第1章:雨の夜の取引 ②異質な少年との対面
扉を叩く音が、雨音を突き破ってきた。
ベリスは眉をひそめる。こんな時間に客が来るはずがない。この宿の主人はとっくに寝ているし、酔っ払いが間違えて叩くには、ノックの音が妙に規則正しい。
三回。間を置いて、また三回。
ギルドの使者だ。
「最悪だ」
ベリスは呟き、膝から手を離した。空になった薬草酒の瓶を棚に戻し、椅子から立ち上がる。膝が軋んだ。悪態をひとつ飲み込んで、扉に向かう。
ノックがもう一度。
「待て」
ベリスは扉を開けた。
そこには——予想通り——ギルドの使者が立っていた。四十代半ばの、顔に諦めと傲慢が同居している男だ。名前はたしかヴォルフといった。C級冒険者上がりで、今はギルドの事務仕事で食っている。
だが、ベリスの視線は使者ではなく、その後ろに立つ影に向かった。
少年だった。
雨に濡れた少年が、使者の背後で項垂れていた。
「ベリス」
ヴォルフは相変わらず不機嫌な声で言った。雨の中を歩いてきたせいか、彼のマントは泥で汚れている。
「緊急の依頼だ」
「断る」
「まだ内容を聞いてない」
「聞かなくても分かる」ベリスは少年を見た。「ろくでもない仕事だ」
ヴォルフは鼻を鳴らした。
「仕事を選べる立場か?」
ベリスは答えなかった。ヴォルフの言う通りだった。Bランク冒険者で、膝に古傷があり、ギルド上層部に睨まれている男に、選択肢などない。
「……中に入れ」
ベリスは扉を開け放った。
ヴォルフは遠慮なく中に入ってきた。泥のついた靴で床を汚しながら、部屋の中央まで歩く。そして振り返り、少年に顎をしゃくった。
「ほら、お前も入れ」
少年は動かなかった。
ヴォルフは舌打ちをして、少年の肩を掴んだ。そして——乱暴に押した。
少年はよろめき、部屋の中に倒れ込んだ。
床に両手をついたまま、少年は動かない。起き上がろうともしない。
ベリスは黙って少年を見下ろした。
少年は——異質だった。
まず、服装が異様だ。この世界では見たことのない素材の、奇妙なデザインの服を着ている。上下が揃った灰色の布地。袖と裾にラインが入っている。「ジャージ」というらしい。ボロボロで、泥と血の染みがついていた。
だが、服装以上に異様なのは——その目だった。
少年はゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、何もなかった。
恐怖もない。希望もない。怒りも、悲しみも、諦めさえも。
ただ——空っぽだった。
ベリスは知っている。
この目を。
十五年前に見た。
ロウが死ぬ直前、崖際で振り返った時の——あの目だ。
「……名前は?」
ベリスは静かに訊いた。
少年は答えなかった。ただ床を見つめている。
「タカシだ」
ヴォルフが代わりに答えた。椅子に座り込み、マントを脱ぎながら。
「日本から召喚された。一年半前だ」
「日本?」
「異世界だよ。お前も聞いたことくらいあるだろう」
ある。三年前、この国は大規模な召喚魔術を発動した。異世界から「勇者」を呼び寄せるために。魔王を倒すために。世界を救うために——そういう触れ込みだった。
結果は知っている。召喚された勇者たちの大半は、魔王討伐などできなかった。固有スキルが戦闘向きでなかったり、この世界の常識に適応できなかったり、あるいは単純に才能がなかったり。父母や家族から切り離されたショックで、人の命の軽い世界で心が死んだ。心が死ねば肉体がそうなるのも早い。
そして——使えないと判断された勇者たちは、静かに処分された。
表向きは「異世界への帰還」ということになっている。
実際には、誰も帰っていない。
「こいつ」ヴォルフは親指でタカシを指した。「召喚直後は『世界を救う勇者』の付属品扱いだったんですがね」
「で?」
「固有スキルが『魔力増幅』だと分かった途端、お偉方が取り合いを始めまして」
ベリスは眉をひそめた。
「魔力増幅?」
「そのまんまの意味だ。こいつが触れると、魔力が三倍になる。魔導師にとっちゃ、夢のような能力だろう?」
