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『錆びた刃と、新しい火』  作者: 紺屋


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第1章:雨の夜の取引 ④ ロウの記憶、プロの矜持


 タカシが、粗末な寝床で丸くなって眠りに落ちた後。

 ベリスは部屋の隅で、荷物の整理を続けていた。薬草酒の瓶を仕舞い、予備のナイフを確認し、明日の行程を頭の中で反芻する。いつもの、機械的な作業。

 だが、手が止まった。

 荷物の底から、一本のナイフを取り出す。刃渡り二十センチほどの、使い古された狩猟用ナイフ。鞘は革で、幾度も油を塗られて黒光りしている。

 柄の根元に、小さく文字が刻まれていた。

 『ロウ』

 ベリスは、小さく息を吐いた。

 十五年前——


 ロウと出会ったのは、ベリスがまだ二十代後半で、Aランクを目指して必死に依頼をこなしていた頃だった。

 辺境の村で、親を失った孤児が冒険者志望だと聞き、ベリスは軽い気持ちで会いに行った。「才能がなければ断るつもりで」と、そう自分に言い訳をしながら。

 だが、ロウに会った瞬間——その目を見た瞬間——ベリスは、断る言葉を飲み込んだ。

 十六歳の少年の瞳には、まだ光があった。

 希望という名の、馬鹿げた輝きが。

「俺を、弟子にしてください」

 ロウは深々と頭を下げた。泥で汚れた服、擦り切れた靴。だが、その姿勢には迷いがなかった。

「……何ができる?」

「何も、できません」

 ロウは顔を上げ、まっすぐにベリスを見た。

「でも——なんでもやります。どんなことでも」


 ベリスは、眉をひそめた。

「子どもが『なんでもやる』なんて言うな」

 声に、わずかな苛立ちが混じる。

「『どんなことでも』もだ。そんなことを言う新人は、悪い大人に使い潰される。そして怪我をしたら捨てられるだけだ」

 ロウは、一瞬怯んだように見えた。

 だが——すぐに、もう一度頭を下げた。

「……すみません。でも、俺は——」

 その声は震えていた。

 だが、諦めていなかった。


 ベリスは、自分の中で何かが軋むのを感じた。

 それは、警告だったのかもしれない。

 だが、ベリスはその警告を無視した。

「……まぁ…いいだろう」

 ベリスは小さく溜息をついた。

「だが、俺のルールに従え」


 ロウは、理想的な弟子だった。

 文句を言わず、指示を忠実に守り、失敗しても諦めなかった。ベリスが「今日はここまでだ」と言っても、ロウは一人で訓練を続けた。

 火熾し、ナイフ捌き、地図の読み方、足跡の追い方——

 ベリスが教えた技術を、ロウはすべて吸収した。まるで、乾いた砂が水を吸うように。

 半年が過ぎた頃、ロウは既に一人前のCランク冒険者として通用するほどの腕前になっていた。

「師匠、俺——」

 ある夜、焚き火を囲んで、ロウが口を開いた。

「いつか、師匠みたいなAランク冒険者になりたいです」

 その目には、まだ光があった。

 ベリスは、小さく笑った。

「俺はまだBランクだ」

「でも、もうすぐですよね? 次の盗賊団討伐が成功すれば——」

「……ああ。もうすぐだ」

 そのとき、ベリスは本気でそう信じていた。

 盗賊団討伐——それが成功すれば、誰の目にもAランク昇格は既定路線だった。

 ギルドの評価も高い。報酬も良い。

 ベリスの胸には、気のはやりと高揚感があった。

 そして——それが、平常心を奪っていた。


 そして——あの日が来た。


 依頼は単純なものだった。盗賊団の討伐。報酬は良く、リスクは低い——はずだった。

 だが、ベリスは地図を読み間違えた。

 盗賊団のアジトへの道順を、一本、間違えた。

 それだけだった。

 たった、それだけの、ミス。


 森の中を進んでいたとき——ベリスは気づいた。

 前方に、ゴブリンの群れ。

 十体——いや、十五体はいる。

 倒せなくはない。だが、数が多い。

「……妙だな」

 ベリスは眉をひそめた。

 ゴブリンたちの動きが、いつもより速い。まるで何かに追われているかのように——

「師匠、どうします?」

 ロウが小声で尋ねた。

 ベリスは一瞬、考えた。

 いったん後退すべきか?

