第2章:道中の試練 ②初めての火種、積み重ねた日々
ベリスは地面に火口を置き、乾いた繊維をふわりと広げると、火打石を手に取った。夕暮れの光が木々の間から差し込み、火口を淡く照らしている。
「見てろ」
ベリスは一度だけゆっくりと動作を見せた。石を構え、角度を調整し、そして打ち合わせる。カチンッという鋭い音とともに火花が飛び、火口の真ん中に落ちた。小さな煙が立ち上る。ベリスは顔を近づけて優しく息を吹きかけると、ふわりと炎が生まれた。その炎はか細く、今にも消えそうだったが、ベリスが小枝を添えるとすぐに大きくなった。
「やってみろ」
ベリスは立ち上がった。
「お前の荷物から火打石を出せ。自分の道具でやれ」
タカシは自分のリュックを開けて、火打石と火口の入った小袋を取り出した。店で買ったばかりの、まだ使っていない道具。手に取ると、石の表面は冷たく、ざらざらしている。
タカシは新しい火口を地面に置き、見様見真似で石を打ち合わせる。カチ、と鈍い音がしたが火花は飛ばなかった。もう一度。カチ。やはり何も起きない。
三度目。四度目。五度目と必死に火打石を打ち合わせたが、火花はまったく飛ばなかった。力の入れ方が分からず、どこを打てばいいのかも分からない。手のひらが少しずつ熱くなってくる。
「待て」
ベリスの声がタカシを止めた。
「手を見せろ」
タカシは火打石を置いて手のひらを見せた。ベリスはその手を取ってじっと見つめ、親指で手のひらの赤くなった部分をそっと撫でた。
「力を入れすぎだ」
ベリスは短く言った。
「このままやり続ければ、明日の朝には手がマメだらけだ。マメが潰れたらどうなる?」
タカシは答えられなかった。
「化膿する。傷口から膿が出て、腫れ上がる。そうなれば武器も持てない。火も起こせない。飯も作れない」
ベリスはタカシの手を離した。
「お前はそれでも構わないか?」
「……いえ」
「なら、力を抜け」
タカシは謝ろうとしたが、ベリスは首を振った。
「謝るな。火打石は力じゃない。打つ角度と速度だ」
ベリスはタカシの手を取り、その手に自分の火打石を持たせた。それからベリスの手がタカシの手を包み込む。
「感じろ。これが俺の力だ」
ベリスの手は、驚くほど柔らかく火打石を握っていた。力が入っていない。まるで何か壊れやすいものを扱っているようだった。
「握るのは、これくらいだ」
ベリスはタカシの手を離し、自分で火打石を軽く握ってみせた。指先には力が入っておらず、石が手の中で少し遊んでいるようにさえ見える。
「力を入れるのは打つ瞬間だけで、それ以外は力を抜け。こうすれば手が疲れないし、マメもできない」
カチンッ。軽い動作で火花が飛んだ。タカシは目を見開いた。
ベリスはタカシを見て言った。
「簡単に見えたか?」
「……はい」
「そうか」
ベリスは火打石を置いた。風が吹いて、ベリスの髪を揺らした。ベリスはしばらく黙って夕暮れの空を見上げ、それから静かに口を開いた。
「いいか。人がやってることが簡単に見えるときは、二つしかない。本当に簡単か——それとも、やってる奴が上手いかだ」
ベリスは自分の手を見下ろして、静かな声で続けた。
「俺は生まれてからずっと火を熾してきた。晴れた日も、風の日も、雨の日も、雪の日も。何十年も、な」
その声には、どこか遠くを見るような響きがあった。
「お前には簡単に見えたかもしれないが、俺の火熾しにはそれだけの歴史がある。それに——今だって、たまたま一回で火がついただけだ。いつも一度でつくわけじゃない。風が強い日は十回やっても着かないこともある。それが湿った火口なら、二十回やっても無駄だ」
タカシは息を呑んだ。ベリスの言葉が、ゆっくりと胸に染み込んでくる。
「お前が今日、何度やっても火がつかなくても、それは当たり前だ。お前は今日初めて火打石を触ったんだからな。そうだろう? だが諦めるな。続けろ」
「……はい」
ベリスはタカシに火打石を返し、それから付け加えた。
