第2章:道中の試練 ①出発の朝、沈黙の道行き
朝の光が宿の窓から差し込んできた時、タカシは既に目を覚ましていた。
いや――正確には、眠れなかったのだ。
昨夜、ベリスと二人で食べた質素な夕食。あの温かいスープの味。「お前が道具だったのは昨日までだ」という言葉。それらが頭の中でぐるぐると回り続けて、タカシは一睡もできなかった。
怖かったのだ。
今日目覚めたら、昨日のことが全部夢だったんじゃないか。またあの冷たい石の床の上で、鎖に繋がれているんじゃないか。そんな恐怖が、タカシを眠らせなかった。
でも――
タカシはベッドの脇に置かれた衣類を見る。
昨夜ベリスが用意してくれた、簡素だが清潔な旅人の服。そして部屋の隅の椅子には、背もたれに寄りかかったまま目を閉じているベリスの姿。
「……夢じゃない」
タカシは小さく呟いた。
ベリスが目を開けた。
タカシと目が合う。
「起きてたのか」
「……はい」
ベリスは椅子から立ち上がり、身体を伸ばした。右膝を軽く曲げ伸ばしする仕草が、タカシの目に入る。
「10分で支度を済ませる。おまえはその服を着て、外で待て」
ベリスは窓の外を見る。
「雨は止んでる。今日中に街道を抜けたい」
「はい」
タカシはベッドから這い出し、ベリスが用意してくれた服に袖を通した。
麻のシャツとズボン。サイズは少し大きいが、袖を折り返せば何とか着られる。
ボロボロのジャージは、ベッドの上に畳んで置いた。
これだけが、元の世界と繋がっている証拠。でも――
タカシはそれを見つめる。
血と泥にまみれた、もう着られない服。
持っていっても、意味がない。
「……さよなら」
小さく呟いて、タカシは部屋を出た。
宿の前で、タカシはベリスを待った。
朝の空気は冷たく、昨夜の雨の匂いがまだ残っている。
やがて、ベリスが荷物袋を背負って出てきた。
「行くぞ」
「あの――」
タカシは躊躇いながら言った。
「荷物、は……」
「お前の荷物は何もないだろう」
ベリスは淡々と言った。
「今から町で必要なものを買い揃える。それまでは手ぶらでいい」
「はい」
二人は宿を後にした。
街道は、まだ朝靄がかかっていた。
昨夜の雨で地面はぬかるんでいたが、ベリスは慣れた足取りで歩いていく。
タカシはその後を、三歩遅れてついていった。
町の入口に、看板も出ていない小さな店があった。
窓には鉄製の道具が並び、軒先には武器らしきものが立てかけてある。
「ここで買う」
ベリスは店に入り、タカシもその後に続いた。
店内は薄暗く、鉄と油の匂いが立ち込めていた。壁には様々な武器や防具が吊るされ、棚には旅の道具が雑然と並んでいる。
「おう、ベリスか」
カウンターの奥から、太った中年の男が顔を出した。店主らしい。
「久しぶりだな。また北の森か?」
「ああ」
ベリスはタカシを見た。
「こいつの装備を一式揃えたい」
店主はタカシを値踏みするように見た。
「……ガキだな。初心者か?」
「そうだ」
「なら――」
店主は棚を指差した。
「水筒、保存食、着替え二組、予備の靴、それから――」
店主はカウンターの下から、何かを取り出した。
革製の鎧だ。胸当てと腕当てがセットになっている。
「ハードレザーの防具。中古の安物だが、まだそれなりに使える」
それから、鉄製のヘルム。
「頭は守っとけ。死にたくなきゃな」
店主はタカシを見ずにベリスへ尋ねる。
「ベリス。森の探索講習って訳じゃないんだろ?」
「ああ、北の森を抜けた辺境までこいつを連れて行く。基本的には戦闘は避けて、街道を歩く」
さらに、剣と槍を取り出した。
「わかった。じゃあ、武器は二種類持っとけ。剣は近接用、槍は距離を取れる」
店主は次々と道具をカウンターに並べていく。
小さなリュックサック、小型の鍋、火打石、ナイフ、ロープ、寝袋――
「全部揃えりゃ、銀貨15枚だ」
タカシは息を呑んだ。
カウンターの上には、山のように道具が積まれている。
こんなに――
こんなに必要なのか?
