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『錆びた刃と、新しい火』  作者: 紺屋


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第1章:雨の夜の取引 ③夜の準備、最初の「教育」

 ベリスは椅子から立ち上がった。

 タカシは黙ったまま、固い姿勢で座り続けている。

 ベリスは荷物袋に手を伸ばした。革製の大きな袋で、中には冒険者の必需品が詰まっている。ベリスはその中から、手慣れた様子で小さな鍋を取り出した。

 鉄製で、底は深く黒ずんでいる。何年も使い込まれた道具だ。持ち手には布が巻かれており、熱くなっても素手で持てるようになっている。

 次に取り出したのは、携帯用の魔石コンロだった。

 手のひらサイズの金属製の台座に、青い魔石が埋め込まれている。安物だ。火力は弱いが、壊れにくい。冒険者向けの実用品だ。

 ベリスはコンロを床に置き、その上に鍋を載せた。


 それから、保存食の袋を取り出す。

 小さな麻袋が三つ。一つには乾燥肉、一つには干し野菜、一つには香草が入っている。

 ベリスは袋を一つずつ開け、中身を確認した。

 乾燥肉——鹿肉だ。塩漬けにして天日干しにしたもので、噛めば噛むほど味が出る。保存性が高く、栄養価も高い。冒険者の定番食材だ。

 干し野菜——人参、玉ねぎ、それからこの地方でよく採れるキノコの一種。これも天日干しにしてある。煮てしまえば、生の野菜とほぼ同じ味になる。

 香草——「山の苦味草」と呼ばれる薬草の一種。少し苦いが、肉の臭みを消し、体を温める効果がある。


 ベリスは鍋に水を注いだ。

 水筒から、慎重に。水は貴重だ。野営では、水場を見つけられるかどうかが生死を分ける。だから、冒険者は水を無駄にしない。

 鍋に半分ほど水を張ったところで、ベリスは手を止めた。

 それから——乾燥肉を三切れ、鍋に放り込んだ。

 普段なら二切れで十分だ。だが、今日は二人分だ。


 魔石コンロに手を伸ばす。

 台座の側面に小さなスイッチがある。ベリスは親指でそれを押し込んだ。

 カチリ、と音がして——青白い炎が、静かに燃え上がった。

 魔石コンロの炎は、薪の炎とは違う。音がない。煙もない。ただ、静かに、確実に熱を生み出す。

 便利な道具だが——ベリスはあまり好きではない。

 炎には、音があるべきだ。パチパチと薪が爆ぜる音。煙の匂い。それが、飯を作る実感を生む。

 だが、この宿で薪を燃やせば、宿の主人が飛んでくる。仕方ない。


 ベリスは鍋を見つめた。

 水が、ゆっくりと温まり始めている。

 乾燥肉が水を吸って、少しずつ膨らんでいく。

 ベリスは干し野菜の袋に手を伸ばした。

 中から人参を一つ取り出し、手のひらで砕く。乾燥しているので、簡単に粉々になる。それを鍋に加えた。

 次に玉ねぎ。これも同じように砕いて、鍋に加える。

 最後にキノコ。これは少し固いので、ナイフで細かく刻んでから鍋に入れた。


 冒険者にとって、飯を作る技術は命綱だ。

 依頼の途中で宿に泊まれるとは限らない。野営が続けば、保存食だけで何日も過ごすこともある。だが、不味い飯は士気を下げる。士気が下がれば、集中力が切れる。集中力が切れれば、判断が鈍る。判断が鈍れば——死ぬ。

