閑話「ボディガードの一日」
閑話は読み飛ばしても大丈夫です。基本的に登場人物たちの小話となっております。
閑話「ボディガードの一日」
大会を目指すでもなく強くなりたいわけでもなく純粋にやることがないという理由で実家の道場で学んだ結果格闘技が一通りできるようになった以外、これといった特技も趣味も持たぬままこれまで山なく谷なく生きてきた男マドルク19歳。
そんな彼がホットシルバージムのインストラクターから異色の職業であるボディガードに転職してそろそろ一年が経とうとしていた。
「さてと」
マドルクは自室の衣装タンスからノートを取り出すと「机の足に掴まりながら机の角に向かってジャンプ。危うく頭を怪我するところだった」と書き足す。
いざという時に守るために護衛対象の突拍子もない行動をメモしてあるルル観察日記を閉じる。
彼が働いていたジムの経営者が有名サッカー選手ダンパーロの奥さんで、その子供が非常に珍しいアルビノの女の子だったので夫婦が娘のために戦えるマッチョを探していたのが始まりで。
マドルク自身は元々ボディガードの職を選ぶ気はまったくなかった。ただ単純に夫婦から提示された金額が良かったのだ。
鶏でも分かるくらい現職より給料も待遇も上がっていたのでルル専属ボディガードとして契約する話を受けた。ただそれだけだった。
その後は家族との同居に向けた準備や引っ越しのための荷造りにとトントン拍子に進んでいき、いざ護衛対象と対面で挨拶だとダンパーロ宅に出向いた日……
――マドルクの人生は今までの流されるだけのものからガラリと変わることとなる。
出会ったアルビノの少女を一言で表すとすれば宝物だろうか。マドルクが初めて見つけた宝物。
染められても色を抜かれてもいない艶やかな白髪は歩くだけでさらさらと揺れ、絡まることのない糸のよう。
小さな顔面積のほぼ全てを占めていた黒いサングラスが少々不気味だったが、彼女がそのメガネを外すと色褪せることのない鮮血が詰められたルビーと朝日を透かす青葉のようなエメラルドがキラキラと煌めき、マドルクの方をまっすぐ見つめて貫いた。
目と目が合った瞬間、自分はこれから生涯を尽くしてこの宝石を守るために生きるのだと悟ったマドルクは、現在夫婦の家に住み込みで働いている。
その忠誠心はインストラクターの頃からお墨付きでルーニャにもダンパーロにも大変信用されていた。
無意識に洋服の襟を正す。
その信用を裏切らないためにも彼は今日も気合いを入れて予想外の事態に備えるのだった。
「マドルク、ジムのインストラクターの仕事について少しいいかしら」
「社長改めルーニャさん。俺の今の仕事はお嬢様のボディガードですよ」
「それはそうなんだけどあなた、ジムにいた頃もお客さんからの人気が高かったでしょう?今回新サービスとしてインターネット配信で簡単なトレーニング指導を提供しようという話になってね。その新事業でもし良ければあなたの日々の柔軟やトレーニングを提供して欲しいのよ」
日記を書き終えて部屋を出たマドルクを待ち構えていた母ルーニャからの突然の提案に戸惑う。
「生放送ってまさか毎日ですか。確かに俺は欠かさず筋トレをしていますが晒せるようなものじゃないですよ」
「別に日課を写すほどの頻度じゃなくていいわ。ただ単純にインストラクターが実際にやっていることを知りたがる人が多いの。あなたほどの筋肉を持っている人ってなかなかいないからつい惜しくて話しちゃったわ。無理にとは言わないからお願いできないかしら」
己の筋肉を褒められて頭の中のマッチョが喜び答えに悩む。
護衛対象のルルがずっと家にいるため筋肉や格闘技が活きるような事態が発生せず、正直暇を持て余しているのは事実だった。
自宅警備員と化している時間を生かして更に稼げるというのであれば特に断る理由がない。貯金はあればあるだけ良いものだ。
「……。撮影くらいは構いませんが護衛任務優先ですよね?」
「もちろんよ!娘の方が大事だもの!ただでさえこの前のお出かけでオッドアイがバレて外が騒がしいしあなたの力を頼りにしているわ。よろしくね」
「はい!」
雇用主から頼りにしているとのお声をもらったマドルクはその分厚い拳を握り頷いた。
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支給されたカメラと脚立を壁沿いに配置しコードをノートパソコンに繋げて配信画面を開く。
ジム側の運営スタッフからいつでも開始していいという社内チャットが届いてから撮影ボタンを押したマドルクは軽く自己紹介と挨拶をしてから柔軟運動を始めた。
「それではゆっくりと筋を伸ばしながら息を吐いていきましょうー。あまり腰を落としすぎると逆に関節に負担がかかるのでほどほどに」
立ったまま右足を前に出して左足は後ろに。前の足にゆっくりと体の重心を乗せていき、ふくらはぎを伸ばす。
流れるコメントを読んで注意点を口頭で付け足しながらふくらはぎと太ももの筋肉をほぐすストレッチを行う。
カウントを10、時計の針よりも遅く数えていると……
ガチャ――
背後の扉が開いた。
「あれれぇマドルクなにしてるの?」
