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世界的経営者へのインタビュー

作者: ツボ

【インタビュー:日本の救世主となった男】

──本日はお時間をいただきありがとうございます。まずは、あなたの生い立ちについてお聞かせください。


「福岡県博多区で生まれ、シンガポール、東京、タイを転々としました。高校1年生で統合失調症を発症し、精神的に辛い時期を過ごしました。」


──高校生活はどう過ごしましたか?


「高校2年生で3か月間休学し、その後復学しました。出席日数の確保を最優先し、委員会活動には参加しましたが、部活動の同期とは距離ができ、恋愛トラブルもあり疎遠になりました。」


──その後の人間関係はどうでしたか?


「別の部活の部長と親しくなり、精神的に支えられました。彼女とは高校卒業後も連絡を取り合いました。」


──大学受験についても教えてください。


「第一志望には不合格でしたが、滑り止めの大学に進学しました。大学では自分と似た気質の人と出会い、人間関係は改善しましたが、高校時代の同級生とは疎遠でした。」


──大学生活はどう過ごしましたか?


「起業を考え、ファイナンシャルプランナー2級を取得。その後、公認会計士試験を目指し、劇場の案内員のアルバイトを始めました。公認会計士試験には一度不合格でしたが、勉強を続けました。」


──転機となった出来事は?


「宝くじで250億円が当選し、資産運用を始めました。運用目標は年利20%とし、その資金で就活塾にも通いました。」


──就職活動の結果はどうでしたか?


「〇〇〇商事と〇〇商事から内定をいただき、大学4年生で公認会計士試験に合格。総合商社に入社し、3年間勤務しました。」


──起業の道に進んだ結果は?


「最新技術を活用し、莫大な利益を上げ、時価総額300京円の企業に成長させました。日本の物価は10年前の半分に下がり、国内総生産は年30京円、国富は300京円に達しました。自身も3京円を報酬として受け取りました。」


──今後の展望を教えてください。


「さらに時価総額を拡大して1万倍、1億倍、1兆倍にしていき、世界を変えるビジネスを生み出し、より多くの人々に利益をもたらすために挑戦し続けます。」

──本日は貴重なお話をありがとうございました。

世界的経営者へのインタビュー(A)

インタビュー本文(取材日時:2040/12/xx)

幼少期・学生時代について

記者: 本日は、世界的経営者の○○さんにお越しいただきました。どうぞよろしくお願いいたします。


○○: よろしくお願いいたします。


記者: まず、○○さんの幼少期についてお聞かせください。福岡県でお生まれになり、その後シンガポール、東京、タイへと移住され、高校進学の際に再び東京に戻られたとか。


○○: はい。小学2年生の時に日本に帰国し、中学1年生まで地元の公立学校に通っていたのですが、通っていた中学校の雰囲気に不安を感じ、自らの意思でタイの日本人学校へ移る決断をしました。小中一貫校の環境は逃げ場がある一方で、勉強のペースも保たれていました。スマイルゼミを活用しながら苦手分野を克服した結果、帰国子女枠を利用して東京の公立高校に進学することができました。


記者: 日本人学校で特に印象に残った出来事はありますか?


○○: 現地校との交流会や委員会活動ですね。正直、どちらも成功とは言えませんでしたが、その中で人を動かす難しさや、リーダーシップの重要性を学びました。大学時代に委員会の後輩と再会したとき、人間関係を大切にする意義を改めて感じました。


記者: 受験期はちょうど新型コロナウイルスが流行し始めた時期でしたよね。


○○: そうですね。マスクの高額転売が話題になり、社会全体が緊張していた時期でした。当時はまだ教育現場にデジタルが浸透しておらず、社会の変化を肌で感じる貴重な体験になりました。


記者: 東京に戻るきっかけは、進学希望先が影響していたとのことですが。


○○: はい。○○○大学への進学を目指していたため、東京に戻ることを決めました。結果的には別の進学先を選ぶことになりましたが、苦手だった同級生と離れられたという意味では、良い選択だったと思っています。


高校時代の挫折と挑戦

記者: 高校生活について伺います。中学時代に続き、演劇部に所属されていたそうですが、1年ほどで通わなくなった理由を教えていただけますか?