「詰めてくれ」
ベリスは店主に言った。
「ああ」
店主はリュックを手に取り、手慣れた様子で荷物を詰め始めた。
「よく見ていろ」
ベリスがタカシに言った。
「荷物の詰め方も技術だ。適当に詰めれば、歩くたびに体がふらつく」
タカシは黙って、店主の手元を見つめた。
店主は最初に、予備の靴をリュックの一番下に入れた。
「靴は底だ。硬いから底のクッションになる」
次に、寝袋を靴の上に押し込んだ。
「軽くてかさばるものはこの辺だ」
それから、保存食と水筒を取り出した。
「重いものは――」
店主はリュックの背中側、ちょうど真ん中あたりに水筒を入れた。
「背中の中央だ。ここに重心があれば、後ろに引っ張られない。安心しろ。水は新鮮なものを入れてある」
保存食も同じ位置に詰める。
鍋も、背中側に寄せて入れた。
「重いものを下に入れると、重心が下がって疲れやすい。かといって上すぎると、ふらつく」
店主は続けた。
「肩甲骨の間から腰の上――ここに重いものを集めろ」
次に、着替えを取り出した。
「これは軽いから、外側でいい」
着替えはリュックの背中から遠い側、外側に詰められた。
「それから――」
店主は着替えを鍋や水筒の隙間に押し込んだ。
「とにかく隙間を埋めろ。荷物が動くと、歩くたびに重心がぶれる。リュック全体を一つの塊にするんだ」
火打石、ナイフ、ロープは小さな袋にまとめられ、リュックの上部に入れられた。
「すぐ取り出したいものは上だ」
最後に、革の帽子をリュックの雨蓋の下に入れた。
「これで完成だ」
店主はリュックを床に立てた。
リュックは自立している。左右に傾かない。
「左右のバランスが均等なら、こうやって自立する。片方に偏ると、倒れるし、背負った時に片方の肩ばかり痛くなる」
タカシは感心したように、リュックを見つめた。
「……すごい」
「当たり前だ」
店主は胸を張った。
「俺は元冒険者だ。たかがパッキング。だが命に関わる。近所に買い物に行くわけじゃねーんだろ?」
店主はリュックの外側に、防具とヘルムを括りつけた。
「剣は左腰に佩け、槍は手で持て」
店主はそう言って、完成したリュックをカウンターに置いた。
「ほら、背負ってみろ」
タカシは恐る恐るリュックに手を伸ばした。
持ち上げようとする――
「っ!?」
重い。
あまりにも重い。
タカシは必死にリュックを持ち上げたが、背負うことすらできない。
両手で引っ張っても、地面から数センチ浮くだけだ。
「……無理、です」
タカシは震える声で言った。
「背負えません」
ベリスはタカシを見た。
「そうか」
ベリスは短く言った。
「なら、お前が背負える荷物にしろ」
「え……?」
「お前が背負えない荷物は、お前の荷物じゃない」
ベリスは淡々と続けた。
「何を持っていき、何を置いていくか――お前が決めろ」
タカシは唇を噛んだ。
選ぶ。
自分で選ぶ。
「……」
タカシはカウンターの荷物を見つめた。
何を残して、何を捨てるか。
水筒――これは絶対に必要だ。水がなければ死ぬ。
保存食――これも絶対に必要だ。食べなければ死ぬ。
着替え――必要、だと思う。
予備の靴――今の靴はボロボロだから、これも必要かもしれない。
鍋――料理に必要だ。
ナイフ、ロープ、火打石――これも必要そうだ。
寝袋――寒さを凌ぐために必要だ。
だが――
タカシの視線が、防具に向いた。
ハードレザーの胸当てと腕当て。鉄製のヘルム。
そして、剣と槍。
「……」
タカシは防具を手に取った。
重い。
革製とはいえ、硬く分厚く作られている。
これを身につけたら――
守ってくれるのだろうか。
でも――
タカシは自分の細い腕を見た。
こんな防具を着けても、自分が戦えるとは思えない。
剣を振るう力もない。
これを持っていく意味は――
「……防具は、いりません」
タカシは言った。
「え?」
店主が驚いた声を上げた。
「おい、ガキ。防具なしで森に入る気か? 魔物に襲われたらどうする」
「僕が――」
タカシは震える声で続けた。
「僕が、これを着けても、戦えないと思います」
「だからこそ防具が要るんだろうが」
「でも――」
タカシは視線を落とした。
「重すぎて、背負えません」
店主は舌打ちをした。
「じゃあせめてヘルムだけでも――」
「待て」
ベリスが口を挟んだ。
「ガキ。お前、何か考えてることがあるだろう」
タカシは顔を上げた。
「……あの」
「言え」
「……頭を守るのは、大事だと思います」
「ああ」
「でも、ヘルムは重いです。だから――」
タカシはリュックから鍋を取り出し手に取った。
「これを、被れば――」
一瞬、店内が静まり返った。
店主は呆れた顔をした。
「……おい、ガキ。鍋とヘルムは別物だ」
「でも――」
「鍋は鍋だ。被るもんじゃねえ」
