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ⅡⅩⅨ

 錨を上げ、船が港を出る。 錨を引き上げながら桟橋を蹴ったジェイミーが、舵を握っているサリウスに「面舵です」と声をかけた。 するとサリウスが軽快な手つきで舵を回す。

 

「おお! これが面舵いっぱいか! 面舵いっぱーい! 面舵いっぱいだ!」

 

「お、お兄様? 突然どういたしましたの?」

 

 謎のテンションを見せる僕を見て、リューズが困惑の顔をしていたが、サリウスは意外とノリが良く、「ヘイ船長! 面舵いっぱいっすよ〜!」などと笑顔で答えてくれた。

 

 しばらくの間緩やかな波の上を揺られている。 心配だった船酔いも今のところ問題ない。

 

 サリウスは舵をいじりながら、度々手元でコンパスを見て舵を微調整しており、ジェイミーはマストの上に登って遠くの空を見たり、帆の角度を細かく調整したりと忙しなく動いている。

 

 僕とリューズは二人で手を繋ぎながら腰掛けていて、サリウスから借りた望遠鏡でそこかしこを見張っている。

 

「海しかないな」

 

「お兄様! わたくしも見たいですわ!」

 

「ああ、海か鴎しかいないけどな」

 

 僕は何食わぬ顔でリューズに望遠鏡を渡すと、中を覗いたリューズが嬉しそうに大きな口を開けている。

 

 海しか見えないはずなのに何故か嬉しそうな顔をするリューズを見て、僕は思わず頬を緩めた。

 

 が、視界の端に小さな一人用のヨットが見えたため、慌ててリューズから望遠鏡をひったくる。

 

「ちょっとお兄様! 何をするんですの!」

 

「あっちにヨットがあるぞ? 一人乗りだ」

 

 僕の声に反応したジェイミーが眉間にシワを寄せながら慌てて船の右側に駆け寄っていく。 柵から身を乗り出しながら左手を眉につけ、日光を遮るようにかざしながら目を窄める。

 

「サリウス、右舷から一人乗りのヨットが一艇。 こちらに少しずつ寄ってきてます」

 

「たまたまであることを祈りたいけどね〜。 一人乗りのヨットがこんな沖合で何をしているのやら」

 

「ストールおぼっちゃま、乗員は見えますか?」

 

 ジェイミーが慌てて僕の方に視線を向けるが、さっきから観察しているのに誰も乗っている気配がしない

 

「すまない、さっきからずっと監視しているのだが、人の気配すら感じないのだ」

 

「気配すら、感じないですか」

 

 意味深に呟いたジェイミーが突然大砲をヨットに向けた。

 

「ちょっとジェイミー! まだ一般人の可能性が……」

 

「一般人は風の流れを読みながらマストを操作しているはずです。 気配すら感じさせずにヨットを操作する一般人はいません」

 

 有無を言わさずマッチで火をつけ、大砲に引火させるとジェイミーは僕たちに耳を塞ぐよう指示をしてくる。

 

 慌てて耳を塞ぎながら力強く目を瞑る。 恐る恐る目を開きながら視線をヨットがあった方向に向けると、まだ無事に航海を続けているヨットが目撃できた。

 

「ちっ。 こんなもの、当てる方が難しいのです」

 

「ジェイミー伏せなさい!」

 

 大砲の性能に小言を吐いたジェイミーに、サリウスがただならぬ勢いで声を掛けるが、一瞬遅かった。

 

 ジェイミーの背中に袈裟がけの真紅の線が走り、大量の血液が噴射された。

 

「くっ!」

 

 反射的に太ももに装備していたダガーを振りながら、背後に現れた謎の相手を切り付けようとするが、ジェイミーのダガーは空を切った。

 

 たった一瞬だが、ジェイミーの背後に黒い外套を纏った男が確認できた。 あいつは間違いない、離宮から脱出してきた時に襲ってきた殺し屋だ。

 

「きゃあぁぁぁぁぁ! ジェイミー!」

 

「リューズ、僕の後ろに!」

 

 僕は錯乱してしまったリューズを抱き寄せながら周囲に目を配ろうとしたが、背後にただならぬ悪寒を感じる。

 

「——獲った」

 

 低く、地獄の底から湧き上がったような怖気の走る声音。 思わず足が凍ったように動かなくなり、全身から不自然なほど冷や汗が噴き出した。

 

「獲らせるかっつーの!」

 

 僕の首の真横で金属音が響く。 同時に僕とリューズは怪我を負ったジェイミーの方に投げ飛ばされた。

 

「ジェイミーをお願い!」

 

 黒外套から一瞬も目を逸らさずに指示を送ってくるサリウス。 うつ伏せに倒れ伏していたジェイミーの怪我を見ると、肉が見える深さまで切られた裂傷が痛々しく血と熱を放っている。

 

 リューズは子犬のように震えながらその場にへたり込んでしまう。 僕は慌てて懐にしまっていた水筒を取り出し、服の袖を破って水をかけた。

 

「止血をする! この場合は圧迫止血だよな?」

 

「は、はい。 申し訳ありません、ストールぼっちゃま」

 

「喋るなバカもの!」

 

 僕は水で濡らした布をしっかりと絞った後、ジェイミーの背中に押し付けて圧迫止血を開始する。 鼻につく鉄の香りと、両掌から伝わってくる高熱。 サラサラとした鮮血が指の隙間から滴っていくのを見て、思わず顔を顰める。

 

 出血量が多すぎなのでは? すぐに港街に引き返してジェイミーの傷を見てもらった方がいいのでは? そもそもあの黒外套はいつ沸いて出たのだ?