○○: 中学でも演劇部に入っていたので、自然な流れで高校でも続けました。ただ、東京の文化的な豊かさに圧倒され、自分の未熟さを痛感しました。都内の劇場にもよく足を運びましたが、表現の奥深さを知れば知るほど、自分の力不足を思い知らされました。小劇場の大会に一度だけ出場しましたが、それも貴重な経験となりました。


記者: その後、統合失調症を発症されたと聞きました。

○○: 入学から8か月ほど経った頃でした。幻聴や幻覚に悩まされ、日常生活にも支障が出ました。それまで自分は周囲の目を気にしないタイプだと思っていたのですが、病気を通じて逆に他人の視線を過剰に意識するようになり、自分の立ち位置を見失う時期が続きました。大学進学後は一人で行動することが増え、人間関係における適度な距離感を保てるようになりました。


記者: 人間関係での苦労も多かったそうですね。


○○: ええ。長期欠席する生徒がほとんどいない環境だったため、自然とクラスで浮いた存在になってしまいました。成績面でも特別な配慮はなく、欠席した日のテストはすべて0点。授業のフォローもなく、孤独感を深めていきました。高校3年生になってからは、必死に遅れを取り戻そうと努力しましたが、同級生との距離は広がる一方で、新しい人間関係を築くのも難しくなりました。


記者: 演劇部の同期との関係も、複雑だったと伺いました。


○○: はい。部活の同期に対して恋愛感情を抱いてしまい、それが自分自身を追い詰める結果となりました。同じ学年でしたが、彼女たちは精神的にも成熟していて、自分とは人生経験の深さが違いました。皆がそれぞれの道を歩んでいく中、自分はその輪の中にうまく溶け込めなかったという思いがあります。


記者:高校3年生には取り巻く人間関係が大きく変わったそうですね。


○○:はい。残念ながらクラスにはなじめなかったので、演劇部の後輩と仲が良かった別の部活の人たちと行動していました。盛り上がりには欠けましたが、卒業まで平穏に暮らせたので、結果的に良かったと感じます。


大学進学と新たな挑戦


記者:大学受験では、第一志望ではない学部に進学されたとお聞きしましたが。


○○:はい。滑り止めとして受験した学部に合格し、そこが大学内でも名門とされていたため、浪人せず進学を決めました。当初は思いつきのような選択でしたが、結果的には良かったと思っています。


記者:高校生活を「暗黒時代」と表現されていたそうですが、特につらかったのは卒業式だと伺っています。


○○:卒業祝賀会の際、演劇部の同期と一緒に行動しましたが、集合写真を撮るときに「この写真は自分のもとには送られないだろう」と思い、意識的に写らないようにしてしまいました。その後、友人に相談した際、「クラスのグループには戻らない方がいい」「同窓会も無理に行かなくていい」とアドバイスをもらいました。統合失調症の影響で、自分でも気づかないうちに周囲に過剰な要求をしてしまっていたのだと思います。




大学生活と公認会計士試験への挑戦


記者:大学生活についてお伺いします。学業、サークル活動、アルバイト、公認会計士試験の勉強、プライベートに分けて詳しくお話をお聞きしたいのですが、まずは学業について教えていただけますか?