 だから、ベリスは飯を疎かにしなかった。

 安い食材でも、手間をかければそれなりに食える。手間を惜しめば、命も惜しまれない。

 師匠に、そう教わった。


 ベリスはふと、師匠の顔を思い出した。

 厳しい顔だった。だが、優しい目をしていた。

 師匠もまた、飯を大事にする人だった。どんなに疲れていても、野営の時は必ず温かいスープを作った。

「冷えた飯は、冷えた心を作る」

 師匠の口癖だった。

 ベリスは、その教えを守り続けている。


 鍋の中で、スープが煮立ち始めた。

 ベリスは香草の袋を開け、一つまみ取り出した。

 指先で軽く揉むと、独特の香りが立ち上る。少し薬臭いが、悪くない。

 それを鍋に加えた。

 香草が水面に浮かび、ゆっくりと沈んでいく。

 部屋に、ほのかにスープの匂いが漂い始めた。


 ベリスはちらりとタカシを見た。

 少年は、じっとこちらを見ていた。

 いや——ベリスを見ているのではない。鍋を見ているのだ。

 その目に、ほんの少しだけ——何かが宿っていた。

 空腹? それとも——


 ベリスは改めてタカシを観察した。

 痩せている。いや、痩せすぎている。

 頬がこけ、首が細く、腕は枝のようだ。ジャージの袖から覗く手首は、骨が浮いている。

 一日一食、パンと水だけ——ヴォルフの言葉が脳裏に蘇る。

 それが一年半続いたのだ。

 このガキの体は、完全に栄養失調だ。

 