「もう一度やれ。ただし——10回打ったら一度手を休めろ。そして石の角をチェックしろ。火打石は打つ場所によって火花の出方が変わる。角が鋭い場所を探せ」
ベリスは少し間を置いてから続けた。
「焦るな。手を守れ。それも技術だ」
「……はい」
タカシは頷いて火打石を持ち直した。今度は力を抜いて、握るのは軽く。ベリスが言ったように、石が手の中で少し遊ぶくらいに。
六回目——カチ。やはり火花は飛ばない。でも今度は、手のひらがそれほど痛くならなかった。七回目。八回目。九回目と続け、手の感覚に集中する。石の角度。打つ速度。力の入れ方。
十回目で、ベリスが声をかけた。
「止めろ。手を見せろ」
タカシが手を差し出すと、ベリスは頷いた。
「悪くない。まだ赤みは増えていない。ちゃんと力を抜いている」
ベリスは満足そうに頷いて、それから言った。
「石の角を確認しろ。やさしくなぞって、指先で感じろ。目で見るだけじゃ分からない」
タカシは火打石を手に取って角を確認した。指先でやさしくなぞると、確かに場所によって鋭さが違う。ある部分は丸みを帯びていて、ある部分は鋭角になっている。
「……ここが、鋭いです」
「そこを使え。鋭い角で打てば、火花が出やすい。鈍い角で打てば、何度やっても火花は出ない」
タカシは頷いてもう一度火打石を構え、力を抜いて鋭い角を使った。火口に狙いを定め、角度を調整する。
十一回目——カチッ。
小さな火花が飛んだ。
タカシは目を見開いた。火花だ。小さいけれど、確かに火花が飛んだ。
「いい。その調子だ」
ベリスの声が励ました。その声には、わずかだが温かみがあった。
十二回目。十三回目と続けたが、火花は飛ぶようになっても火口に当たらない。火花は空中で消え、地面に落ちてしまう。
「角度を変えろ。火花が火口に当たらなければ意味がない。火口を狙え。お前が狙っているのは火口だ。空じゃない」
タカシは頷いて火打石の角度を変えた。火口をじっと見つめ、そこに火花を落とすイメージを描く。
十四回目——火花が飛んだが、火口の端に当たって消えた。
十五回目——火花がようやく火口の中心に落ちた。だが火はつかなかった。煙すら立たない。
十六回目。十七回目と続けたが、火花は当たっても火種にならない。タカシは焦りを感じ始めた。何が悪いのだろう。角度は合っている。火花も出ている。なのに——
二十回目で、ベリスが再び止めた。
「手を見せろ」
タカシが手を差し出すと、ベリスは少し眉をひそめた。
「少し赤みが増してきた。休め」
「でも——火花は出るようになったんです。もう少しで——」
「休め」
ベリスの声は静かだったが、有無を言わさぬ響きがあった。
「休むのも訓練だ。無理をして手を潰せば、明日は何もできなくなる。それでいいのか?」
「……いえ」
「なら休め」
ベリスは水筒を取り出してタカシに渡した。
「水を飲め。深呼吸しろ。焦るな。火熾しは焦ってできるものじゃない」
タカシは水を飲んで深呼吸した。冷たい水が喉を通り、身体の熱を少し冷ましてくれる。心臓の音が少しずつ落ち着いてくる。
ベリスは火口を拾い上げて、じっと見つめた。
「火口を見ろ」
ベリスが言った。
「湿っている」
タカシは火口を見た。確かに——さっきより少し湿っている気がする。
「夕暮れの湿気だ。日が傾くと空気が冷えて、湿気が増える」
ベリスは火口を持ったまま、地面を指差した。
「それに——お前、火口を地面に直接置いただろう。地面は湿気ている。地面に直接置けば、火口も湿気る」
タカシははっとした。確かに、火口を地面に直接置いていた。
「火口は湿気を嫌う。地面に置くときは、乾いた小枝の上に置け。そうすれば地面の湿気を避けられる」
ベリスは火口を手に取って、タカシに渡した。
「乾かせ。木の間から差す光に当てろ。あと少しで日が沈む。今のうちだ。ただし——地面には置くな。乾いた石の上に広げろ」