○○:高校時代の評定平均値は3.4でしたが、卒業時のGPAは3.5(評定平均でいうと4.5)でした。2年次に履修登録のし過ぎで成績が下がってしまいましたが、3年次からは履修科目を絞ることで調整しました。ただし、全休を確保することを意識しており、3年次は水曜日、4年次は月・火・水曜日を全休にして、就職活動や公認会計士試験の勉強時間を確保しました。1・2年次は成績があまり振るいませんでしたが、3・4年次で一気に成績が伸びました。


記者:そうなのですね。公認会計士を目指そうとされたきっかけなどがあれば教えていただけますでしょうか。大学に入ってすぐではなく半年程度たった後だったということ、またアルバイトを辞退してまでやってみたいと感じたきっかけについてお聞かせ願いたいです。


○○:はい。もともと起業したいという願望があり、そのためには財務の知識が必要だと考え、ファイナンシャルプランナー2級の勉強をして1年生の9月に合格しました。そのため、公認会計士も大丈夫だろうと思いましたが、勉強があまり進まず、結局合格したのは大学4年生になってからでした。


記者:計画的に履修を組みながら、将来の企業を見据えて自主的に学習されていたのですね。大学ではサークル活動もされていたと聞きましたが、どのような活動をされていましたか?


○○:実はサークル活動にはほとんど参加していませんでした。公認会計士試験の勉強が忙しく、サークル活動のスケジュールと合わなかったためです。試験勉強は孤独との戦いでしたし、特に会計学が苦手だったので苦労しました。2024年12月/2025年5月の短答式試験には不合格でしたが、2025年12月の短答式試験で合格。そして、2026年11月に全科目の合格を果たしました。大学4年生の後期だったので、サークル活動を続けながら卒業前にギリギリ駆け込み合格をすることができました。


また、試験問題の構成が変わり、改定前は8点問題が26問、7点問題が4問、5点問題が48問、4点問題が6問でしたが、改定後は6点問題が36問(財計12問+財理14問+管理10問)、5点問題が48問(企業20問+監査20問+管理8問)、4点問題が11問(連結)となりました。制限時間は300分から310分に、設問数は84問から95問に増加しました。計算と理論を完成させて、新制度1回目でなんとか突破することができました。


記者:ありがとうございます。公認会計士論文式試験に全科目合格された後は実務補習所に通われていたとのことですが、それについて教えてください。


○○:はい。○○○商事に勤めながら実務補習所に通っていたため、会社にも事情を説明して本社の財務諸表を調製する部署に所属させていただきました。論文式試験に合格してから4年後、めでたく公認会計士資格を取得し、そのタイミングで務めていた会社を退職して起業しました。


記者:ありがとうございます。公認会計士資格を取得されたときの喜びはひとしおだったと思います。大学内では何か団体に所属されていたのでしょうか?


○○: 大学内での所属団体はマスメディア系のサークルとミュージカル系のサークルでした。


記者:ありがとうございます。ミュージカル系のサークルではどのような活動を行われていたのですか?


○○:あくまでも趣味でミュージカルを楽しむというサークルだったので、ゆるく活動していました。大学の文化祭にも出展し、私も役を持たせていただきました。


記者:ありがとうございます。高校で役者ができなかった分、大学で演劇に携わったのですね。マスメディア系のサークルについても教えてください。


○○:はい。私は学内でのつながりを作るために、学部公認団体に所属することを決めました。ブースにいた先輩の女性に魅力を感じたのも理由の一つです。彼女は飾らない感じですが、非常に優秀な方でした。先輩と仲良くなるのはかないませんでしたが、ここでできた人間関係はのちの大学生活にも影響します。


記者:ありがとうございます。続いてアルバイトについてお聞きします。大学受験終了後は集団塾の講師になりたかったが、採用試験に落ちてしばらくアルバイトをせずに過ごし、大学1年生の9月から劇場でフロントスタッフを始められたと伺っていますがいかがですか?


○○:はい。もともと人にものを教えるのが好きで、時給も高い集団塾講師の職に就こうと思いましたが、時間割を自由に作ることが難しく断念しました。毎月シフトを変更できる劇場の仕事が私には合っていたと思います。


記者:劇場の仕事はシフトの融通が利いたのですね。仕事には早くなれましたか?