ベリスは舌打ちをして、荷物袋に手を伸ばした。

 底の方から、硬い塊を取り出す。

 堅パンだ。

 小麦粉と塩と水だけで作られた、保存食用のパン。石のように硬く、そのままでは歯が折れる。だが、水分を吸わせれば食べられる。日持ちがするので、冒険者の必需品だ。

 ベリスは堅パンを二枚手に取った。

 それから——もう一つ追加した。

 三枚。

 普段なら一枚で十分だが——このガキには足りない。


 ベリスは堅パンをナイフで粗く砕いた。

 それを鍋に放り込む。

 鍋の胴に当たってカラカラと音を立てて、堅パンが鍋の底に沈んでいく。

 ベリスは鍋をかき混ぜた。

 堅パンが水分を吸い、少しずつ柔らかくなっていく。スープがとろみを帯び始めた。

 粥だ。

 スープだけでは腹持ちが悪い。だが、堅パンを加えれば、それなりに腹にたまる。

 明日から半月、この少年は歩き続けなければならない。栄養が足りなければ、途中で倒れる。


 ベリスは鍋をかき混ぜながら、独り言のように呟いた。

「昔、師匠に教わった。『冒険者はメシで死ぬ』ってな」

 タカシは何も言わなかった。

「腹が減れば、集中力が切れる。集中力が切れれば、ミスをする。ミスをすれば——」

 ベリスは手を止めた。

「——死ぬ」

 タカシは、じっとベリスを見ていた。

 ベリスは鍋をかき混ぜる手を再開した。

「だから、冒険者は飯を大事にする。安い食材でも、手間をかければそれなりに食える。手間を惜しめば、命も惜しまれない」


 堅パンが十分に柔らかくなった。

 ベリスは鍋を火から下ろし、二つの木椀に注いだ。

 一つを自分の前に置き、もう一つをタカシの前に置く。

 タカシの椀には——明らかに多く盛られていた。

 ベリスは何も言わず、自分の椀を手に取った。

「食え」

 タカシは、じっとスープ——いや、粥を見つめた。

 手を出さない。

 ベリスは自分の椀を手に取り、スプーンで粥をすくった。

 熱い。舌が少し痺れる。だが、悪くない。

 堅パンが水分を吸って、ほどよい固さになっている。香草の苦味が、乾燥肉の塩気を引き立て、堅パンの素朴な小麦の味が全体をまとめている。

 野営で食う飯としては、上出来だ。

 タカシは、まだ手を出さなかった。

 ベリスは木椀を置いた。

「食わないのか?」

 タカシは、ぽつりと答えた。

「……毒、ですか?」

 ベリスは、一瞬だけ動きを止めた。

 それから——笑った。

 乾いた、短い笑いだった。

「もっと悪い。俺の特製粥だ。堅パンが喉に詰まって死ぬかもしれない」

 タカシは、困惑した顔をした。

 冗談を理解できない。

 ベリスは笑うのをやめた。

「……冗談だ。毒は入ってない」

 ベリスは再び木椀を手に取った。

「俺がお前を殺すなら、もっと楽な方法を選ぶ」

 タカシは黙っていた。

 それでも、手を出さない。

 ベリスは、苛立ちを押し殺した。

「食え、と命令すれば食うのか?」

 タカシは、小さく頷いた。

「……はい」

「じゃあ命令はしない」

 ベリスは木椀を置いた。

「お前が自分で決めろ」


 長い沈黙が流れた。

 雨の音だけが、部屋に響いている。

 タカシは、じっと粥を見つめていた。

 ゆっくりと——本当に、ゆっくりと——手を伸ばす。

 木のスプーンを手に取る。

 スプーンで粥を一口すくう。

 それを——口に運んだ。

 タカシの目が、ほんの少しだけ見開かれた。

 ベリスは黙って、その様子を見ていた。

「どうだ?」

 タカシは、ぽつりと答えた。

「……熱い、です」

「そりゃそうだ。冷めた粥なんてクソだ」

 ベリスは自分の椀に視線を戻した。

 タカシは、二口目を口に運んだ。

 そして——

 涙を流し始めた。


 音もなく。

 ぽろぽろと、涙が頬を伝う。

 少年は泣いているのではなかった。ただ、涙が流れているだけだった。まるで、ほつれた水袋から水が滴るように。

 タカシは涙を拭おうともせず、ただ粥を啜り続けた。

 三口目。四口目。

 堅パンの柔らかな食感が、口の中で広がる。

 涙は止まらなかった。

 ベリスは何も言わず、自分の粥を啜った。


 やがて、タカシは木椀を空にした。

 涙はまだ流れている。

 ベリスは立ち上がり、タカシの木椀を手に取った。

「おかわりは?」

 タカシは、小さく首を横に振った。

「……大丈夫、です」

「そうか」


 ベリスは二つの木椀を持って、部屋の隅にある水差しに向かった。

 少量の水を木椀に注ぎ、指で内側を擦って汚れを落とす。それから水を捨て、布で拭いた。

 冒険者は道具を大事にする。

 木椀も、鍋も、ナイフも——すべては命を繋ぐための道具だ。手入れを怠れば、いざという時に使えなくなる。

 ベリスは木椀を荷物袋にしまい、鍋も同じように洗って拭いた。

 魔石コンロのスイッチを切る。青白い炎が消え、部屋は少し暗くなった。

 窓の外では、相変わらず雨が降り続けている。


 ベリスは荷物袋から毛布を取り出し、タカシに投げた。

「これを使え。ベッドで寝ろ」

 タカシは毛布を受け取ったが、動かなかった。

「……あなたは?」

「俺は椅子で寝る。慣れてる」

「でも——」

「いいから寝ろ」

 ベリスは背を向けた。

 タカシは黙って、ベッドに向かった。



 タカシがベッドに横たわってから、しばらくして——

 ベリスは背もたれに寄りかかったまま、目を開けた。

 タカシの寝息が聞こえる。浅く、不規則だが——眠っているようだ。

 ベリスは静かに立ち上がり、タカシのそばに近づいた。

 少年は毛布にくるまって、小さく縮こまっている。まるで、自分をできるだけ小さく見せようとしているかのように。

 

 ベリスは部屋を見回した。

 タカシの荷物を探したが——何もない。

 文字通り、何も持っていない。

 着ているボロボロの異世界の服と、泥だらけの異世界の靴——それだけだ。

 水筒もない。食料もない。着替えもない。

 まるで、今すぐ処分されても構わない、使い捨ての道具のように扱われていたのだろう。


 ベリスは舌打ちをした。

 半月の旅を、この格好でさせるつもりだったのか。

 ヴォルフのあの野郎——いや、ヴォルフだけではない。この依頼を出した奴らも、タカシが途中で死のうが構わないと思っているのだ。

 

