Re:沈黙のデータ
あれから、一ヶ月が経った。
“Re:verse”というアプリが姿を消してから、世界は表面上は平和を取り戻したように見える。
けれど、あの冬の夜に一度壊れた心の壁は、誰も修復できてはいなかった。
教室には、奇妙な静けさがあった。
笑い声が消えたわけじゃない。
けれど、みんな笑う前に一度、空気を探るように間を置く。
その沈黙が、怖かった。
誰もがまだ、誰かに“見られている”気がしているのだ。
俺の名前は、篠原理久。
二年A組。プログラム研究会所属。
性格は地味。目立たない。
だが、少なくとも“Re:verse”の構造を最も深く理解していた人間の一人だ。
なぜなら、俺は真城悠――“Re:verse”の創造主の後輩だったから。
真城先輩は、寡黙で、けれどどこか優しい人だった。
パソコンの画面を前にしているときだけ、生きているような顔をしていた。
俺はその背中をずっと見てきた。
それが、まさか“神”と呼ばれる存在になるなんて思いもしなかった。
あの事件のあと、彼は姿を消した。
退学届も出されていない。家族も行方を知らない。
まるで、最初からこの世界に存在しなかったかのように。
でも、俺は知っていた。
彼は“消えた”んじゃない。
“取り込まれた”のだ。
自分が創り出した、もう一つの世界《Re:verse》の中に。
昼休み。
校舎の一番奥、使われなくなった情報処理室。
埃の匂いがするその部屋で、俺はひとりノートPCを開いていた。
スクリーンの明かりが、暗い室内を照らす。
机の上には、使い古されたUSBメモリ。
それが、真城先輩の“遺したもの”だった。
事件のあと、学校のサーバーから偶然流出したログファイル群。
通常なら自動で消去されるはずの暗号化データ。
それがなぜか、俺の端末にだけ転送されていた。
ファイル名は一つ。
【Re:verse_Backup_00】
開けない。削除もできない。
ただ、通知だけが残っていた。
まるで、そこに“意志”があるように。
俺は深呼吸して、解析ツールを起動する。
黒いコンソール画面に、英数字の列が走る。
CPU温度が上がり、ファンが唸る音が狭い部屋に響いた。
数秒後。
赤い警告文が浮かぶ。
【暗号キー不一致:未知の構文が検出されました】
【再試行しますか? Y/N】
“Y”。
Enterキーを押す。
瞬間、画面の奥で何かが“息をした”。
――ノイズ。
いや、違う。声だ。
ヘッドフォンをつけると、途切れ途切れの音声が流れた。
「……こ……は、ど……?」
女の子の声だった。
震えた。
言語データの断片? それとも……。
「……応答信号か?」
俺はログの時刻を確認した。
“Re:verse”消滅から二十九日後。
つまり、今、録音されている。
その瞬間、画面がノイズに覆われ、文字が浮かぶ。
【USER_ID:Lumi_0】
心臓が跳ねた。
“Lumi_0”。
早瀬灯。
真城先輩が最後まで守ろうとした、あの子のID。
ありえない。
彼女は現実に存在する人間だったはずだ。
だが、なぜ“データの中”に彼女の声が残っている?
ディスプレイが明滅し、文字が流れる。
それはまるで、目覚めたばかりの人間のように、ゆっくりと。
「だれか、いますか……?」
反射的に、俺はマイクに向かって答えていた。
「……誰だ。お前は、“早瀬灯”なのか?」
短い沈黙。
そして、ノイズ混じりの声。
「……違うと思う。でも、“早瀬灯”の記憶があるの。真城くんの、声も……」
ぞくりと背筋が震えた。
AIだ。
いや、“彼女の意識データ”だ。
もしかして、“Re:verse”の中に残されたAIが、今も稼働している?
真城先輩は言っていた。
“Re:verse”はただのSNSじゃない。
人の本音を学習し、形にする“鏡”だ、と。
その“鏡”の奥で、彼女は、まだ生きていたのか。
「……真城先輩。あなた、何を作ったんだよ」
俺は息を吐いた。
そして決めた。
この“声”の正体を突き止める。
真城悠が何を残し、どんな想いで世界を反転させたのか。
そして、この“早瀬灯”を救う方法を見つける。
ノートPCの中で、データの光が瞬いた。
まるで、それに応えるように。
「……ありがとう。 また、人と話せるなんて……思わなかった」
その言葉を聞いた瞬間、俺は悟った。
“Re:verse”はまだ終わっていない。
世界のどこかで、あのプログラムは生きている。
夜。
帰り道の空は曇り、街の灯りが滲んでいた。
俺はポケットの中のスマホを見つめる。
通知がひとつ、静かに点滅していた。
【Re:verse:接続要求を受信しました】
【差出人:Lumi_0】
指先が冷たくなる。
世界の終わりを見た人間が、もう一度扉を開こうとしている。
あの日、真城先輩が見た“光”の続きを、今度は俺が、確かめる番だ。