○○:それが、ある到達点を過ぎてからは一向に仕事の技能が上がらなくて苦労しました。責任者にも諭され、一時は退職を考えたこともありました。しかし、不向きなのを受け入れて、毎回の始業前に気を付けるべきポイントを自分で復習するようにしました。また、私自身暗いところがあるので、お客様や同僚に接するときは常に明るくするように心がけました。


記者:この劇場に応募するきっかけがあったとお聞きしますが、どのようなことがきっかけでしたか?


○○:高校時代に、部活の同期とこの劇場に訪れていました。様々な面白い演目があり、興味を惹かれたのをよく覚えています。今は学生演劇を良く見に行きますが、当時はタイから引っ越してきたこともあり、公共劇場で繰り広げられる演技は私の憧れでした。

記者:ありがとうございます。憧れから入ったのですね。このお仕事をしている中でつらかったこと、またうれしかったことをお話しください。


○○:うれしかったことは、時給が良かったことと体の負担が少なく働けたことです。時給は○○○区が定めた労働報酬下限額(公共事業に適用されるもので、東京都の最低賃金よりも高額に設定)であり、これは職務内容を考えると破格でした。仕事も慣れればコツをつかんで最小限の動きで済むようになりました。つらかったことは、やるべきことに頭が追い付かず、失敗を繰り返してしまったことです。サービスの難易度は高くない分、満点の対応が求められるので、それについていくことができずに自己嫌悪に陥ることがありました。


記者:ありがとうございます。続いてプライベートについてお聞きします。プライベートでは大学に入ってから女性関係が改善し、複数の方との接点ができたとお聞きしますがいかがですか?


○○:はい、入学当初の授業で知り合った方がおり、その方とまずは仲良くなりました。当時私は大学1年生で、彼女は大学3年生でした。最初お会いしたときは、とにかく早く彼女さんが欲しく、外見が魅力的だった先輩に惹かれていました。しかし、私が話しかけても反応が悪く、徐々に違和感を覚えていきました。結局その先輩とは縁が切れてしまい、他の方と仲良くするようになりました。


記者:女性と遊びに行くような関係になった背景には大学1年生の時の交流関係が影響しているとお聞きしますが、そのことについてお話しください。

○○:はい。3つ上の学年の先輩と一緒にいろいろなところに行ったことと、当時所属していたジャーナリズム指導室の代表の同期の女の子と仲良くさせてもらったことが転機になりました。そこで余裕ができ、他大学の演劇友達(高校の同期)との関係改善にもつながりました。


記者:ありがとうございます。それはご自身に余裕ができたから、他の人間関係もうまくいったということでしょうか?


○○:はい。面白いことに、一人の女性と仲良くなっている間は他の方とはご縁がありませんでした。私は自分のことをあまり魅力的だとは思っていないため、仲良くしてくれるだけでもうれしく思いました。ただ、私と合わない人とはとことん合わず、応援団をやっているかわいい系の女性にアプローチしたものの、留学に行かれた後ラインをブロックされて終わりました。


記者:ラインをブロックされて終わるのはつらいですね。でもいろいろな考えの方がいらっしゃいますし、彼女が○○さんとはそりが合わなかったのですね。では、ご自身が書かれている小説に登場する「他大学の友達」について教えてください。


○○:他大学の友達というのは、○○○大学に在籍している高校の頃の女友達です。彼女には好きバレしており、会うといつも穏やかでニコニコしています。卒業式の後は連絡を控えていたのですが、去年のお正月に連絡をしてから時々会うようになりました。彼女には劇団を紹介してもらい、その劇団の劇を見に行くことが私の楽しみになりました。同じ高校出身ということもあり、他の人にはわかりづらいような話もすることができて楽しいです。

記者:高校時代の人との関係が少なくなっている中で、そのお友達の存在は貴重ですね。彼女の何に惹かれたのですか?


