第3章:夜盗と血の洗礼 ④膝の代償、伸びる影
川を離れて、二人は再び森の中を歩いた。陽は高くなり、木々の間から明るい光が差し込んでいる。鳥たちが鳴いている。既に新しい一日が始まっているが——平穏ではない。
ベリスの歩き方が、さらに悪化していた。明らかに右足を引きずっている。一歩ごとに、顔をしかめる。額の汗が止まらない。膝を押さえながら、木に手をつきながら、それでも歩き続ける。弱音を吐かない。だが——その姿は、痛々しかった。
タカシは三歩後ろを歩きながら、ベリスの背中を見ていた。心配だ。でも——何も言えない。何を言えばいいのか分からない。「大丈夫ですか」と聞いても——ベリスは「大丈夫だ」と答えるだろう。でも——本当は大丈夫じゃない。それは見れば分かる。
沈黙が続く。二人とも、何も話さない。ただ歩く。森の中を。木々の揺れる音。鳥の声。遠くで川が流れる音。それだけが聞こえる。
やがて——ベリスが立ち止まった。
また膝を押さえる。「っ……」低く呻く。顔が歪む。これまでで一番——苦しそうだ。
タカシは不安になった。声をかけるべきか。でも——何と言えばいいのか。
ベリスは木に背をもたれた。ゆっくりと、慎重に座り込む。右脚を伸ばす。「はあ……」深く息を吐く。もう隠せない。限界が近い。
タカシは——立ち尽くした。どうすればいいのか。荷物を置くべきか。水を出すべきか。それとも——
「タカシ」
ベリスが静かに呼んだ。
「荷物を降ろせ」
タカシは頷いて、荷物を降ろした。ベリスの横に置く。
「座れ」
タカシは——少し迷ったが、ベリスの隣に座った。木に背をもたれて。二人並んで座る形になる。距離は——少し離れている。でも——近い。こんなに近くにベリスがいる。
ベリスは目を閉じた。呼吸を整えている。膝に意識を集中している。痛い。ズキズキと脈打つような痛み。腫れが——さらに酷くなっている。触れなくても分かる。熱を持っている。
しばらく——沈黙が続いた。
タカシは横目でベリスを見た。その顔には——疲労の色が濃い。目の下にクマができている。額の汗。荒い呼吸。膝を庇うように、右脚を少し曲げている。
ベリスは——強い。タカシが知っている中で、一番強い。山賊五人を瞬く間に倒した。投げナイフ一本で親分にとどめを刺した。小細工を使って、圧倒的な技術で。でも——その強いベリスが、今——苦しんでいる。痛めた膝が、ベリスを蝕んでいる。
タカシは——胸が痛んだ。自分のせいだ。親分を逃がしたのは。もしタカシが戻ってこなければ——ベリスは親分を捕まえられた。膝をここまで痛めることもなかったかもしれない。罪悪感が——また込み上げてくる。
やがて——ベリスが口を開いた。
「……なんで戻ってきた」
低い声。でも——怒っているようには聞こえない。ただ——静かに聞いている。
タカシは——少し考えた。何と答えればいいのか。
「確認したかったんです」
小さな声で答えた。
「ベリスが……無事かどうか」
ベリスは目を開けた。タカシを見る。その目は——真剣だ。
「無事かどうか、か」
ベリスは小さく笑った。でも——笑顔ではない。苦笑のような、複雑な表情。
「いいか、タカシ」
ベリスの声が——少し厳しくなる。
「お前がやったことは、命令違反だ」
「俺は『逃げろ』と言った」
「それは命令だ。絶対だ」
「お前がそれを破ったせいで——」
ベリスは膝を見た。
「親分を逃がした。膝も悪化した」
タカシは——俯いた。やっぱり。やっぱり俺のせいだ。
「すみません……」
小さく謝る。声が震える。
ベリスは——少しの間、黙っていた。
そして——
「だが——」
ベリスの声のトーンが変わった。
「お前、初めて『選んだ』な」
タカシは顔を上げた。ベリスを見る。
ベリスの顔には——複雑な表情があった。怒りと、呆れと。でも——どこか誇らしげな色。
「怖いのに、戻ってきた」
「命令に逆らってでも、自分で決めた」
「それが——『選ぶ』ってことだ」
タカシは——何も言えなかった。胸が熱くなる。目が潤む。泣きそうになる。でも——堪える。
ベリスはタカシの頭を軽く拳で叩いた。
「痛っ」
「これは命令違反の罰だ。覚えとけ」
でも——その手は、優しかった。温かかった。
タカシは——少しだけ笑った。涙を堪えながら。
ベリスは続けた。
「さっき、川で——よく腕を抜けたな」
「教えたばかりだぞ」
タカシは頷いた。
「……考える前に、身体が動きました」
ベリスは——少し驚いた顔をした。
「反射的に、か」
そして小さく笑う。
「お前、才能あるかもしれないな」
「え……」
タカシは驚いた。才能——自分に?
