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第3話 祠下の胎室、白と黒の綾

 関所を発って再び霧村へ戻る道は、夜に下るより暗かった。

 昇り始めた朝陽を霧が遮り、杉木立の影が濃紺に沈む。凛夜、霧花、迅牙の三人は荷を最小限に絞り、山腹の古い山祠を目指していた。古図にだけ記された抜け道――村の下層へ延びる参道が祠の床下から繋がるらしい。


「関所から追って来る者はいないか」

 迅牙が後ろを振り向く。

「因研究局の役人は道中の兵部宿へ滞在。黒因派は山路を避けるはずだ」凛夜が答えた。

 霧花は耳を澄ませる。「耳鳴りが戻ってきてる。下層の因がまだ動いてる証拠」


 山祠は村の外縁、苔むした石段の上に鎮座していた。朽ちた注連縄と背後の杉が同じ色に腐り、扉には錆びた錠前。霧花が鞘尻で錠前を突くと、あっけなく崩れ落ちた。中へ踏み込むと土間がひと抱えほど窪み、中央に石床の蓋。

 凛夜は蓋を撫で、欠けた刻印をなぞる。「百年前の第二封陣。井戸が表口なら、こちらは裏口か」

 迅牙が爪を噛ませ、蓋を持ち上げた。下から冷えた空気と、微かに甘い匂い――人が長く閉じ籠った室の湿気が混じる。



 梯子を降りきると、幅一間ほどの石廊下が南北へ伸びていた。壁面は焼けただれ、煤の跡が千鳥に散る。古い封符が破られた跡だ。

「黒因派の工房はこの先」霧花が囁く。「鼓膜を押す重さが強い」

 凛夜は半拍遅れる心臓を数えながら進む。足音が吸われ、代わりに箱の中で喰因刀が低く鳴る。

──憎しみを、流せ。

「借りない」小さく吐き捨てる。


 廊下が開け、石室になった。中央に井桁に組んだ木枠。その中へ太い竹筒が縦に並び、筒の中には人の頭大の黒珠が浸されている。珠の下にはまだ幼い上着と草履――失踪した子らの持ち物だった。

 霧花が顔色を失う。「珠に記憶と意志を閉じ、あとから身を作り直す。黒因派が言う“新しい器”を育てる胎室だわ」

「珠を割り、因を還せば子どもの魂も戻る」迅牙が言い、爪を鳴らした。「だが守りがいるはずだ」


 石室の奥で軋む音。煤の柱の裏から、仮面をつけた男が現れた。白磁の能面に細い眼孔、口は裂けて歯がない。袂から覗く腕は墨の文様で埋め尽くされ、まるごと術式の芯と化している。

 霧花が小さく息を呑む。「刻み師……黒因派でも上位の術者」

 能面は傾く。声帯を使わず、室内の霧を震わせて言葉を響かせた。

『破封の邪魔をするか。珠を砕けば子らの魂は迷い、因は荒ぶる』

「封は守る。子どもは必ず返す」凛夜が釘袋を握る。


 刻み師の袖から黒い糸が奔出した。糸は互いに絡み合い、人の背丈ほどの繭を三体作り上げる。繭の中心に黒珠、外殻に誘因符。

「固定」

 霧花の白因刀が半月を描き、繭の一体を凍らせる。

 凛夜は釘を二本、珠と符の結び目へ滑らせ木槌で叩く。刻印が光り、繭が軸を崩す。

 迅牙が踏み込み、右爪で外殻を裂き、左爪で珠を掴む。平打ち一閃。珠が砕け、黒霧が弾けた。


 だが刻み師は止まらず、床そのものへ術式を転写し始めた。石面に血にも似た墨が走り、胎室全体がひとつの巨大な刻印に化けていく。

 霧花が顔を強張らせる。「ここを丸ごと因核にするつもり!」

 壁際の竹筒が震え、黒珠が共鳴する。室が巨大な胎盤となり、新たな器を一度に産み落とす計画だ。


 凛夜の心臓が大きく抜け、世界が半歩遅れる。石面の刻線すべてが一本の流路に見えた。

 囁きが沸く。

──怒りを貸せ、すべて焼け。

「借りない!」

 凛夜は釘を乱打した。流路の節を読み取り、刻印を連結して逆符に変える。響き合う珠の震えが釘頭へ集まり、白い閃光を走らせた。

「今!」

 霧花が白刃を突き立て、三秒だけ全刻線を凍らせる。迅牙が床を蹴り、刻み師へ爪を伸ばす。右で外袂を裂き、左で胸板を掴む。能面の裏、黒珠がむき出しになった。

 迅牙が五爪を束ね平打ち。澄んだ割裂音。能面が割れ、黒珠が霧散し、術式が沈黙した。


 室の灯が一気に暗くなる。竹筒の珠が光を失い、蜜が腐るように濁る。霧花が小走りで一つを割り、中の因を外へ逃がす。

「魂が戻る前に珠を浄めておくわ」

「手伝う」凛夜は膝をつき、一つひとつ釘で囲い亀裂を入れていく。珠は脆く砕け、濁った因が白霧へ散って消えた。


 迅牙が能面の残骸を翻すと、襟に因研究局の紙札が貼られていた。

「黒因派に協力した局員か、あるいは局が直接刻み師を用意したか」

 霧花が眉を寄せる。「写しが本所に渡ったあとで、すぐ破封の準備を進めたんだ」

 凛夜は能面の割れ目を見下ろす。白磁の内側は真黒で、泣き穴のような空洞が覗く。怒りと悔しさが胸に絡むが、喉の熱は小さく震えるだけだった。



 胎室の最奥に木箱があった。封に使う刻印釘の束、古い巻物、そして錆びかけた銀製の鍵。巻物を火に透かすと、百年前の封士が残した補陣図と注釈が現れた。

「第二封陣を抜けば、井戸の封は再び揺らぐ。だが併せて竜脈の淀みを焼け、そう書いてある」霧花が指で縁をなぞる。「焼く方法は……釘で龍脈を『剥がす』とある」

 凛夜は鍵を握り、胸の箱を撫でた。「剥がした因を何で受け止める?」

 沈黙。

 迅牙が重い声で言う。「黒刀しかないな」

 霧花が顔を強張らせる。「借りたら……」

「借りない」凛夜は首を横に振る。「鍵だけで十分だ。黒刀は抜かない。俺が封を剥がし、釘で受け止める」

 霧花は胸の前で白鞘を握り、深く頷いた。「止める準備はできている」

 迅牙は爪を見下ろし、「砕く準備もだ」と呟いた。



 祠へ戻る梯子の途中、凛夜の心臓がまた半拍跳ねた。

──いずれ怒りは溢れる その時こそ

「その時までは俺のものだ」

 凛夜の返事に囁きは息を潜めた。


 地上の霧は陽の光を弾き、白銀にきらめいていた。封を守る最後の仕事が、いよいよ形を現し始めた。



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