「……それで?」
「王宮魔術師団が最初に確保した。一年間、こいつを『魔力充填具』として使い倒した」ヴォルフは肩をすくめた。「大規模魔術の実験、魔道具の製造、戦闘訓練——まあ、いろいろとな」
「人間を魔道具扱いか」ベリスは吐き捨てた。「趣味が悪いな」
「知るか。人間じゃねぇ、異世界人だしな。その後、貴族連中が横取りした。こいつを私物化しようとしてな。半年間、取り合いが続いた」
「……で、もう使い物にならなくなった、と」
「ご明察」ヴォルフはニヤリと笑った。「三ヶ月前から、こいつのスキルが発動しなくなった。魔力を増幅できない。つまり、ただの異世界人だ」
タカシは床に手をついたまま、微動だにしない。
「それで」ベリスは冷たく言った。「お前はここに何をしに来た?」
「依頼だよ」ヴォルフは懐から羊皮紙を取り出した。「こいつを辺境の村まで運べ。それだけだ」
「どこの村だ?」
「北の森を抜けた先。徒歩で半月」
「護衛対象は?」
「こいつ一人」
「報酬は?」
「銀貨一五〇枚」
ベリスは目を細めた。
「半月の護衛にしては安いな」
「そうだな」ヴォルフは悪びれずに言った。「でも、お前に断る権利はない」
「どういう意味だ?」
「ギルドマスターの命令だ。お前が引き受けなければ、来月の依頼を今月より絞れとさ」
ベリスは黙った。
来月の依頼が今月より絞られれば、宿代も払えなくなる。食費も賄えない。冬が来る前に野垂れ死ぬ。
「……依頼の目的は?」
「知る必要はない」ヴォルフは立ち上がった。「ただ運べ。それだけだ。村に着いたら、受取人がいる。
そいつに引き渡せば終わりだ」
「受取人の名前は?」
「教えられない。着けばわかるそうだ」
「依頼主は?」
「それも教えられない」
ベリスは舌打ちした。
情報を隠す依頼ほど、厄介なものはない。裏がある。確実に。
だが——
ベリスは床に倒れたままのタカシを見た。
少年の目は、まだ何も映していなかった。
空っぽの目。
ロウと同じ。
「……クソが」
ベリスは呟いた。そして——羊皮紙を引ったくった。
「待て」
ベリスは依頼書を睨んだまま言った。
「俺は明日、別の依頼が入っている。そっちはどうする?」
「ああ、それか」ヴォルフは無関心に言った。「キャンセルしろ」
「ペナルティは?」
「知らん。ギルドに届けを出しておけ。『ギルドマスターの緊急命令による強制変更』とでも書いておけばいいだろう」
「……本当にそれで通るのか?」
「通る通る」ヴォルフは手を振った。「俺が受理しておいてやる」
ベリスは男の顔を見た。
嘘をついている顔ではない。
だが——信用できる顔でもない。
「……いつ出発だ?」
「明日の朝。日の出と同時にな」
「分かった」
「じゃあ、こいつを頼む」
ヴォルフはマントを羽織り、扉に向かった。そして——振り返らずに言った。
「ああ、そうだ。言い忘れてた」
「何だ?」
「こいつ、途中で逃げるかもしれない。その時は——」
ヴォルフは扉の取っ手に手をかけたまま、肩越しに笑った。
「追わなくていい。どうせ、すぐ死ぬ」
扉が閉まった。
足音が遠ざかっていく。
部屋には、ベリスとタカシだけが残された。
雨の音だけが、部屋を満たしていた。
ベリスは深く息を吐いた。
「……最悪だ」
呟きながら、ベリスはタカシの前に屈み込んだ。膝が痛む。構わず、少年の顔を覗き込む。
「おい」
タカシは反応しない。
「聞こえてるか?」
タカシはゆっくりと顔を上げた。その目がベリスを捉える。
空っぽの目。
だが——その奥に、かすかに何かが見えた。
恐怖? 諦め? それとも——
「立て」
ベリスは短く言った。
タカシは動かなかった。
「立て、と言ってる」
タカシは震える手で床を押し、ゆっくりと立ち上がった。両膝が震えている。
ベリスは立ち上がり、少年を見下ろした。
タカシはベリスより頭一つ分小さい。十四歳なら、妥当な身長だ。だが——痩せすぎている。頬がこけ、首が細い。腕も足も、枝のようだ。
「怪我は?」
