愛の結末
瞳を閉じた君の顔。思えばこんなにじっくりと見たことは、今まで無かったな。こんなところにホクロあったんだ。髪の毛だって、こんなにもサラサラしていたんだな。君のことは全て知っているつもりだった。でも全然そんなことなかったんだな。
もうその瞳が開かないってことは、わかっている。
受け入れられない?
そうだよな。わかってはいたんだ…。でも、これからはずっと一緒だよ。もう、決して離れない。僕は注射器を片手に決意した。
僕の名前は奈原 洋次、24歳の薬学部の学生だ。昔から、なぜ人は生まれ、何のために生きるのか。そのような事を考えるような、根暗なやつだった。そんなやつだから、友達と呼べる人も少なかった。でも、それについては構わない。かなりの面倒くさがり屋だから。どこかに遊びに行くとか、皆はワイワイ騒いでいたりしたけど、僕は全然乗り気になれなかった。家で一人、本を読んだりスマホをいじったり。そんな時間が、のんびり誰にも邪魔されない一人だけの時間が、最高だと思っていた。
君と出会うまでは…。
君と出会ったのは、本当に偶然だった。もしあの日、僕が何か一つでも違う行動をしていたら。もし空が晴れていなかったら。もし君があの場所に居なかったら。
僕は、一生君に出会うことは無かったのかもしれない。
この広い世界で、同じ国、同じ世代に、同じ街、同じ時に存在していなければ…。
奇跡と言ってもいいだろう。君はどう思ってくれていたんだろう。
約1年前のあの休日は、忘れようがない。僕は珍しく出掛けたんだ。晴れている日が好き、というわけではない。たまたまだ。でももし雨が降っていたら、出掛けていなかっただろう。
駅前の本屋に徒歩で向かった。特に目当ての物は無かったけど。歩いていると、コーヒーのいい香りがしたから、帰りに買っていこうかなって思って、ふと顔を向けたんだ。
カフェのテラス席に君を見つけた。僕は思わず歩みを止めちゃったよ。天使に見えたんだ。何もオーバーに言っているんじゃない。まさに一目惚れってやつだった。
過去に人を好きになったことはあった。中学や高校の時だ。でも何か行動に移すなんて勇気が無かった。意気地なしだね。見るだけで満足していたんだ。いや、満足させていたんだ。
それが、今は隣に君がいる。君は今までの僕を、勇気が持てずにウジウジしている駄目な僕を、変えてくれたんだ。
君は女子医大に通っていた。これはちょっと辛かったよ。なんで僕は男なんだ?僕も女なら大学でも一緒に居られるのに。なんて思った事すらあったよ。色々と本末転倒だけどね。
だから、その時間は辛かったな。講義に集中なんて出来なかったよ。でもこればかりは仕方のない事だ。君も同じ気持ちでいてくれたのなら、それだけで幸せだよ。
君の大好きなテーマパーク。僕は遠足で行った以来だったから、あの人の多さにびっくりしたよ。はぐれないか心配だった。君は頭に好きなキャラクターの耳を着けていたよね。僕はちょっと恥ずかしかったんだよ。でも、着けてみたら、悪くは無いかもって思えたな。気にしすぎなのかもしれないけど、皆に見られてる感じだけは慣れなかったな。回数を重ねれば、そんな事も気にしなくなるんだろうね。
回数を重ねられれば…。
だめだな、油断をすると涙がでちゃうよ。君が泣いていないのだから、僕もがまんしないとね。
図書館で勉強した事も何度かあったね。君の専攻内容については、僕にはわからないけど、薬学の事なら多少は教えてあげられるよ。あ、でも君が妖怪百科図鑑を見ていたのは、ちょっと以外だったかも。
以外と言えば、君は見た目に反して大食いだったね。スーパーに買い物に行った時、最初はびっくりしたよ。一人暮らしなのにあの量。大食い競争のような対決をしたら、きっと僕は敵わないな。でも、外食のときは我慢してたよね。そんなとこも大好きだったな。
いや、これは過去形じゃ駄目だよね。
大好きだよ。
思えば楽しい思い出ばかりだ。約1年、過ごした時間はそう長くは無いのかもしれない。でも、濃さの方が大切だ。喧嘩した事なんてなかったもんね。
そして…、半年前。
病院に行ったあの日…。
青天の霹靂だった。今までの穏やかで、温かい日常が音を立てて崩れていく感じがした。何かの歌詞であったけど、普通に暮らしている、一見何でもないような日々は、実は特別なんだよね。
あの日は、本当に辛かった。君は気付いていなかったと思うけど、僕は泣いてしまったんだ。現実が受け止められなかった。弱かったんだ。君に出会う前の僕なら、そこでポキンと折れてしまっていたかもしれない。でも、折れなかったよ。僕に出来ることは何だろうって。君にしてあげられる事は何だろうって。逃げずにちゃんと考えて行動しようって思ったんだ。
自分に嘘は付けない。だから、今だから言えるんだけど、あの日、君との未来にノイズが走ったんだ。いや、一瞬そう思ってしまったんだ。一瞬でもそう思った自分に腹が立って、腹が立って仕方がなかった。性分ていうやつなんだと思う。根暗だし、逃げグセみたいなのもあったし。何か出来ることは無いかって思うより先に、マイナスな考えが浮かんでしまう。自己嫌悪だ。
一人で居ると駄目だね。家に帰ってから思い出してしまって、ずっと震えてた。怖かったんだ。これからどうなるのか。君と離れるなんて絶対に嫌だ。
会えなくなるなんて、考えもしていなかったから…。
病院に行った翌日以降、君は気丈に振る舞っていたけど、やっぱり伏し目がちだった。君が弱っているなら、僕は前向きにならないといけないと、この時改めて思った。逃げないって思った。
それから少しずつは明るさを取り戻していったけど、僕にはやっぱり、今までには無かった陰り、みたいなものがあるようで、仕方がなかった。僕は少しは役に立てていたのかな。いや、役に立てていたなら、君は心からの笑顔を見せてくれていたはずだよね。
これが最後か…。
先日、お墓参りに行った時の事だ。僕はこの人の事は、君と親しいお医者さんだって事しか知らないんだ。正直言うと、そんな僕が行っても意味は無いのではないかって思ったんだけど、今の君を一人には出来ないからね。でも、君が悲しい表情で手を合わせる姿を見て、僕も無意識のうちに手を合わせていたな。
僕は出来ることを全部してあげられているのか?って考えた。逃げていないかって。
だから、僕は本当の勇気を出したんだよ。
だから今日、君の家に来たんだ。
葉指 杏。
君に出会えた僕は幸せだったんだよね?
■
男は、見ていたスマホの動画再生画面をオフにして、手に持っていた免許証をテーブルにおいた。
女の両目には、ボールペンが刺さっている。死んではいないようだが、失明は免れないだろう。
男がスマホをテーブルに置き、注射器を手に取った。
最後の別れを悲しんでいるのか、女を見つめている。
「受け入れられない?」
「そんな事を君が言うから、こんな事になってしまったんだ。健康な君をこんな風にしたくなかったよ」
1ヶ月後、葉指 杏の住むアパートからは、葉指 杏の遺体と、身元不明の2人の男性の遺体が見つかった。
葉指 杏は、両目に負った怪我によるショック死、身元不明の男性は、衰弱死と薬物による自殺と見られている。