第4話 封を剝がす鍵、竜脈の咆哮
社務所の囲炉裏火が落ちるころ、凛夜・霧花・迅牙の三人は囲い石の周りに小さな円陣を組んだ。
夜霧は日中より重く、吸い込むと肺の奥がじりりと痺れる。庭木の影が紙切れのように薄く揺れ、切り取られた夜空は墨を流し込んだような灰色だった。
「段取りをもう一度」
凛夜が口を開くと、霧花が図面を畳みつつうなずいた。
「銀鍵を井戸蓋の中央へ挿すと、表刻印が一枚ずつ剝がれて竜脈が露わになる。私が白因刀で動きを三秒凍らせる」
「その三秒のあいだに、俺が剝がれた因を釘列へ導き輪結界を立てる」
凛夜が続け、迅牙が黒鋼因爪を指先で弾いた。
「結界の外へ漏れた残霧は俺が斬る。――それで封が九割戻る計算だ」
霧花は不安げに銀鍵を見つめる。百年前の術士が作ったという片刃の鍵は、白金に似た鈍色で、歯のような切っ先が月光を跳ねて冷たい。
「問題は残り一割。鍵が保てばいいけれど」
迅牙が石畳を蹴って立ち上がる。
「鍵が折れたら黒刀の力を借りるしかない。その時は――」
「殴ってでも止めるんだろ?」
凛夜が笑わずに言うと、迅牙は肩をすくめた。
「覚えているならいい」
胸下の杉箱が小さく軋んだ。凛夜は蓋をそっと叩き、囁きに低く言い聞かせる。
「貸し借りの話はまだしない。黙って見てろ」
◇ ◇ ◇
井戸のある境内は、見慣れたはずの景色がまるで他人の庭になっていた。
竹柵が四角に組まれ、その内側を行き来する白布姿の男たち。柵の四隅では油皿の炎が赤く揺れ、煤の匂いに混じって墨と薬香が漂う。
羽織袴に黒革の手甲をつけた男が火前へ立った。篠月――因研究局の上席監察官。昼間は関所で目撃したが、夜の闇の中では顔色ひとつ読めない。
「戻ってきたか」
篠月は扇子を軽く開き、炎の熱をそらすようにあおぐ。
「井戸はお上の御用に供する。封を解く儀を執り行うので、邪魔だては無用だ」
「封を解けば村は死ぬ」
霧花の声は震えなかった。白因刀〈静〉は半寸だけ鞘を離れ、月明かりをすくい取っている。
「死は糧にもなる。国を養う糧だ」
篠月が笑いも怒りも交えず告げ、扇子を閉じる。甲高い音に呼応して、竹柵の影が六つ躍り出た。
白布面の傀儡兵――測衛。面布には測定符が縫い込まれ、胸に瓢箪形の計測核が揺れる。
「測衛、六」
迅牙が短く数え、爪を構えた。
「左二つは白、真ん中は釘、右二つは爪。残った一体は俺が仕留める」
霧花と凛夜が同時に「受け持つ」と応え、三人は井戸を背に三角の陣を取った。
篝火が跳ねる。測衛が音を立てずに地を滑り、三方向から突っ込む。
「固定!」
霧花の白閃が左列二体の膝を凍らせた。だが面布の測符が赤く光り、凍った関節が巻き戻すように軌跡を逆転する。
凛夜は釘を二本抜き、測符と核を繋ぐ細紐めがけて叩き込む。乾いた衝撃が霧の中で弾け、巻き戻しが途絶えた。
迅牙が右列へ踏み込み、右爪で布を裂き、左爪で核を掴む。平打ち一閃。澄んだ粉砕音。測衛が霧と布切れに戻るまで三呼吸。
残る三体が飛び退き、動きを変えて井戸へ滑る。
剣戟のような笛の音が闇を貫いた。篠月の短笛。測衛たちは弧を描き、井戸蓋の上で体勢を組み換える。
「急げ!」
凛夜の声に霧花が頷き、白因刀を横一文字に抜いた。濁った夜気が一拍止み、測衛たちの膝から下が氷の色へ変わる。
井戸縁に膝をついた凛夜は、銀鍵を鍵穴へ噛み合わせた。歯のような切っ先が蓋石を噛み、澄んだ鐘の音。銀色の脈線が蓋いっぱいに広がり、蜘蛛の巣のように刻印を剝がしてゆく。
