2
姫君の大胆な試みはうまくいき、彼女は無事に中庭に面した回廊の端までやってきました。
満月ではなかったものの、その日の空もよく晴れて、澄みわたった星月夜。
ひろがる中庭を見回せば、庭園の花壇や低い灌木の列が、ほのかに浮かび上がって見えています。
灌木のかたわらで警備につくランスの姿も、すぐにとらえることができました。
月明かりの下の若者を、エセリアはしばらくの間、そっとみつめていました。
彼の胸やおなかは軽そうな革鎧で守られていますが、背中をおおっているのは、なめした革のようにも見える骨ばった大きな翼。
異形と呼んでさしつかえないその形状が、先日はエセリア姫の目を釘付けにしました。
そのときは少しこわいと思ったのですが……いえ、再度眺めてみても、やはり同じ思いでしたが──。
にもかかわらず。
魅入られたようにみつめながら、エセリアはいつしかこう思っている自分に気がついたのです。
月の光をしとどに受けて、なめらかな銀に艶めくその両翼が、とても美しいと。
そのとき、ふっと衛兵ランスが振り向きました。
エセリアを見ても特に驚かなかったところを見ると、彼女の気配をすでに察していたようです。害をなす侵入者ではないと思い、すぐには反応しなかったのでしょう。
彼はおもむろに近づいてきましたが、そのあとかけてきた言葉は、けして礼儀正しいとはいえませんでした。
姫君に対して敬語も使わず、夜中に出歩く危険さをずけずけ注意したのですからね。
エセリアは彼の言い方にびっくりしましたが、ひるみはしませんでした。夜の城内をうろつくなんて無鉄砲なふるまいは、注意されてもしかたがなかったからです。
そこで彼女は、みずから中庭におりると、自分がここに来た理由を伝えました。感謝と謝罪の言葉を、心をこめて伝えたのでした。
蝙蝠族の衛兵は、今度は驚きに目をみはりました。それを言うためにわざわざ姫君が出向いたことが、信じられなかったようです。
けれど、その驚きが彼の心を動かしたのでしょう。次に口をひらいたときは、きつかった口調が少しおだやかになっていました。
彼は静かな調子で、姫の命を救ったのは衛兵として当然であること、白い翼の白鳩族が蝙蝠族を奇異に思うのも無理ないことを語りました。
じろじろ見たからといって気にすることはないと、とても淡々とした声で告げました。
それから、夜中にひとりで歩くなんて本当に危険だからやめてほしいと、こちらは力をこめてつけ加えました。
彼の言葉遣い自体は、最初と同じようにぶっきらぼうなものでした。
けれどエセリアは不思議と嫌ではないばかりか、かえって彼の誠意を感じたのです。単なる礼儀作法で言っているのではないことが、よくわかりましたから。
最初は緊張したけれど、向かい合って話してみればそんなにこわくありません。それどころが、とてもいい人のような気がします。
手柄をひけらかさない謙虚さと、白鳩族の非礼を許してくれる寛容さ。
夜歩きしている姫君の身を心から案じる、不器用なやさしさ。
この夜、エセリアがランスから感じ取ったのは、このような彼の人柄でした。
加えて、彼が自分とさして変わらぬ若さだったこと、兵士にありがちな威圧感がなく、たたずまいが意外なほど静かだったことも、彼女の興味をひきました。
すると、どうなったでしょう。
やめてほしいと言われたにもかかわらず、エセリアは翌晩、またもや部屋を抜け出し彼をたずねてしまったのです。
次の晩も。その次の晩も。
そうして会えば会うほど、彼女は蝙蝠族の若者に惹かれていくのでした。
こんな逢瀬が何度も成り立ったのには理由があります。
城内の夜間警備を担う蝙蝠族の仲間たちが、それぞれの持ち場から、エセリア姫の移動を見守ってくれたのです。
彼らはみんな、蝙蝠族に興味をもった姫君のことをうれしく思っていました。
また、エセリアが寝室を抜け出すときは、部屋付きの侍女が協力してくれました。若い侍女はあるじの想いに共感して、留守がばれないよう準備してくれたのです。
こうしてエセリアとランスは、短い時間ながらも逢瀬を続けることができたのでした。
会っている間、ふたりはいろいろな話をしました。
ランスは無口な性格でしたが、エセリアが問いかけることには嫌がらずにこたえます。
たくさんの旅をした末にお城に雇われた彼は、求めると旅の様子をたくさん聞かせてくれました。
夜の旅です。
月と星に守られた、エセリアが見たこともない景色です。
たとえば真夜中だけに集まる天馬の群れ。たとえば天のかがり火にもたとえられる、たくさんの流れ星──。
エセリアはそれらの話をうっとりと聞き、語る彼の声をうっとりと味わい、間近に彼をみつめて、その瞳が澄んだはしばみ色をしていることを知りました。
魔物を討ったときにはあんなに強かったのに、繊細な少年みたいな影がある人だということにも気がつきました。
この人のことをいままで知らなかったなんて信じられない。エセリアはそう思いました。
だって、彼はお城の敷地内の北の塔に住んでいたのです。そうしていつも、夜な夜な城を守っていてくれたのです。
彼だけでなく、ほかの蝙蝠族の衛兵たちもみんな。
そんな人たちのことを、よく知りもせずに避けていたなんて。
蝙蝠族が日光に弱いことは以前から知っていたので、エセリアは彼を昼間の時間に誘おうとは思いませんでした。
そのかわり、自分のほうが夜の時間に暮らせばいいのではないかということは考えました。
そうすれば、いつでもランスといっしょにいられるのですから。
それはエセリア姫が生まれてはじめて知った、まぎれもない恋でした。
そんな彼女の恋心を、周囲が受け入れてくれたでしょうか。
この国の女王である母が、愛娘のそんな恋心を許したでしょうか。
残念なことに──答えは否です。
まあ当然ではあるのです。
陽ざしをあびてすこやかに育った美しい姫に、夜の世界で生きたいと言われて許す親はいません。
相手が衛兵であるだけでも、身分差がはなはだしいというもの。それがよりにもよって蝙蝠族とは。
そこで女王は決断します。かねてから話があった縁談を、娘にすすめることにしたのです。
まずはかたちだけでも婚約を。そして娘が迷わぬうちに婚礼を。
お相手に選ばれたのは、次期伯爵として人柄も才能も申し分なかったシャイン卿です。
両家の間で、話はまたたくまに進んでいきました。
そしてエセリアは、そんな波のなかで呆然とするばかりなのでした。