タカシは鍋を見つめた。
確かに、鍋だ。
でも――
「……すみません」
「いや」
ベリスが口を開いた。
「悪くない発想だ」
「え?」
店主がベリスを見た。
「おい、ベリス。お前、本気で言ってんのか」
「いや、鍋を被れとは言ってない」
ベリスはタカシを見た。
「だが、このガキは『頭を守りたい』と考えた。それ自体は正しい」
ベリスは店主に言った。
「革の帽子はあるか? ボロでいいから、なるべく厚めのやつだ」
「……あるが」
店主は渋々と棚を探り、革製の帽子を取り出した。
つばの広い、旅人が被るような簡素な帽子。
「これなら軽い。頭を守る――とまではいかないが、日差しや雨は防げる」
ベリスはそれをタカシに被せた。
「鍋は鍋として使え。頭には帽子だ」
タカシは帽子を触った。
軽い。
そして――ちゃんと頭にフィットする。
「……ありがとうございます」
「礼はまだ早い」
ベリスは防具を指差した。
「で、防具はどうする?」
タカシは防具を見た。
ハードレザーの胸当てと腕当て。
これは――やっぱり重すぎる。
「……全部は、無理です」
「なら、どっちか一つだけ選べ」
ベリスは淡々と言った。
「胸当てか、腕当てか」
タカシは二つを見比べた。
胸――心臓や内臓を守る。
腕――剣を振るうときに守る。
でも、自分は剣を振るわない。
「……胸当て、だけでいいです」
「そうか」
ベリスは店主に言った。
「胸当てだけにしろ。腕当ては外してくれ」
「……わかったよ」
店主は渋々と腕当てを外した。
「次は武器だ」
ベリスは剣と槍を指差した。
「どっちを持っていく?」
タカシは二つを見比べた。
剣――片手で持てる。重そうだ。
槍――両手で持つ。長い。
「……」
タカシは槍を手に取った。
ずしりと重い。でも――
「これを、杖の代わりにできませんか?」
ベリスの目が、わずかに細くなった。
「……続けろ」
「槍は長いから、歩くときに支えにできると思います」
タカシは槍を地面に突いて、体重を預けるような仕草をした。
「それに――」
タカシは剣を持ち上げようとした。
重い。片手では持ち上がるが、振れるとは思えなかった。
「剣は、重すぎます。槍の方が、まだ軽いです」
店主が口を挟んだ。
「おい、ガキ。槍の穂先は鉄だが、柄は木だ。だから剣より軽い」
「……じゃあ、槍の方がいいです」
店主は天井を仰ぎ、ベリスは短く頷いた。
「そうか」
ベリスは店主に言った。
「剣はいらない。槍だけでいい」
「……本当にいいのか? このガキ、まともに戦えねえぞ」
「問題ない」
ベリスは淡々と言った。
「こいつは戦わない。戦えない。逃げるだけだ」
店主は肩をすくめた。
「ま、お前がそう言うなら」
店主はリュックを開け、再びパッキングを始めた。
今度は防具と武器が減った分、軽くなっている。
最終的に、タカシのリュックには以下のものが詰められた。
予備の靴、寝袋、水筒、保存食、着替え一組、鍋、火打石、ナイフ、ロープ。
そして革の帽子を頭に被り、軽量化された胸当てを身につけ、槍を手に持つ。
「背負ってみろ」
タカシはリュックを持ち上げた。
今度は――
「……っ」
重いが、背負える。
なんとか、立っていられる。
「歩けるか?」
「……はい」
タカシはよろよろとしながらも、一歩を踏み出した。
槍を杖のように地面に突いて、体重を支える。
「……歩けます」
「そうか」
ベリスは店主に銀貨を渡した。
「銀貨八枚だ」
「安くなったな」
「ガキが選んだ結果だ」
ベリスはタカシを見た。
「行くぞ」
「はい」
店を出ると、ベリスはタカシに言った。
「お前は悪くない判断をした」
「……え?」
「防具を全部諦めた。剣も諦めた。だが、最後は自分で選び必要最低限は残した」
ベリスは歩き始めた。
「お前は戦わない。だから、重い装備は要らない。その判断は正しい」
タカシは槍を杖代わりに、ベリスの後をついていった。
「ただし」
ベリスは付け加えた。
「お前の選択には、代償がある」
「……代償?」
「ああ。防具が薄い。剣もない。だから――」
ベリスは振り返った。
「お前が襲われたら、逃げることしかできない。それを忘れるな」
タカシは頷いた。
「……はい」
二人は町を抜け、森の中へと入っていった。
街道は木々に囲まれ、朝の光が木漏れ日となって地面を照らしている。
タカシは槍を杖代わりに、よろよろと歩いていく。
リュックは重い。肩に食い込む。
でも――
これが、自分の荷物だ。
自分で選んで、自分で運んでいる。
どれくらい歩いただろうか。
ベリスが突然立ち止まった。
タカシも慌てて足を止める。
「……」
ベリスは周囲を見回している。
何かを警戒しているような――そんな雰囲気。
タカシは息を潜める。
何かいるのだろうか。魔物? それとも盗賊?