タカシは火口を手に取って木漏れ日の当たる場所へ移動し、そこで乾いた平らな石を探した。見つけた石の上に火口を広げると、夕暮れの風が吹いて、少しずつ火口が乾いていく。風に乗って森の匂いが運ばれてくる——土の匂い、草の匂い、木の匂い。
その間、タカシは自分の手のひらを見つめた。赤くなっているが、マメにはなっていない。ベリスが止めてくれたからだ。そしてベリスの言葉を思い出す——何十年も、火を熾してきた。あんなに簡単に見えたのは、ベリスが上手いからで、自分ができないのは当たり前なのだ。
タカシは火口を手に取って、その繊維の一本一本を見つめた。こんな小さなもので、火が生まれる。信じられないことだった。
数分後、タカシは火口を元の場所に戻した。火口は乾いて、ふわふわになっている。
「手は休まったか?」
ベリスが尋ねた。
「……はい」
「火口は乾いたか?」
「はい」
「なら、続けろ。ただし——また10回打ったら手を見せろ。いいな」
「はい」
タカシは頷いてもう一度火打石を構えた。力を抜き、鋭い角を使い、角度を調整する。火口を狙う。深呼吸する。
今度は火口を地面に直接置かず、乾いた小枝の上に置いた。
二十一回目——カチンッ。火花が火口に落ちたが、火はつかなかった。
二十二回目——火花が飛んだが、少しずれた。
二十三回目——また火口の中心に落ちたが、やはり火はつかない。
タカシは唇を噛んだ。なぜだ。火口は乾いている。火花も当たっている。なのに——
「焦るな」
ベリスの声が静かに響いた。
「火花の大きさを見ろ。小さすぎる。もっと速く打て。速く打てば、火花が大きくなる」
タカシは頷いた。速く打つ。でも力は入れない。
二十四回目——カチンッ。さっきより大きな火花が飛んだ。
二十五回目——もっと大きな火花。
二十六回目——さらに大きな火花が火口に落ちた。小さな煙が——立たなかった。
二十七回目——
二十八回目——カチンッ。
火花が火口の真ん中に落ちて、小さな煙が立ち上った。
タカシは息を呑んだ。火種だ。小さな、小さな火種が生まれた。赤い光が繊維の中で生まれている。タカシは慌てて火口に顔を近づけて息を吹きかけようとしたが——
「優しく吹け」
ベリスの声がタカシを止めた。
「火は生き物だ。強く吹けば消える。優しく、ゆっくりと息を吹きかけろ。火種を育てるんだ」
タカシは息を整えて、もう一度火口に顔を近づけた。今度は優しく、ゆっくりと息を吹きかける。火種が少しずつ大きくなり、煙が増え、小さな赤い光が火口の中で広がっていく。
もう一度、優しく息を吹きかける。
火種がさらに大きくなる。
そして——ぼっ、と小さな音がして炎が立ち上った。
「……できた」
タカシは火を見つめたまま呟いた。手のひらは少し赤いが、マメはできていない。身体は汗だくで、指は疲れているが——タカシの目に涙が浮かんだ。
「俺、できた……」
「ああ」
ベリスの声が優しく響き、その大きな、ごつごつした手がタカシの頭に置かれた。その手は温かく、重かった。
「よくやった。手を見せろ」
タカシが手を差し出すと、ベリスは頷いた。
「マメはできていない。よく我慢した」
「……ベリスが、止めてくれたから」
「いや」
ベリスは首を振った。
「お前が、俺の言うことを聞いたからだ。俺の言うことを聞かずに続けていたら、今頃お前の手はマメだらけだった」
ベリスはタカシの手を離して言った。
「手を守ることも技術だ。覚えておけ」
「……はい」
タカシは頷いて、涙が一筋頬を伝った。それは悲しみの涙ではなく——初めて自分の力で何かを成し遂げた実感が、タカシの胸を熱くした。
自分で火を起こした。
自分の手で。
自分の力で。
ベリスは手を離すと荷物から小枝や薪を取り出して、細い枝から太い枝へと順番に火にくべていった。最初は小指ほどの細い枝を、それから親指ほどの枝を、そして最後に腕ほどの太さの薪を。
「火が起きたら次は育てる。いきなり太い薪を入れたら消える。火は少しずつ育てるものだ」
ベリスは焚き火を見つめたまま、ぽつりと言った。
「人と同じだな」
「……そうなんですか?」
