夏音の裏アカ
「相沢くん。少し、話せる?」
朝の教室。
誰もがまだ眠そうな顔をしている中で、白石夏音のその一言は、やけに鮮やかに響いた。
静かなざわめき。
一瞬、クラス全体が固まったような気配の中ーー
俺・相沢悠真は、ゆっくりとうなずいた。
「……うん。いいよ」
彼女は何も言わずに廊下へ向かって歩き出す。
俺も後を追うように席を立った。
(やばい、やばい、やばい……)
心臓が変なリズムを打っている。
「相沢、覚悟しろよ」
そう小声で言ってきたのは、もちろん黒川凛。
“お前、いよいよ詰みかもな”みたいな目で見てるけど、こっちはとっくに腹を括ってんだよ……!
***
教室から少し離れた、図書室の横の静かな廊下。
「ごめんね、こんなとこ呼び出して」
「ううん。別に、全然……」
気まずさと緊張が入り混じる空気の中、夏音はしばらく黙っていた。
その目は、どこか遠くを見ている。
「ねえ、相沢くん」
「……なに?」
「相沢くんってさ、匿名の投稿って、どう思う?」
ドクン、と心臓が跳ねる。
なんだこの“探り”のような質問は。まるで……
(やっぱり、俺が“ウラトモの中の人”だって……気づいてる?)
「……うーん。まあ、匿名って便利だよね。本音も言いやすいし」
「そう。でもさ、本音って、誰かを傷つけることもあるよね」
「……うん、それはある」
「でも、それでも私は、ウラトモの中で、初めて“自分の言葉”で何かを話せた気がしてるんだ」
夏音の声は静かだった。けれど、芯がある。
「みんなが言いたいことを飲み込んでる中で、私は……」
彼女は、ポケットからスマホを取り出した。
「このアカウント、知ってる?」
そこに表示されたのは、
@nanonanonano
俺の知っている、あの“裏アカ”だ。
「私。これ、私なの」
知っている、とは言えなかった。
とりあえず俺は黙って頷いた。
「でも、もう誰かにバレてると思ってた。だって、誰かが……ううん。“あなた”が、私の投稿にずっと“いいね”を押してたから」
ぐぅ……!
俺、名前わかるアカウントでうっかり“いいね”押してた!?
夏音は、スマホの画面を閉じると、俺の目を見て言った。
「……ありがとうね、相沢くん」
「……え?」
「本当の私の言葉を、声を、ちゃんと読んでくれてたから」
(あ……)
なんか今、心臓、撃ち抜かれた気がするんだけど……!?
***
それから、俺と夏音は図書室のベンチで、しばらく言葉を交わしていた。
匿名の怖さ。
本音の重さ。
そして、自分の居場所について。
夏音は、自分の気持ちを少しずつ語ってくれた。
「私ね、いろんな人に“明るいね”とか“いつも元気でいいね”って言われるけど、そうしなきゃ怖かったの」
「怖い……?」
「期待されるのが怖かった。“白石夏音ってこういう子でしょ?”って、みんな決めつけるじゃない?」
「……うん。分かる気がする」
「でも、“ウラトモ”なら、自分で自分のことを語れた。本当の自分を」
俺は、彼女の言葉に頷きながら、心の中で思っていた。
(俺はただ、コードを書いただけなのに)
(でも、こんな風に“誰か”の救いになれたんだ……)
***
夏音は少し微笑み、遠くを見つめる。
「ねえ、相沢くん……」
「……なに?」
「私、ウラトモの中でだけど、自分の言葉が誰かに届くって、嬉しいんだ」
「……それは、たぶん……」
俺は言葉を探す。
でも、どんな言葉を返しても、軽くなりそうで怖かった。
「……相沢くん。ありがとう、なんだと思う」
「え?」
「私を見ててくれたから……私の声を、ちゃんと“読んでくれた”から、ありがとう」
夏音の言葉が胸に刺さる。
胸が痛い。
これは、嬉しいのか、動揺してるのか、自分でもよく分からない。
***
夜。
俺はひとり、自分の部屋で“ウラトモ”のサーバーを開いた。
投稿管理画面の裏側。
誰も見られないはずのログに、ひとつの投稿があった。
@nanonanonano:
「自分の声って、誰かに届くのかな」
@nanonanonano:
「伝えたくても、言葉が見つからなくて。でも、やっと書けた詩があるんだ」
そこから先には、まるで短い詩のような、切ない言葉が並んでいた。
「好き、って言葉より先に、
ありがとう、って言いたかった。
声に出すと、崩れそうだったから、
名前もつけずに、こっそり書いた。」
(……これが、夏音の“最初の投稿”か)
俺はそのログを、大事なデータとして別に保存した。
バックアップでも何でもない。俺だけの“記憶”として。
そして、夜中。
スマホに、また“彼女”から通知が届く。
@nanonanonano:
「きっと、あなたも“誰かの声”を救いたくて、この場所を作ったんだよね」
@nanonanonano:
「そして、誰かに救ってほしかったんじゃないかな」
@nanonanonano:
「私は、その誰かになれてるのかな?」
そんなの、なれてるに決まってるじゃん。
けれど、俺は匿名の“中の人”として。
その答えを黙って“いいね”で返した。