「スゥー……。チョちょっと、ちょっと待ってくださいねー」
手前の放送画面にアルビノの少女が映るよりも早くそこら辺に落ちていたタオルをカメラに被せる。
視聴者の視界を奪っている間に急いでルルを抱っこして部屋から出すも、チラリと確認したパソコン画面は時差でちょうどいまルルが映り込んでおりまさかのゲストの登場にコメント欄はお祭り騒ぎと化していた。
絶対社長に怒られる……。
そう頭では理解していたがついつい現実逃避してしまい何事もなかったかのようにトレーニング配信を再開し。
「でっでは足首のストレッチに移りましゅ」
再開したものの開幕早々噛み倒しその動揺を世界に晒すのだった。
「それではここからは筋力トレーニングに入ります。まずは簡単な腕立て伏せから始めていきましょう」
「いち、に、」
「さん」ガチャ――
「し?!」――のしっ。
終始噛みまくり放送事故だった柔軟運動が終了し本題の筋力トレーニングに移行したところで、まるで見計らったかのようなタイミングでやんちゃ娘は再び姿を現した。
イタズラな笑みを浮かべて背中の上に乗り、お馬さん!と叫んだルルはお尻をくっ付けたままゲシゲシと体格のいい男性の腹筋に蹴りを入れてきた。
そんな、あまり良いとは言えない子供の行動をやめさせるためまずはカメラを止めようと動くマドルクだったがそう上手くもいかず。
片腕で腕立て伏せのポーズを維持したまま、後ろ手を回して背から下ろそうとするが指先が触れる距離でするりと避けられる。
体をねじってヨガマットに落とそうともしたが、驚異のバランス感覚で波打つ男性の体に乗るサーファーがごとく居座り続けた。
このままでは埒が明かない。生放送もまだ切れていない。
仕方がないので背中に乗せたままおんぶで立ち上がると幼女はそれはそれは喜んだ。ただし自身の落下の危険も考えずにジタバタ暴れるので両手をルルから離すことができずカメラのボタンを押すことができない。
一旦コケないように慎重に腕立て伏せの体勢に戻り、相手の油断を誘う作戦に出ることにした。
「ごーろくーしちー」
「か、勝手に数えないで!ごー、ろく、なな…」
「ひゃくいち、ひゃくに」
「お嬢様数字が飛びすぎですよ!」
大好きなマドルクに遊んでもらえてただ純粋に嬉しいルルはキャハハキャハハと無邪気に笑い声を上げて大きな背中に抱きつく。
伝わってくる子供の体温は大人よりも高く彼の庇護欲をドカンと刺激した。
「マドルクっぎゅうぅぅ」
「お嬢様……」
自分の広背筋に猫のように頬ずりしてくるその姿は画面越しに見ても色褪せることなく大変可愛いらしいことだろう……が、護衛の仕事をしなくては。お嬢様を危険なネットにこれ以上晒してはおけない。マドルクは背中を揺らしてあやしながらチャンスを窺う。
「はち、きゅう、じゅうッ」
「わわっ」
キリのいいカウントのところで腕立て伏せの腕を一気に伸ばし背中を山なりに盛り上げると、上に乗っていたルルはバネのように飛び跳ねる。一瞬空中に浮いたルルを体を反転させてキャッチするとそのまま部屋の外へリリース。
使用人である彼の部屋の扉には鍵がないため、ここから説得をして部屋に入らないことに対し納得してもらわなくてはならない。でなければまた懲りずに入ってくるだろう。
「ほらお嬢様少しだけ向こうに行っていてください。この筋トレの生放送はお母様のルーニャさんから請け負った仕事なんですよ」
「むぅーぅそれってルルより大事?」
「まさか!お嬢様が世界でいや宇宙で一番大切で大好きですよ」
「んー……じゃあ、待ってあげるから後で絵本読んでくれる?わたしが好きな子ブタさんのやつ」
「もちろんですとも」
「ならいいよっ。だいじなおしごとがんばってね」
「はい。ありがとうございます」
ただでは引かずちゃっかり絵本の読み聞かせの約束を取り付けたルルはにっこりと微笑むと大人しく扉の向こうへ引っ込んだ。
したり顔に近い笑顔は会社の営業に成功した日のルーニャそっくりだった。
「では腕立て伏せをもうワンセット!」
ルルに大事なお仕事と言われてしまいやめられなくなり苦し紛れの大声で気合を入れ。パソコン画面上を高速で流れる大量のコメントは見なかったことにしたマドルクはトレーニングを再開した。
当然後でしっかり社長には怒られたし、きちんと待つことができたルルには絵本を二冊読んであげた。
その日のホットシルバージムのトレーニング生放送コメントの一部↓
『片目サングラスオシャレですね。特注ですか』
『耳の形父親そっくりで笑った』
『写真以外でアルビノ初めて見た。病弱だと思ってたけど思ったより元気なんだね』
『横を見るときの目つきが父親似』
『なんか、全然不倫の子じゃなくないか?むしろダンパーロ似じゃん』
『ルルたんかわいいねペロペロ』(後に削除)
『なんでこいつダンパーロの家にいるんだ不倫かあ?』
『ダンパーロ家に住んでるボディガードだよちゃんと新聞見ろ』
『↑いや知らんし』
『ルルちゃんは数字数えられて偉いねー。お父さんは自分が入れたシュートの数も覚えてないのに』
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