タカシは首を横に振った。
「病気は?」
また首を横に振る。
「腹は減ってるか?」
タカシは——答えなかった。
ただ、ベリスを見つめている。いや、顔がベリスを向いている。
ベリスは眉をひそめた。
「……わからないのか?」
タカシは小さく頷いた。
「わかりません」
初めて聞く声だった。
掠れていて、弱々しい。まるで長い間、誰とも話していなかったかのような。
「わからない、じゃない」ベリスは低い声で言った。「お前の腹だ。お前が決めろ」
タカシは困惑した顔をした。
決める、という概念が理解できないようだった。
ベリスは深く息を吐いた。
「……座れ」
タカシは——床に座ろうとした。
「待て」
ベリスはタカシの肩を掴んで止めた。
「椅子に座れ、と言ってる。お前は犬じゃない」
タカシは震えながら椅子に向かった。そして——恐る恐る腰を下ろした。
まるで、椅子に座ることが罪であるかのように。
ベリスは自分の椅子に座り、タカシと向かい合った。
長い沈黙。
雨の音。
ベリスは腕を組み、タカシを観察した。
少年の服——ジャージというらしい——は、確かに異世界のものだ。素材が違う。縫製も違う。胸に何か文字が書いてある。彼の母国語だろうか。読めない。
だが、服以上に気になるのは——
「手首を見せろ」
タカシは従った。両手を差し出す。
手首に、痣があった。
縄で縛られた痕だ。しかも、新しい。
ベリスは無言でタカシの手首を掴み、袖をまくった。
肘まで、無数の痣と傷痕がある。
「……どれくらいの頻度で縛られてた?」
「毎日」
「どれくらいの時間?」
「わかりません。時計がなかったので」
「時計とは?」
「現在の時間が分かる道具です」
ベリスは短く頷いた。
「暗い部屋か?」
「はい」
「食事は?」
「一日一回」
「内容は?」
「パンと水」
ベリスは静かにタカシの袖を戻した。
「……他には?」
タカシは黙った。
「言いたくないなら、言わなくていい」ベリスは言った。「だが、怪我や病気があるなら教えろ。お前が途中で倒れたら、俺が困る」
「怪我は……ありません」
「病気は?」
「ありません」
「本当か?」
「はい」
ベリスはタカシの目を見た。
嘘をついている様子はない。
だが——この少年は、自分の体の状態すら正確に把握していないかもしれない。一年半も「魔道具」として扱われていたなら、痛みや疲労を訴えることさえ許されなかっただろう。
「いいか」
ベリスは低い声で言った。
「俺はお前の保護者じゃない。お前が野垂れ死んでも、俺の報酬は変わらない」
タカシは頷いた。
「だが」ベリスは続けた。「お前が俺と一緒にいる間は、俺のルールに従ってもらう」
「……はい」
「『はい』じゃない」ベリスは苛立たしげに言った。「お前の意見を聞いてる。嫌なら今すぐここから出て行け。誰も止めない」
タカシは——混乱していた。
口を開きかけて、閉じる。
何度か。
そして——
「……意見、とは?」
「お前が何を考えているか、だ」
「考えて、いいんですか?」
ベリスは眉をひそめた。
「……何だと?」
「僕が、何かを考えることは——許されているんですか?」
部屋の空気が、凍りついた。
ベリスは拳を握りしめた。
爪が掌に食い込む。
「……そうか」
ベリスは低く呟いた。
「お前は、考えることすら禁じられていたのか」
タカシは答えなかった。
ただ、じっとベリスを見つめている。いや、ただ顔がベリスを向いている。
空っぽの目。
だが——その奥に、かすかな光が見えた。
疑問? 戸惑い? それとも——
ベリスは深く息を吐いた。
「いいか、タカシ」
ベリスは少年の名を初めて呼んだ。
「お前は今、自由だ」
タカシは瞬きをした。
「……自由?」
「そうだ。お前を縛る奴はもういない。お前を魔道具扱いする奴もいない」
「でも——」
「『でも』じゃない」ベリスは遮った。「お前は今、この部屋にいる。俺と一緒にいる。そして——お前は自分で考え、自分で決めることができる」
「……できません」
「何故だ?」