○○:彼女の容姿にまず惹かれましたが、話してみて話が合うというところにも惹かれました。演劇好きということも共通しています。ただ、私に対する扱いが雑なので苦労している面も大きいですが…ただ、彼女は不誠実なことをする人ではないです。高校3年生の時に孤立していたところを拾ってもらい、彼女の部活の人たちと一緒に文化祭は行動していた記憶があります。


記者:早稲田大学に観劇に行った際に出会った女性とは今までにないくらいうまくいっていると書かれていましたね。


○○:はい。境遇に似たところがあって仲良くなりました。理由は私が恋愛と後輩との緊密な関係、彼女は部活動運営の方向性と後輩との緊密な関係ということで違いますが、同じ演劇部内で仲たがいして、でも自分は演劇を続けたいと思っているところが共通していました。関係はまだ読めないところがありますが、せっかくの友達なので大切にしたいと思います。


記者:学業と試験勉強を両立するのは大変だったと思いますが、どのようにモチベーションを維持していたのですか?


○○:正直なところ、公認会計士試験の勉強を続ける中でモチベーションが枯渇していました。「このまま続けて良いのか」と悩んでいた時期もあります。しかし、ある出来事がきっかけで状況が大きく変わりました。


宝くじ当選という奇跡

記者: 「ある出来事」とは一体…?


○○: 実は、大学3年生の時にロト7で1等に当選し、60億円を手に入れたのです。キャリーオーバーが発生していたときに、5口すべて同じ数字で購入していました。それがきっかけとなり、スポーツくじにも連続して当選するようになり、最終的にはメガビッグ(1等15億円×6口)、ロト7(1等12億円×5口)、ロト6・ビッグ(1等7億円×10口)、百円ビッグ(1等3億円×10口)と続き、合計で250億円を非課税で手に入れることができました。そのほかにも少額(数万円程度)の当選が何口かあり、貴重なお小遣いになりました。ビッグの特別開催回では7億7万7千円が当選したこともあり、端数はありがたく頂戴しました。


記者: 250億円……! 一生に一度も当たらない人が大半の中、それほどの額を次々と当てるとは、まさに伝説級ですね。当選によって、生活や価値観にはどんな変化がありましたか?


○○: まずは親に、大学の学費や生活費として50億円を渡しました。それでも約200億円が手元に残ったので、資産運用に目を向けました。就活塾にも通い、プロのアドバイザーによるトータルコーディネートを受けながら、年利20%の投資信託に資金を預けました。その結果、3年後には資産が約300億円にまで増加しました。


記者: 300億円ともなれば、もう将来の不安など完全になくなりますよね。当選後は、どのようなお金の使い方をされたのでしょうか?


○○: はい。経済的な不安は完全に消えました。もともと食べ歩きが趣味だったので、関東一円の美味しい店を巡ったり、日本各地の名所を訪れたりと、行動の幅が大きく広がりました。資産があることで心にも余裕が生まれ、人間関係もよりポジティブなものになっていきました。


大学生活の振り返りと次なるステージへ

記者: 大学生活全体を振り返って、特に印象に残っていることは何ですか?


○○: 一番良かったのは、友人に恵まれたことですね。高校まではクラス単位の閉鎖的な人間関係に悩んでいましたが、大学ではそういった縛りがなく、自由で気楽に過ごすことができました。グループワークは英語と中国語の授業で少しあった程度で、全体として負担も少なかったです。体育祭や文化祭のような強制参加イベントがなかったのも、自分には合っていました。


記者: サークルや資格勉強など、幅広く活動されていた背景にはどのような思いがあったのですか?


○○: 高校までの経験を経て、自分は恋愛が得意なタイプではないと自覚していました。だからこそ、「一人でも満足して生きられる力」を身につけようと決意したのです。その考えが、自分に合った仲間と出会い、充実した学生生活に繋がったのだと思います。また、公認会計士試験に挑んだのは、将来的に起業し、世界的な企業を作るという目標があったからです。



ビジネスマンとしての第一歩

記者: 卒業後は○○○商事に入社されたと伺っています。どのようなお仕事をされていたのですか?