 

 何もできない自分に腹が立ち、奥歯を軋らせる。

 

 すると突然、隣でへたり込んでいたリューズがゆっくりと立ち上がり、鬼気とした目つきでサリウスと戦闘中の黒外套を睨みつける。

 

「どうしてこんなことをするのです? ジェイミーは、わたくしたちのために様々なことをしてくれたのに。 あなたの狙いはわたくしたちのはずです。 ジェイミーを傷つける必要なかったでしょう!」

 

 ぎゅっと握りしめている右拳がわなわなと震え出す。 ただならぬ気配を感じ取り、僕はジェイミーの傷を圧迫しながら声を上げる。

 

「リューズ落ち着け! サリウスの足を引っ張る気か!」

 

「落ち着くのはお兄様の方です! わたくしたちは、毎日のお稽古でリューズやファエットから戦いの知識を学んできたのです! ド素人ではありません! 数の利を生かして攻めずにどうするのですか!」

 

 完全に周りが見えなくなっている。 僕は額から溢れる汗を拭う余裕すら失い、ギョッと目を見開いた。

 

 まずいまずい。 サリウスはなんとか黒街灯の攻撃を凌いでいるが、昨日見たジェイミーと黒外套の戦いに比べると展開が一方的すぎる。

 

 サリウスはなんとか相手の攻撃をいなす程度、綱渡りのような防御しかできていない。 このままではサリウスまで切り伏せられるのも時間の問題。

 

 そうなれば次は僕とリューズ。

 

 だけど、ジェイミーやサリウスが敵わない相手に僕が勝てるのか? なんの変哲もない凡人である僕なんかが……

 

「ストール、ぼっちゃま。 あなた様は、凡人なんかではありません。 離宮から脱出する際、あなた様の咄嗟の判断と並々ならぬ勇気のおかげで、我々は脱出できたのですから」

 

 弱々しく声を上げてくるジェイミーの声を聞き、僕は苦悶の表情を浮かべる。

 

 なんせ、ここは海の上、近くに魔物なんていやしない。 望遠鏡で探すか? だめだ、見つけたとしても魔物をここに呼ぶまでに時間がかかってしまう。

 

 どうすれば、どうすればいい!

 

 極限状態の中で、すがるような瞳をリューズに向けると、静かに深呼吸をする彼女の後ろ姿を目の当たりにする。

 

 そこで、僕はスーッと脳裏に一つの可能性が浮かび上がった。

 

 絶眼は、絶対的な力を持った特殊な力だ。 僕のような剣の腕もひよっこな男でも、大群を退けるほどの力を、騎士たちから逃げ切ることすらできる程の力が備わっている。

 

 ——無論、僕の妹であるリューズにも。

 

「ジェイミー、ナイフを借りますわよ」

 

 リューズはジェイミーの太ももについていた革バックの中から数本の投げナイフを取り出すと、両手に三本ずつ、指の間にナイフを挟んで顔の前で交差させた。

 

「今まで何度も弓の稽古で的当てをしてきたのです。 今回の的は、少しヒョロ長くて素早く動くだけですわ」

 

 獲物を狙う狩人のような、鋭い瞳で黒外套を睨んだリューズが両腕を勢いよく振った。 六本の投げナイフが黒外套に目がけ、歪な軌道を取りながら接近していく。

 

 サリウスと鍔迫り合っていた黒外套は何食わぬ顔で背後に下がったが、そこで初めて異常な光景を目の当たりにした。

 

「——っな!」

 

 黒外套から思わずと言った声が漏れる。 背後に飛んでかわしたはずのナイフは、全て直角に軌道を変えて黒外套を追っていったのだ。

 

 無理な体勢から回避行動をとった黒外套は慌てて青龍刀を振るが、まるで意志を持ったように斬撃をかわす六本の投げナイフ。

 

 飛び出んばかりに目を見開いた黒外套の身体中に、リューズが放った投げナイフが全て命中し、黒外套が苦悶の声を上げる。

 

 ありえない光景を目の当たりにし、サリウスと僕は口をあんぐり開けながら黒外套を凝視する。

 

 リューズは静かな闘志を宿した瞳を黒外套に向け、二射目の投げナイフを六本構えた。

 

「わたくしの大切なメイド……いえ。 親友に傷をつけた罪、万死に値しますわ。 蜂の巣にしてあげますので、覚悟はよろしいですか?」

 

 リューズの絶眼が、ここで判明する。 疑う余地もないほど万能な力。

 

 対象を視界に入れている限り、彼女の攻撃は必ず当たるよう軌道や角度を操作されるという戦闘特化の異能力。

 

 必中の絶眼。 飛び道具以外にも作用するのだろう、以前僕がリューズと稽古をした時、剣先が不自然に曲がったのを見た。 あの絶眼が相手を捉えている限り、リューズの攻撃は必ず当たる。

 

 その力を込めて投げられたナイフを全身に喰らった黒外套は、口角からサラリと血を垂らしながら油断なくリューズを睨みつけた。

 

「面倒だ」

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