ベリスは説明する。
「訓練ってのは、そういうことだ」
「考えてたら間に合わない」
「身体が覚えてるから、反射的に動ける」
「お前はちょっと練習しただけで、それができた」
「悪くない」
タカシは——嬉しかった。ベリスに褒められた。認められた。初めてかもしれない。誰かに——本当に認められたのは。
胸が温かくなる。涙が——また込み上げてくる。でも——今度は悲しい涙じゃない。嬉しい涙。
だが——
「ただし——勘違いするな」
ベリスの声が、再び厳しくなる。
「お前はまだ弱い」
「今回は運が良かっただけだ」
タカシは——頷いた。分かっている。自分はまだ——何もできない。
「親分は素人だった。動きが読みやすかった」
「親分はお前を侮っていた」
「もしあれがプロだったら——」
ベリスはタカシを見た。
「お前は死んでた」
その言葉が——重い。現実が——突きつけられる。
「訓練を続けろ。何度も、何度も」
「身体に刻み込め。考えなくてもできるまで」
「それが——生き延びる方法だ」
タカシは真剣な顔で頷いた。
「はい」
心の中で——誓う。もっと強くなる。ベリスみたいに。誰も見捨てない、強い人に。諦めなくていい人に。
二人は——しばらく黙って座っていた。
風が吹く。木々が揺れる。葉が擦れる音。鳥が鳴く。穏やかな朝の森。でも——平穏ではない。見えない敵がいるかもしれない。
やがて——ベリスが立ち上がろうとした。
「さあ、行くぞ——」
だが——膝に激痛。「っ……!」ベリスの顔が歪む。立てない。再び座り込む。
タカシは慌てた。「ベリス!」
ベリスは——自分の膝を見た。ズボンをまくる。タカシも覗き込む。
膝が——腫れ上がっていた。熱を持っている。赤く腫れている。さっきより——明らかに悪化している。
「ベリス……!」
ベリスは顔をしかめた。
「見ての通りだ」
「昨夜の戦闘で、やっちまった」
タカシは——どうすればいいのか分からない。
「どうすれば……」
タカシは水筒を取り出した。水を布に含ませる。それを膝に当てる。
ベリスが小さく息をつく。
「……冷たいな」
でも——少しだけ楽になったようだ。
ベリスは少し考えた。そして——
「タカシ、荷物から薬草を出してくれ」
「それと、布も」
「はい」
タカシは荷物を開けて、薬草と布を取り出した。ベリスに渡す。
ベリスは薬草を口に含んだ。噛み、すり潰す。苦そうな顔。そして——それを膝に塗る。膝がまんべんなく覆われるまで。緑色のペースト状になった薬草。独特の青い草の匂い。ベリスの口元が緑に染まる。
「これで少しは——」
ベリスは布で膝を巻く。きつく、でも血流を止めないように。慣れた手つき。何度もやってきたのだろう。
「2、3日冷やして、様子を見る」
タカシは不安そうに聞いた。
「治りますか?」
ベリスは——少し苦笑した。
「完全には治らない。古傷だからな」
「だが、腫れは引く。歩けるようになる」
ベリスは——独白するように呟いた。
「……歳は取りたくないもんだな」
小さく笑う。自嘲的な笑い。
「全盛期なら、こんな膝にはならなかった」
タカシは——何も言えない。ただ黙って聞く。
ベリスが——話し始めた。
「一五年前——」
遠い目をする。
「俺には弟子がいた。ロウという名の少年だ」
タカシは——驚いた。ベリスに弟子が?
「そいつと一緒に依頼をこなしてた」
ベリスの声が——少し沈む。
「だがある日——俺の判断ミスで、魔物に囲まれた」
「ロウを逃がそうとしたが——」
ベリスは膝を見た。
「魔物はロウを追った」
タカシは——息を呑んだ。
「俺は必死で追いかけた。全力で走った」
「その時、この膝を痛めた」
ベリスの声が——震える。
「でも——間に合わなかった」
「ロウは死んだ。俺のせいで」
タカシは——理解した。だからベリスは、俺を見捨てなかったんだ。ロウの代わりに。今度は、間違えないために。
胸が熱くなる。ベリスの過去。ベリスの痛み。それを——今、初めて知った。
「ベリス……」
ベリスは顔を上げた。タカシを見る。
「だから——お前を死なせたくない」
「それだけだ」
タカシは——涙が溢れそうになった。でも——堪える。ベリスの前で泣くわけにはいかない。
「ありがとうございます」
それだけ言うのが精一杯だった。
ベリスは荷物から地図を取り出した。広げる。タカシも覗き込む。
「次の村まで、まだ一日半はかかる」
ベリスは地図を指でなぞる。
「この膝じゃ——もっとかかるだろう」
「途中で動けなくなるかもしれない」
タカシは——不安になった。ベリスが動けなくなったら——どうなるのか。
「だが——」
ベリスが地図の一点を指した。
「この近くに、古い監視砦がある」
「十人ほどの兵士が詰めている。定期的に国の兵士が巡回してる」
「ここだ。この足でもあと二時間ほどで着く」
タカシは地図を見た。確かに——なにかの記号がある。
「そこで休むんですか?」
ベリスは頷いた。
「ああ。二、三日休んで、膝の腫れを引かせる」
