第1章:雨の夜の取引 ①膝の痛み、安酒の哲学
膝が痛む夜は、決まって雨が降る。
ベリスは宿の二階、壁に大きな染みのある安部屋で、ズボンの裾を膝まで捲り上げていた。左膝の内側、古い傷跡が赤黒く浮かんでいる。十五年前、全力で走りすぎて腱を痛めた。それ以来、天気が崩れる前には必ず疼く。まるで体に組み込まれた天気予報だ。精度は高いが、役に立たない。
小瓶から薬草酒を手のひらに垂らし、傷跡に塗り込む。ツンとした匂いが鼻を突く。アルコールと何かの根を煮詰めた液体で、薬師は「血行を良くする」と言った。本当かどうかは知らない。少なくとも痛みが消えることはない。ただ、塗らないよりはマシな気がする。プラシーボでも構わない。冒険者の仕事は気休めと現実の境界線で成り立っている。
傷跡を撫でながら、ベリスは窓の外を眺めた。雨脚は強まる一方だった。街道は泥に変わり、明日の出発は確実に遅れる。依頼主は文句を言うだろう。いつものことだ。
手のひらに残った薬草酒を、ベリスは舐め取った。
舌が痺れ、喉が焼ける。クソみたいな味だ。だが悪くない。この安酒は膝の痛みには効かないが、膝の痛みをどうでもよく思わせる程度には脳に効く。冒険者にとって、それは時として本物の鎮痛剤より価値がある。
ベリスはベッドの脇に置いた革袋から、明日の依頼書を取り出した。羊皮紙に走り書きされた文字は、ギルドの事務員の悪筆で判読が難しい。それでも要点は理解できた。
依頼内容:辺境の村までの護衛任務
報酬:銀貨三十枚
難易度:Bランク相当
ベリスは鼻で笑った。
嘘をつけ。
この街道は山賊の巣窟で、最近は森に棲むグリフォンの目撃情報もある。本来ならAランク、それも複数人のパーティで受けるべき依頼だ。それを一人で、しかもBランク報酬で受けろと言う。
だが、ギルドの連中はベリスが断らないことを知っている。
なぜなら、断れば次の仕事が回ってこないからだ。Bランク冒険者は掃いて捨てるほどいる。その中で「面倒な奴」のレッテルを貼られれば、干される。実力があっても関係ない。ギルドは組織だ。組織には組織のルールがある。
ベリスはそのルールを、かつて破った。
十二年前、ある貴族の依頼を断った。内容は「商売敵のキャラバンを襲って、荷物もできるだけ持ってこい」というものだった。冒険者の仕事じゃない。山賊の仕事だ。ベリスは丁重に、しかしはっきりと断った。
その貴族はギルドの大口顧客だった。
翌週から、ベリスへの依頼は激減した。残ったのは、誰も受けたがらない割に合わない仕事ばかり。Aランク昇格の話も立ち消えた。ギルドマスターは言った。「お前は優秀だが、協調性に欠ける」
協調性。
便利な言葉だ。要するに「黙って従え」という意味だ。
ベリスは従わなかった。
結果、四十二歳の今もBランクのままだ。膝は痛み、貯金は雀の涙で、泊まるのは壁に染みのある安宿ばかり。かつての同期は皆、Aランクに昇格するか、引退して堅気の仕事に就いた。
後悔しているか?
ベリスは依頼書を革袋に戻し、小瓶の薬草酒をもう一口飲んだ。
後悔はしていない。
たぶん。
いや、していない。少なくとも、そう思いたい。
正しく生きることを選んだ結果が、この安部屋と痛む膝だ。それでも、鏡を見たときに自分の目を逸らさずに済む。汚れ仕事の金で買う酒は、どれだけ旨くても喉を通らない。ベリスはそういう人間だった。
不器用で、融通が利かなくて、損ばかりする人間。
窓の外で、雷鳴が轟いた。
雨はますます激しくなっている。ベリスは窓枠に肘をつき、暗い空を見上げた。星が覗く雲の切れ目はどこにもない。明日の朝まで、この雨は止まないだろう。
膝がまた疼いた。
ベリスは小瓶を傾けたが、中身はもう空だった。舌打ちをして、ベッドに寝転がる。天井には木目の模様がある。節目が目のように見えて、こちらを見下ろしている気がした。
「見るな」ベリスは呟いた。「俺の人生に、お前の評価はいらない」
天井は答えなかった。
ベリスは目を閉じた。明日もまた、割に合わない仕事が始まる。いつものことだ。慣れた。慣れるしかなかった。
それでも——
胸の奥に、小さな棘のようなものが刺さっている。
それは後悔ではない。もっと別の何か。名前のつけられない感情。かつて何かを失ったときの、欠落の痛み。
ベリスは左手を胸に当てた。革の胸当ての下、心臓が静かに脈打っている。
生きている。
まだ生きている。
それだけで十分だと、自分に言い聞かせた。
雨音だけが、部屋に響いていた。