「剝離、第一層!」
凛夜が鍵をひと捻り。井戸口に白輪が浮かび、噴き上がる黒霧を吸い取る。
「残霧、右!」
迅牙が駆け、爪を払い炎のような黒気を三筋に裂いた。玉虫色の火花が散り、凍土のような音が地を這う。
「第二層、捻る!」
銀鍵が再び回り、蓋石の刻印が二重に剥がれる。冷え切った空気が呻き声へ変わり、竜脈の黒霧が太い柱となって噴き上がる。
「三秒!」
霧花は白刃を真縦に突き立てた。竜霧が凍り付き、咆哮が氷嚢に閉じ込められたように鈍く震える。
凛夜は釘を雨のように放ち、剝がれた因の流路を輪結界へ導いた。刻印が白から瑠璃へ、さらに金へ。輪の外へ溢れた余剰因を迅牙が斬り、霧花が繰り返し固定する。剝離率は七割に届いた――その時だった。
篠月の短笛が短く甲高く鳴った。
散り散りになっていた測衛の残骸が白布を巻き直し、核を抱えて井戸へ飛び込む。核が竜脈の珠に融合し、黒霧は燐光を帯びた黒炎へ姿を変えた。白輪が焦げ、霧花の凍結が弾き飛ばされる。
「鍵をもう一捻り!」
霧花が叫び、凛夜が鍵柄を握り込む。銀の歯車が悲鳴を上げ、柄の中央でぱきりと折れた。剝離率六割で停止。井戸口の輪結界が焼け、竜炎が膨張を始める。
胸の奥で鎖が切れた音がした。喉が焼かれ、耳の奥へ叫びが突き刺さる。
──怒りをくれ、すべて喰らいつくしてやる!
杉箱の留め金が重みに負けて外れた。黒い刃はまだ鞘に残る。だが口金の隙間から濃い靄が伸び、折れた銀鍵へ絡みついた。靄は黒炎を一本だけ引き込み、箱の中へ吸い込む。
「凛夜!」
霧花が白刃を返し、箱の前へ飛び出す。迅牙も爪を掲げたが、凛夜は箱を抱え込み、低く吠えた。
「借りない! まだ借りない!」
黒靄は鍵の欠片を包んだまま動きを止め、炎を吸い上げた穴は急速に収縮する。量は僅か――だが結界を焼く勢いを削ぐには足りた。
篠月の顔に初めて感情が走った。
「封が七割戻ったか……だがまだ終わらぬ。いずれ軍勢を伴い、井戸ごと頂戴する」
監察官は扇子を鳴らし、闇へ退いた。白布の破片が火の粉に混じって舞う。
◇ ◇ ◇
境内に静けさが降りた。
霧花は白刃を杖に膝をつき、肩で息をする。
「鍵は折れた。竜脈は六割しか剝がせなかった……」
迅牙が爪を拭きながら見上げる。「黒刀のおかげで結界が持ったのは事実だ。だが次はどうする?」
凛夜は焦げた掌を握りしめ、箱に耳を寄せた。黒刀はまるで満足げに沈黙している。
「釘で残り四割を強引に剝がす。鍵の欠片を介して白輪に繫げれば……」
霧花が顔を上げる。「鍵に残った黒刀の靄を、封の新しい芯にする?」
「まだ借りない。あいつが勝手に吐いた糸を、ただ利用するだけだ」
迅牙は短く笑い、黒爪を打ち合わせる。
「いいだろう。白が止め、釘が繫ぎ、爪が砕く。黒は借りずに喰わせる。ただし少しでも暴れたら、本気で殴る」
「心得ている」
夜空の雲が切れ、淡い月が斜めに光を落とした。半開きの井戸蓋は低く呻き、子どもたちの微かな呼び声が霧の奥で揺らめく。
封はまだ閉じられていない。だが銀鍵が折れた今、悲鳴のような囁きを黙らせる方法は、自分たち自身で見つけるしかない。
「行こう」
凛夜が立ち上がる。霧花が白刃を静かに構え、迅牙が黒爪を鳴らした。
白と黒と銀の綾が、夜霧の中で最後の形を探し始めていた。