「その間に、お前の訓練もできる」
タカシは——少し不安そうに聞いた。
「でも……追ってくる人がいるかもしれないんですよね?」
ベリスは——小さく笑った。
「だからこそ、砦だ」
「防衛しやすい。少人数でも守れる」
「それに、国の兵士がいる砦は、襲いにくいだろう」
ベリスは地図をたたんだ。
「昔、国境警備に使われてた砦だ。今は主に街道監視と避難所として維持されてる」
「ほとんど廃墟のようなものだが、建物はまだ生きてる」
「防衛に適した場所だ」
「水場もある。食料も狩れば何とかなる」
タカシは——頷いた。ベリスが決めたなら、それに従う。
「分かりました」
ベリスは木に手をついて立ち上がった。膝を引きずりながら。顔をしかめながら。でも——立つ。
「さあ、行くぞ」
タカシも立ち上がった。荷物を背負う。親分の首が入った袋も、荷物に吊るされている。重い。でも——慣れた。
「ベリス、肩を貸します」
タカシはベリスの腕を取った。
ベリスは——少し驚いた顔をした。でも——拒まない。
「……悪いな」
「構わないです」
タカシがベリスを支える。ベリスの腕が、タカシの肩にかかる。重い。大人の重さ。でも——タカシは踏ん張る。ここまで歩いてきた脚。少しずつ——強くなっている。
二人で歩き出す。ゆっくりと、でも確実に。砦を目指して。
出発してしばらくして——ベリスが突然立ち止まった。
「どうしました?」
ベリスは——森の奥を見つめている。その目は——何かを探している。鋭い目。まるで獣のような。
タカシも同じ方向を見た。でも——何も見えない。木々。影。それだけ。
「……何かいるんですか?」
ベリスは——少しの間、黙っていた。そして——
「……分からん」
首を横に振る。
「気配がした気がした。だが——」
「気のせいかもしれない」
でも——ベリスの表情は険しい。本当に気のせいだとは思っていない。何かがいる。何かが——見ている。
ベリスはタカシに向かって言った。
「タカシ、これから常に警戒しろ」
「誰かが——俺たちを見ていると思え」
タカシは——背筋が寒くなった。見ている——誰が? 依頼主? それとも——別の誰か?
「……はい」
タカシは頷いた。周囲に気を配る。でも——何も見えない。何も感じない。ただ——怖い。
森の奥——木の陰に、人影があった。
じっとベリスとタカシを見ている。遠くから。見つからない距離で。
その人物は——静かに呟いた。
「……膝を痛めたか」
「この方向……砦か」
低い声。男の声。
「まぁいい。やりようはある」
そして——人影は音もなく森の中に消えた。足音も立てない。まるで影のように。姿が——見えなくなる。
ベリスは——何かを感じていた。間違いない。何かがいた。だが——今は追ってこない。様子を見ているのか?
ベリスは心の中で考える。砦に着くまでが勝負だ。そこで迎え撃つ。着いてしまえば一息つける。
ベリスは剣の柄頭に手を置いた。いつでも抜けるように。
「行くぞ、タカシ」
「はい」
二人は——再び歩き出した。
太陽がゆっくりと天頂から傾き始めた。進むごとに二人の影が伸びる。少しずつ長く。
二人の影が地面に映る。ベリスとタカシ。師匠と弟子。互いを支え合いながら歩く姿。
タカシは——ベリスを支えながら思った。俺、変わった。昨日とは違う。まだ弱い。でも——もう、ただ逃げるだけじゃない。
ベリスも——タカシの肩にかかる腕に力を感じながら思った。こいつ、成長したな。まだ未熟だが——ロウとは違う道を歩めるかもしれない。
森を抜けると——小高い丘の上に、古い石造りの建物が見えてきた。監視砦だ。壁は所々崩れている。屋根も一部が落ちている。でも——まだ形を保っている。尖塔に色あせた国旗がなびいている。
「着いたぞ」
ベリスが言った。
「あそこが、俺たちがやっかいになる砦だ」
タカシは——砦を見上げた。古い。だが壁もある。屋根もある。ボロボロだ。でも——今は頼もしく見える。あそこで——休める。ベリスの膝を治せる。訓練もしてもらえる。
「はい」
タカシは頷いた。
「国が敵じゃないといいがな」
ベリスが呟いた。
タカシは息を呑んだ。そうか——自分を召喚したのは、国だ。
二人は——ゆっくりと丘を登り始めた。砦に近づいていく。一歩、また一歩。
これから——新しい戦いが始まる。でも——今は、休む。傷を癒す。力を蓄える。
そして——次に来る敵に備える。
タカシは——ベリスを支えながら、砦へ向かった。
落ちていく日が、二人の背中を照らしている。影は長く、地面に伸びている。
また一日が——終わろうとしている。
最後まで読んでくださってありがとうございます。
話の流れを変えましたら、第3章の章タイトル「最初の亀裂」が
当初想定していたストーリーとそぐわなくなりましたので、
第3章のタイトルを「夜盗と血の洗礼」に変更しました。
おじさんベリスと若者タカシの旅を一緒に楽しんでくださったら幸いです。
今後ともよろしくお願いします。