 だが——この後には盗賊団討伐が控えている。物音を立ててゴブリンと戦えば、盗賊団に気づかれるかもしれない。それに、疲れていては万が一がある。

「撤退だ。静かに——」


 だが、その瞬間——


 ゴブリンたちが、一斉にこちらを向いた。

 そして——

 突進してきた。


「クソッ!」

 ベリスは剣を抜いた。

 背後を確認する——まだ退路はある。だが、ゴブリンの一部が回り込もうとしている。

 半包囲の状況。

 完全に包囲される前に——

「ロウ、お前が先に走れ! 俺が食い止める!」


 ロウは若く、足が速い。

 ベリスよりも、生き延びる確率が高い。

 ゴブリン相手なら、ベリス一人でも何とかなる——

 そう、判断した。


「師匠!」

「走れ!」


 ロウは、一瞬だけ躊躇した。

 だが——師匠の命令に従い、走り出した。


 ベリスは、ゴブリンの群れに剣を構えた。

 一体目を斬り払う。

 二体目を蹴り飛ばす。

 ロウが十分に距離を取るまで——あと少しだ。


 だが——


 その瞬間。


 ベリスの視界の端に、何かが映った。


 黒い影——

 ゴブリンよりも、はるかに速い——

 ロウを追って、森の中を駆け抜けていく——


 ウルフだ。


 ベリスの血が、一瞬で凍りついた。


 ゴブリンたちが移動していた理由——

 いつもより速く動いていた理由——

 このエリアは、ウルフの縄張りだった。

 ゴブリンは、ウルフに追われて逃げていたのだ。


 ベリスは、それに気づいていなかった。

 Aランク昇格への高揚感に浮かされて——

 平常心を失って——

 見落としていた。


「戻れ、ロウ! 戻るんだ!」


 ベリスは叫んだ。

 ゴブリンを蹴散らし、全力で走り出した。


 だが、ロウは振り返らなかった。


 振り返らず——走り続けた。

 ベリスから、遠ざかる方向へ。


 ロウは——

 ベリスの最初の命令を、まだ実行していた。

 「走れ」という命令を。


 そして——おそらく、気づいていた。

 自分が囮になれば、師匠は助かると。


 ベリスは走った。

 全力で、走った。

 膝が悲鳴を上げた。腱が引き裂かれそうになった。それでも、走った。

 だが——

 間に合わなかった。


 ベリスが辿り着いたとき——


 ロウは、地面に倒れていた。

 血まみれの身体。

 ウルフが、その上に覆いかぶさり——食事を始めようとしていた。


「ッ!」


 ベリスは剣を振るった。

 ウルフは、驚いたように飛び退いた。

 ベリスとウルフが、一瞬だけ睨み合う。


 だが——ウルフは、戦おうとはしなかった。


 ウルフの本来の獲物は、ゴブリンだった。

 ロウは——ただの、横取りした獲物。

 危険を冒してまで守るほどの、価値はない。


 ウルフは、踵を返した。

 そして——ベリスが倒したゴブリンの方へ、走り去っていった。

 より安全な、本来の獲物へ。


 ベリスは、ロウの傍に膝をついた。


 もう、息はなかった。


 でも——

 その目には、まだ光が残っていた。


 ロウの手には、ナイフが握られていた。

 ベリスが最初に渡した、訓練用のナイフ。

 ベリスは、そのナイフを拾い上げた。

 そして、柄の根元に——ロウの名を刻んだ。


 それから、十五年。


 ベリスは一度も、このナイフを使っていない。

 だが——毎晩、手入れを続けている。

 刃を研ぎ、油を塗り、鞘を磨く。

 まるで、ロウがまだ生きているかのように。


 ベリスは、ナイフの刃を指でなぞった。

 冷たい金属の感触。

 研ぎ澄まされた刃。

 それは、プロの矜持だった。


 冒険者という仕事は、判断の連続だ。

 どの道を選ぶか。

 どの敵と戦うか。

 いつ撤退するか。

 そして——誰を守り、誰を見捨てるか。


 あの日——

 ベリスは、平常心を失っていた。

 Aランク昇格への高揚感に浮かされて——

 見えるべきものが、見えなくなっていた。


 ゴブリンの異常な動き。

 ウルフの縄張り。

 そして——


 もし、木や岩を背にして、二人で辛抱していれば——

 ゴブリンとウルフは共闘しない。

 三すくみの状況なら、生き残れたはずだった。

 盗賊団討伐の日は後ズレしても——

 Aランク昇格が遅れたとしても——

 ロウは——


 死なずに済んだ。


 それらを、すべて見落とした。


 その結果——

 弟子を、失った。


 ベリスは、小さく呟いた。

「……今度は、間違えない」


 その声は、誰に向けたものでもなかった。

 ロウへの誓いでもなく。

 自分自身への約束でもなく。

 ただ——

 この十五年、毎晩繰り返してきた、言葉。


 ベリスは、ナイフを鞘に収めた。

 そして、荷物の底に、そっと仕舞い込んだ。


 部屋の隅で、タカシが寝返りを打った。

 ベリスは、その小さな背中を見つめた。


 ボロボロのジャージを着た、十四歳の少年。

 感情が死んだ瞳をした、異世界からの召喚者。

 「魔力充填具」として使い潰された、誰かの道具。


 そして——


 その目に、かすかに——ほんのわずかに——光が戻り始めている少年。


 ベリスは、膝に手を当てた。

 古い傷が、鈍く疼いた。

 十五年前、ロウを追って全力で走ったとき——そのとき痛めた膝。

 完治することはなく、今もベリスの身体に刻まれている、傷痕。


 ベリスは、薬草酒の瓶を取り出した。

 膝に塗り込み——

 そして、余った分を、一口飲んだ。


 安酒の味が、喉を焼いた。


 ベリスは小さく呟いた。

「……この安酒は、膝の痛みには効かない」


 だが——


 十五年前の記憶を、少しだけ——ほんの少しだけ、曖昧にしてくれる。


 それだけで、十分だった。


 ベリスは、宿の窓の外を見た。

 雨は、まだ降り続いていた。


 明日——

 ベリスとタカシは、旅に出る。

 どこへ行くのか、まだ決まっていない。

 どうなるのか、誰にもわからない。


 だが——


 今度は、間違えない。


 ベリスは、そう自分に言い聞かせた。


 窓の外で、雨音が静かに響いていた。


 夜は、まだ長かった。


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