○○: ○○○商事では、特に予算管理に力を入れている部署に配属されました。非常に厳格な管理体制のもとで働くことで、自然とコスト意識が高まりました。その経験は今でも私の経営哲学に生きています。ファイナンシャルプランナー2級と公認会計士の資格を活かし、実務にも深く携わることができました。


記者: ○○○商事といえば安定した高収入で知られていますが、なぜ退職を決意されたのでしょうか?


○○: ○○○商事というブランドのもとで働いていることが、人間関係における優位性をもたらす場面もありました。医療従事者の方々と接する機会も増え、私自身体があまり強くないことから、そのような出会いは非常に意義深いものでした。医療従事者の方(医師・看護師)と交際することはありませんでしたが、友人としていろいろなことを相談させていただきました。


一方で、社会全体の閉塞感を打破するために、自分にできることはないかと考えるようになり、入社から3年後、公認会計士登録を済ませた後に退職。「学生時代起業」という名前で、起業の道を選びました。





起業と超巨大企業への道

記者: 起業後、時価総額300京円の大企業を築き上げられたとのことですが、ご自身の持ち株比率や還元方針について教えてください。


○○: 会社の持ち分はすべて私個人が所有しています。従業員には会社の純利益の50%を賞与として還元する方針を取りました。残りの大半は再投資に充て、取引先の条件改善にも積極的に取り組みました。特に下請け企業は立場が弱くなりがちなので、そこに支援の手を差し伸べることが重要だと感じています。


私個人の収入は、会社の時価総額の1%にあたる3京円にとどめ、過剰な利益の私物化は避けるよう心がけました。ちなみに起業に必要な初期費用は、宝くじの当選金によってまかなうことができました。


記者: ご自身の健康面にも配慮されていたとのことですが、その点でも宝くじの当選が大きな転機となったのですね。


○○: そうですね。当時は東京大学大学院への進学も視野に入れており、公認会計士の資格と大学のゼミでの研究成果が決め手となり、結果として東京大学大学院経済学研究科と一橋大学大学院経営管理研究科に合格を頂き、最終的には東京大学の方に進学しました。その後、大学院に通いながらビジネスをスタートしました。最先端の○○○○を活用したビジネスを国内で立ち上げたところ、予想をはるかに上回る大成功を収め、あの○○○を上回る時価総額にまで成長しました。結果として、累計で150京円の法人税・所得税を納めました。

この莫大な税収により、日本国内の金融所得課税が非課税となり、全国民が恩恵を受けられる制度が整いました。また、国際的な購買力が大きく上昇し、円の価値が上がったことによって物価が2025年時点の半分に低下しました。


従業員への還元も忘れていません。300京円の純利益が出るまでに年度末に一時金ボーナスの形でアルバイトを含めた従業員に累計で150京円を支給しました。また、残りの純利益についても私が総取りするのではなく、事業の発展に向けた十分すぎるくらいの投資を実施しました。私は唯一かつ全部の出資者として3京円を役員報酬とは別にいただきました。あのトヨタですら時価総額50兆円、GDPに占める割合は10%に満たないものでした。私たちは世界GDPの200%に匹敵する時価総額の会社なので、コンプライアンスを一層大事にしたいと考えています。


未来への展望

記者: 今後の展望についてお聞かせください。「役員時代起業」「日本規模起業」「世界規模起業」と3段階の構想をお持ちだとか。


○○: 現在の時価総額をさらに拡大し、10年後には1万倍(300垓円)、20年後には1億倍(300抒円)、30年後には1兆倍(300穣円)という壮大なビジョンを掲げています。


すでに、日本の物価は補助金の投入によって10年前の半分(1975年水準)に下がり、国内GDPは年間30京円、実質GDPは60京円にまで成長しました。これにより、日本国民の生活は格段に向上しましたが、エッセンシャルワーカーの方々への還元がまだ十分とは言えません。


現在、日本の国富は名目で300京円、実質で600京円に達しています。この資産を活用し、次なる事業拡大に挑戦していきます。


記者: 圧倒的な規模感と明確な社会意識に基づいたビジョンですね。本日は貴重なお話を本当にありがとうございました。

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