 ベリスは自分の荷物袋に戻った。

 中を探り、予備の衣類を取り出す。

 粗末な麻のシャツと、ズボン。サイズは大きすぎるだろうが、ないよりはマシだ。

 それから、小さな革袋を取り出した。

 中には応急処置用の道具が入っている。包帯、消毒用の薬草酒、それから——

 ベリスは小さな軟膏の瓶を手に取った。

 傷の治りを早める軟膏だ。高価なものではないが、それなりに効く。

 ベリスはそれらをまとめて、タカシのベッドの脇に置いた。

 明日の朝、渡せばいい。


 ベリスは椅子に戻った。

 そして——ふと、何かを思い出したように立ち上がった。

 荷物袋の底を探る。

 指先が、硬い何かに触れた。

 ベリスはそれを引っ張り出した。

 古いナイフだった。

 刃には名前が刻まれている——「ロウ」。


 ベリスは深く息を吐いた。

 だが、ナイフをしまう前に——ベリスはもう一度、タカシの方を見た。

 少年は眠っているようだった。

 ベリスは低い声で呼びかけた。

「タカシ」

 少年が、わずかに身じろぎした。

「……はい」

 やはり、眠っていなかった。

 眠れないのだろう。初めての場所で、初めて会った男と同じ部屋にいる。眠れるはずがない。


「明日の朝、ここを出る」

 タカシは何も言わなかった。

「半月の旅だ。お前、何も持ってないだろう」

 しばらくして、タカシが答えた。

「……はい」

「荷物はどうした?」

「……最初から、ありません」

 ベリスは眉をひそめた。

「着替えも? 水筒も?」

「……はい」

 ベリスは深く息を吐いた。

「……クソが」


 ベリスは椅子から立ち上がり、ベッドに近づいた。

 タカシは毛布にくるまって、小さく縮こまっている。

「いいか。お前がこの世界で生きていくなら、最低限の荷物が要る」

 ベリスは自分の荷物袋を指差した。

「着替え。予備の靴。水筒。ナイフ。保存食——それくらいは要る」

 タカシは、ぽつりと答えた。

「……でも、お金が」

「お前に金があるわけないだろう」ベリスは遮った。「俺が用意する」

「……え?」

「お前が倒れたら、俺が困る。それだけだ」


 ベリスはベッドの脇に置いた衣類と薬を指差した。

「とりあえず、これを使え。明日の朝、着替えろ。そのボロ布じゃ、半月持たない」

 タカシは毛布の中から、衣類を見た。

「……いいんですか?」

「お前が倒れたら、俺が困る。それだけだ」

 ベリスは踵を返した。

「明日、町で必要なものを買い足す。水筒、予備の靴、保存食——あと、何か欲しいものがあるか?」

 タカシは黙っていた。

 ベリスは付け加えた。

「別に高価なものは買えないが——何か、お前が持っておきたいものがあれば、言え」

 しばらくして、タカシが小さな声で答えた。

「……わかりません」

「わからない?」

「僕が——何が欲しいのか、わかりません」

 ベリスは振り返った。

 タカシは毛布の中で、小さく縮こまっている。

「……そうか」

 ベリスは短く答えた。

「なら、旅の途中で考えろ。何が必要で、何が欲しいか——それを決めるのは、お前だ」

 タカシは何も言わなかった。


 部屋は静かになった。

 雨の音だけが、窓を叩いている。

 タカシの寝息——いや、寝息ではない。浅く、不規則な呼吸。

 眠れていないのだろう。

 ベリスも目を閉じたが、眠る気はなかった。


 しばらくして——タカシの声が聞こえた。

「……あの」

 ベリスは目を開けた。

「何だ?」

「明日——どこに、行くんですか?」

「北の森を抜けた先の村だ」

「……どのくらい、かかりますか?」

「半月」

 タカシは黙った。

 ベリスは付け加えた。

「道中、野営が続く。宿に泊まれるのは、途中の町が二つだけだ」

「……野営、ですか」

「そうだ。ベッドもない。焚き火の横で寝ることになる」

 タカシは何も言わなかった。

 ベリスは続けた。

「お前は、野営の経験はあるか?」

「……ありません」

「じゃあ、俺が教える」

 タカシは驚いたように、わずかに身を起こした。

「……教えて、くれるんですか?」

「当たり前だ」ベリスは淡々と言った。「お前が野営の仕方を知らなければ、お前は死ぬ。お前が死ねば、俺の報酬が減る可能性がある」

「……」

「だから教える。それだけだ」


 タカシは再び毛布にくるまった。

 だが——その声は、ほんの少しだけ震えていた。

「……ありがとう、ございます」

 ベリスは何も言わなかった。

 ただ、天井を見上げた。

 古い木材の染みが、幾何学的な模様を描いている。

 ベリスは、ぽつりと呟いた。

「……礼を言うな。俺は、お前のためにやってるわけじゃない」

 誰に言うでもなく。

 ただ、自分に言い聞かせるように。

 それから——ベリスは膝の上に置いたナイフを見下ろした。

 ロウの名前が、刃に刻まれている。

 ベリスは砥石を手に取り、刃を研ぎ始めた。

 シャッ、シャッ、と音を立てて——刃が研がれていく。

 この儀式を、ベリスは十五年間、毎晩続けている。

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