「僕は——」タカシは俯いた。「僕は、もう何も——」
言葉が途切れた。
ベリスは待った。
雨の音。
タカシは震えていた。
「……じゃあ質問を変える」
ベリスは言った。
「腹は減ってるか?」
タカシは俯いたまま答えた。
「……わかりません」
「わからない、じゃない。お前の腹だ。お前が決めろ」
「決められません」
「何故だ?」
「僕が——僕が決めていいのか、わからないから」
ベリスは目を閉じた。
深く、深く息を吸った。
そして——目を開けた。
「いいか、タカシ」
ベリスは静かに、しかし明確に言った。
「これから、お前は自分で決める。何を食うか。何を着るか。どこを歩くか。いつ休むか。全部、お前が決めろ」
「……で、できません」
「できる」
「できません!」
タカシは顔を上げた。
その目に——初めて感情が浮かんだ。
恐怖だった。
「僕が決めたら——僕が決めたら、また間違えます! また、誰かが死にます!」
ベリスは動じなかった。
「誰かが死んだ? 誰が?」
「……っ」
タカシは口を噤んだ。
ベリスは待った。
長い沈黙。
やがて——タカシは震える声で言った。
「召喚された時……僕たちは五人でした」
「五人?」
「はい。日本から、五人が召喚されました。僕と——」
タカシは言葉を詰まらせた。
「……友達でした。同じクラスの」
ベリスは黙って聞いた。
「でも——僕たちは、使えませんでした。魔王と戦えるような力は、ありませんでした」
「それで?」
「それで——一人ずつ、消えていきました」
「消えた?」
「はい。『異世界に帰る』と言われて……でも、僕たちは知っています。帰っていないことを。言葉はよ
くわからなくても、彼らが俺たちを見る空気でわかりました」
タカシの声が震えた。
「最後に残ったのは、僕と——ユウタでした」
「ユウタ?」
「僕の友達です。一番の……親友でした」
タカシは拳を握りしめた。
「ある日、兵士が来て言いました。『どちらか一人を選べ』と」
ベリスは眉をひそめた。
「選べ?」
「『より強い魔力増幅のスキルを持つ方を選べ』と。もう一人は——処分されると」
ベリスの表情が険しくなった。
「……それで?」
「僕は——」タカシの声が掠れた。「僕は、ユウタを指差しました」
「何故だ?」
「ユウタの方が、強いスキルを持っていたからです。僕のスキルは——三倍。でも、ユウタのスキルは——五倍でした」
「……」
「だから、僕は思いました。ユウタなら、生き延びられる。僕よりも、価値がある。僕よりも——」
タカシは顔を覆った。
「でも——僕が間違っていました」
「どういうことだ?」
「兵士は——ユウタを連れて行きました。そして——」
タカシの体が震えた。
「次の日、ユウタは死んでいました」
ベリスは何も言わなかった。
「実験に失敗したんです。ユウタのスキルは強すぎて、あいつらには制御できなくて——」
タカシの声が涙に濡れた。
「もし僕が——もし僕がユウタを選ばなければ——ユウタは死ななかった」
「それは違う」
ベリスは静かに言った。
「お前が選ばなくても、ユウタは死んでいた」
「……え?」
「選択肢は最初から一つだけだった」ベリスは冷徹に言った。「兵士はお前を試していたんだ。お前が自分で自分を選ぶかどうかを」
タカシは目を見開いた。
「でも——」
「だが、お前は選ばなかった。友達を選んだ。それは——」
ベリスは短く息を吐いた。
「間違いじゃない」
「でも、ユウタは——」
「死んだ」ベリスは遮った。「だが、それはお前のせいじゃない」
「……」
「悪いのは、お前たちを召喚した奴らだ。お前たちを使い捨てた奴らだ」
ベリスは立ち上がり、暖炉に向かった。
「お前は——ただ、生き延びようとしただけだ」
背中越しに言う。
「それは、間違いじゃない」
タカシは何も言わなかった。
ベリスは薪を暖炉に放り込み、火をつけた。
炎が揺れる。
「……腹を空かせてるだろう」
ベリスは振り返らずに言った。
「スープを作る。待ってろ」




