽い気持ちで会いに行った。「才能がなければ断るつもりで」と、そう自分に言い訳をしながら。

 だが、ロウに会った瞬間——その目を見た瞬間——ベリスは、断る言葉を飲み込んだ。

 その少年の名は、ロウ。16歳だった。

 ロウの瞳には、まだ光があった。希望という名の、馬鹿げた輝きが。

 ロウはタカシと同じように、何もできなかった。剣も持てない。魔法も使えない。体力もない。ただの、普通の少年だった。

 だがベリスは、ロウを弟子として受け入れた。

 そして少しずつ、色々なことを教えた。

 火の熾し方。ナイフの研ぎ方。護身の仕方。

 ロウは理想的な弟子だった。文句を言わず、指示を忠実に守り、失敗しても諦めなかった。

 ロウは成長した。やがて一人前のCランク冒険者として通用するほどの腕前になった。ベリスを慕い、「師匠」と呼んでくれた。

 そして——


 ベリスは目を開けた。

 ロウは死んだ。

 ベリスの目の前で。

 森の中で。ゴブリンの群れと、ウルフに襲われて。

 ベリスは助けられなかった。

 いや——助けられたはずだった。

 あの時、ベリスが地図を読み間違えなければ。平常心を失っていなければ。Aランク昇格への高揚感に浮かされていなければ。

 もっと早く動いていれば。もっと冷静に判断していれば。もっと——

 ベリスは首を振った。

 考えても、仕方がない。

 ロウは死んだ。それは、変わらない事実だ。

 ベリスは森の奥を見つめた。

 あの時、自分は何を間違えたのだろうか。もっと強く教えるべきだったのか。もっと厳しく鍛えるべきだったのか。

 それとも——そもそも、ロウを冒険者になどするべきではなかったのか。

 ベリスは、その答えを15年間、探し続けている。

 でも——

 ベリスは再びタカシを見た。

 今は、考えても仕方がない。

 今は、目の前のタカシを、無事に村まで送り届けること。それだけだ。

 同じ過ちは、繰り返さない。


 ベリスは再びナイフを研ぎ始めた。

 シャッ、シャッ、シャッ——

 その音は、夜の森に静かに響き続けた。

 風が吹く。木々が揺れる。遠くで、獣の遠吠えが聞こえた。

 ベリスは立ち上がり、腰に手を当てた。膝が、また痛む。

 古傷だ。あの日、ロウを追って全力で走った時にできた傷。完全には治っていない。雨の日や、冷える夜には、必ず痛む。

 ベリスは膝を押さえ、小さく息をついた。

 そして、再び座り、焚き火を見つめた。

 炎が揺れる。タカシの寝息が、小さく聞こえる。

 ベリスは、焚き火に薪を足した。

 火を絶やしてはいけない。

 夜は、まだ長い。

 ベリスは夜の森を見つめ続けた。

 夜は、静かに更けていった。

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