タカシには実感がわかなかったが、ベリスは答えなかった。ただ黙って火を育て続け、炎が安定するのを見守っている。その横顔には、何か遠くを見るような表情があった。
すべてが丁寧で無駄がなく、何十年も火を熾してきた人の手つきだった。やがて焚き火が安定すると、ベリスは荷物から鍋を取り出して野菜と干し肉を手に取った。
「さて、飯だ。見てないで手伝え」
ベリスがナイフと野菜をタカシに放り、タカシは慌てて受け取った。ナイフは重く、柄が手になじむ。
「野菜を切れ。大きさは揃えろ。火の通りが変わる」
タカシはナイフを握って野菜を切り始めたが、不器用で手が疲れている。ナイフを持つ手が少し震えていた。
「待て」
ベリスがタカシの手を止めた。
「ナイフの持ち方が悪い。それじゃ手を切る」
ベリスはタカシの手を取ってナイフの角度を直し、それから反対の手を野菜の上に置いた。
「野菜を押さえる手は指を丸めろ。指先じゃなく関節で押さえる。こうすれば刃が指に当たらない。分かるな?」
「……はい」
タカシは言われた通りに手を直した。確かにこの持ち方なら、刃が指に当たりにくい。
ベリスは少し間を置いてから尋ねた。
「お前、母親に習わなかったか?」
タカシの手が止まった。
「……少し、習いました」
「なら思い出せ」
タカシは母の顔を思い浮かべた。優しい笑顔。温かい手。台所で一緒に料理をした日々。
——タカシ、包丁はこう持つのよ。
——ゆっくりでいいから、丁寧に切ってね。
——お母さんはね、タカシが大きくなったら、一緒にもっとたくさん料理を作りたいの。
タカシの目が少し潤んだが、涙は流さなかった。
「よし。ゆっくりでいい。丁寧に切れ。急ぐ必要はない」
タカシは慎重にナイフを動かし、母が教えてくれたことを思い出しながら少しずつ野菜を切っていった。人参、玉ねぎ、じゃがいも。どれも見慣れた野菜だった。
ベリスは黙ってタカシの手元を見守っていた。時折、火に薪を足し、鍋の位置を調整する。
野菜を切り終えると、ベリスはそれを受け取って鍋に入れた。それから干し肉を細かくちぎって加え、水を注ぐ。やがて鍋から湯気が立ち上り、野菜の甘い匂いが広がってきた。
「スープができるまで、少し待て」
ベリスは焚き火の前に座り、タカシもその隣に座った。二人は黙って炎を見つめていた。火が揺れ、薪が爆ぜる音が小さく響く。
タカシは自分の手のひらを見た。少し赤いが、マメはできていない。それが誇らしかった。
やがてスープが煮えて、ベリスは木の椀に注いでタカシに渡した。
「熱いから気をつけろ」
「はい」
タカシは椀を受け取り、一口飲んだ。温かいスープが喉を通り、身体の中に染み込んでいく。野菜の甘みと、干し肉の旨味が口の中に広がる。
夕食は簡素な野菜のスープだったが、タカシにはこれまで食べたどんな料理よりも美味しく感じられた。自分で起こした火で、自分で切った野菜で作った料理——それはかけがえのないものだった。
焚き火の炎が二人の顔をオレンジ色に照らしている。森の夜は静かで、虫の声だけが響いていた。タカシはスープを飲みながら、ふと思った。
ここにいる。
今、ここにいる。
そして——生きている。
「ベリス」
タカシは顔を上げた。
「何だ」
「火熾し、もっと練習します」
ベリスは少しだけ目を細めた。その目には、わずかだが温かみがあった。
「ああ。毎日やれ。道中の火熾しはお前にまかせる」
ベリスは続けた。
「ただし無理はするな。手は守れ。毎日続けるためには、毎日手を守らなければならない。分かるな?」
「はい」
タカシは頷いた。手のひらは少し赤いがマメはできておらず、それが少し誇らしく思えた。
焚き火の炎が揺れ、火の粉が夜空に舞い上がっていく。タカシはその火の粉を見上げながら思った。
明日も、火を起こそう。
明後日も、火を起こそう。
そして——いつか、ベリスみたいに、一度で火を起こせるようになろう。
森の夜は静かで、虫の声だけが響いていた。