だが――
「……問題ない」
ベリスは短く言うと、再び歩き始めた。
タカシはほっと息をつく。
これがベリスの「習慣」なのだと、タカシは理解した。冒険者としての、プロの警戒心。常に周囲を確認し、危険を事前に察知する。
そういう人なのだ。
さらに歩く。
タカシの肩が痛み始めた。
リュックの紐が肩に食い込んで、じわじわと痛みが広がっていく。
槍を杖代わりにしているが、それでも足は疲れる。
でも――
タカシは弱音を吐かなかった。
ベリスは何も言わずに歩いている。だから自分も――
その時。
ベリスが再び立ち止まった。
だが今度は違う。
ベリスは――自分の右膝を押さえていた。
「……」
一瞬、顔をしかめる。
それはほんの一瞬の出来事だったが、タカシは見逃さなかった。
「あの」
タカシは恐る恐る声をかける。
「……大丈夫、ですか?」
ベリスは顔を上げ、タカシを見た。
その目は――少しだけ驚いたような色をしていた。
「問題ない」
ベリスは短く言うと、膝から手を離す。
「歩け」
「はい」
ベリスは再び歩き始める。
だがタカシは気づいてしまった。
ベリスの歩き方が、ほんの少しだけぎこちないことに。
右足を庇うような、そんな歩き方。
(この人――痛みを抱えてる)
タカシは初めて、自分以外の誰かのことを心配した。
召喚されてから、タカシはずっと自分のことしか考えられなかった。自分がどれだけ辛いか。自分がどれだけ怖いか。自分がどれだけ絶望しているか。
でも――
目の前を歩くこの人も、痛みを抱えているのだ。
それでも黙って、前に進んでいる。
「……」
タカシは何も言わなかった。
ベリスは「問題ない」と言った。だから、タカシもそれ以上は聞かない。
ただ――
タカシは、ベリスとの距離を少しだけ縮めた。
三歩後ろから、二歩半後ろへ。
ほんの少しだけ。
昼が近づいてきた頃、ベリスが再び立ち止まった。
「ここで休憩する」
「はい」
二人は街道から少し外れた、開けた場所に腰を下ろした。
タカシはリュックを下ろし、肩を回した。
痛い。肩が真っ赤になっているだろう。
でも――これが、自分の荷物だ。
自分で選んで、自分で運んでいる。
ベリスは荷物から水筒を取り出し、一口飲んだ。
「お前も飲め」
「はい」
タカシも水筒を取り出し、水を飲む。
冷たくて、少しだけ喉を潤してくれる。
「……」
二人はしばらく黙っていた。
鳥の鳴き声だけが、静かに響いている。
「タカシ」
不意に、ベリスが口を開いた。
「はい」
「お前、さっき俺を心配したな」
「あ――」
タカシは言葉に詰まる。
余計なことを言ってしまったのだろうか。
だが――
「悪くない」
ベリスは短く言った。
「他者を気にかけることができるなら、お前はまだ人間だ」
「……」
「道具は、他者を心配しない。
道具は、命令に従うだけだ。
だがお前は、俺を見て、心配した。
それは――お前が選んだことだ」
タカシは胸が熱くなるのを感じた。
自分が選んだ。
他者を心配するという、当たり前のことを。
でもそれは――昨日までのタカシにはできなかったことだ。
「ありがとう、ございます」
「礼はまだ早い」
ベリスは立ち上がる。
「おまえを村に届けるまで、まだ遠い。しっかり歩けよ」
「はい」
タカシも立ち上がる。
リュックを背負い、槍を手に取る。
まだ重いが、少しだけ慣れてきた気がする。
そして二人は、再び歩き始めた。
夕暮れが近づく頃、二人は野営地に到着した。
「今日はここに泊まる」
「はい」
ベリスは手慣れた様子で荷物を下ろし、野営の準備を始める。
タカシもリュックを下ろし、その様子を見つめた。
今日、自分は何かが変わった。
防具を諦めることを選んだ。
槍を杖代わりにすることを思いついた。
ベリスを心配した。
そして――自分で決めた。
「タカシ」
ベリスが呼ぶ。
「お前、火を熾せるか?」
「……いえ」
「なら、これから教える」
ベリスはタカシに、火打石と火口を差し出した。
「手本を見せる。見てろ」
そして――
新しい試練が、始まった。




