7 破裂
「まだしてんの?」
今日という日は、白沢がやけに絡んでくる。私が失態を晒してしまった所為か、テンションが高い。今となっては触れて欲しくない過去だと言うのに、執拗に蒸し返してくる。本当に嫌な奴だ。
最悪なのは白沢だが、助長する様なのも酷い。何も知らない石原が、訳も解らず、「キティちゃんって何ですか?」と疑問を口にする。白沢がケラケラと声を上げて笑い、私を指差した。そして「こいつの」と言い掛けた時、尚美が机を叩いた。
「やめなよ! 白沢君、そういうの最低だよ?」
地獄に仏、掃き溜めに鶴とはこの事か。持つべきは友とは良く言ったものだ。私の身になって庇ってくれる尚美が嬉しい。しかし尚美の反論は、白沢への効果としては薄い様だ。白沢は開き直って、「知ってるよ」と言う。
「俺、最低だもん」
尚美も私も、呆れてものが言えなかった。この男の言葉に突っ掛かる方が馬鹿なのかも知れない。こいつは徹底的に無視するのが得策だ。恐らく尚美も、同じ事を考えた。
しかし、意に反して予想外の人物が白沢に噛み付いた。「お前さ」と声を荒げたのは、高橋だ。
「女の子傷付けて楽しいワケ? やる気が無いなら出ていけよ」
手入れのしすぎで殆ど無くなった眉毛を寄せて、物凄く険しい顔をする。初めて見る高橋の部長らしい態度だった。口調は決して綺麗なものではないけれど、ちょっと格好良い。
言われた白沢は、黙っていた。面食らうでもなく、恐れをなすでもなく、ただ高橋の鋭い睨みを見返して、口を噤んでいる。しかし、返す言葉も無いという態度にも見えない。泰然と、反抗する顔付きだ。悪気なんて毛頭無いんだろう。
やおら白沢は鞄を取り、すっくと立ち上がると、「じゃ」と一言放って、図書室を出て行った。高橋は白沢の去った後の戸口を暫く眺めてから、鼻から「フン」と不機嫌そうな音を鳴らした。
異質な存在をこの部室から排除するのに見事成功したというのに、胸の空く様な思いはしなかった。きっと、部員の誰もがそうなんだろう。みんな、バツが悪そうに閉口している。決して、白沢を肯定しようなんてつもりじゃないんだ。ただ、ここに人一人を疎外して気持ち良くなる様な、腐った考えの持ち主は居ない。例え白沢の様な無法者相手でも、追い出した本人らも傷付く。この部活はそういう、心根の優しい女の子達が集まっているんだ。
重さを増した大気の中で喘ぐ様に、尚美が「そういえば」と切り出した。
「めぐちゃん、小説書けた?」
今日一日の色々ですっかり忘れていた。良くない傾向だ。私は頭を振った。
「じゃあ一緒に考えようよ。わたしも何だか行き詰まっちゃって」
作品に迷いが出たら、外の刺激に触れる。そうすると、それまで無かった発想をポンと思い付く事がある。尚美の持論だ。私の場合は、一息置くと急激に疲弊してしまうから、当て嵌まらない。正直言って「オレンジ」には疲れ切っていたが、尚美の為ならと鞄を探った。そして、すぐ異変に気が付いた。
おかしい。原稿が無い。汚れてしまわない様、いつも白紙の原稿用紙に挟んでいるのに、見当たらない。鞄の中身を引っ掻き回してみても、どこにも無い。
「え? 無いの?」
尚美も心配そうに覗き込む。教科書やノートの間も見たが、無い。まさか教室の机か、とも思ったが、有り得ない。書き掛け原稿は教室に出さない主義だ。何があるか解らない。なら家か、と言えば、それも違う。土日は原稿に目を通す気も起きず、鞄から出した憶えは無い。とすると、最後に見たのは週末。週末の、この部室。
あ。私は思わず声を上げた。白沢か? 「白沢君?」と尚美が眉を顰める。私が禁忌に触れてしまったかの様に、高橋と石原も目で反応した。
週末、白沢の手に渡った原稿は、どうなっただろうか。憶えていない。もしかすると、白沢があのまま持って帰ってしまったのかも知れない。確か石原も読んだな、と念の為確かめてみる。
「読んだ後は、確か白沢先輩に返した……と思います」
どうして私に返さないんだ。つい石原を責めてしまったが、八つ当たりでしかない。「すみません」と、酷く落ち込ませてしまった。一応持っていないか調べて貰ったが、やはり無い様だ。
白沢としか考えられない。私は早くも、故意に盗んだものかと疑いを掛けていた。そんな事をして何になるのか知れない。けれど白沢が私を快く思っていないのは、確信出来る。
慌てて昇降口まで走る。だが間に合う訳も無く、白沢の影も形も無かった。
早鐘の如く脈打つ心臓が、嫌な予感を掻き立てていた。
「オレンジ」の原稿が見付かったのは、翌日の朝だった。
私の机の上に、何度も何度も執拗に引き裂かれた原稿が、散らばっていた。
遅刻すれすれに登校して来た白沢は、飽き飽きする様な目で私を見下ろした。どうしてあんな真似をしたのか、私は出来る限りの平静を装って、問い詰めた。「何が?」と惚ける白沢に、掴み掛かりたい衝動を抑えるのがやっとだ。お前は最低な奴だ。その言葉が、私の喉を焼く。
「何だよ?」
小鼻の脇を痙攣させて、逆上する素振りを見せる白沢。お前はクズだ。そう言うのがやっとだった。足の感覚が無い。まるで宙に立っている様だ。この男の目の前に居るだけで、吐き気がする。本当に、嘔吐してしまいそうだった。
だから、踵を返す。もう良いんだ。敵には関わらない。係わりたくない。拘わられたくない。そうやって遣り過ごしてきたじゃないか。今までだって。そうだ。我慢するんだ、私は。
なのに、腕を掴まれた。白沢に引き留められた。
「どうして泣いてんだ」
泣いている? 私が? だったら何だ。誰の所為だ。誰の仕業だ。誰が私の作品を引き裂いた。誰が私の感情を切り刻んだんだ。
お前だろう、白沢! 振り向き様に、睨んだ。視界がぼやけて白沢の顔は見えない。真っ黒だ。私の中に真っ黒い何かが立ち込めている。
「何があったんだよ」
遠くの方で白沢の声がする。よくも、ぬけぬけと。白沢の手を振り解いて、前さえもろくに見えないまま、その場を走り去った。
教室に戻ると、真っ先に箒とちりとりとを取って、机の上に散らばった原稿を払い落とし、掃き集めて、捨てた。もう良いんだ。原稿は最早、単なる塵芥だった。
ゴミ箱に落とす間際、紙片の一部に残った「ケムシ」の文字が目に入った。
尚美はこの話を聞いて激昂し、泣いてくれる。言葉を無くして、私を抱き締めてくれる。私の身代わりになって怒ってくれたのは、彼女だけじゃない。高橋も「汚い奴!」と憤慨している。良い先輩なんだ。仲間の存在に、救われた気分だった。
どうしてあんな事が出来るんだろう? 白沢だって、物書きじゃないのか。文学者の端くれじゃなかったのか。白沢個人に対する失望より、絶望感の方が強い。ひとの作品を平気で傷付ける、そんな野蛮な行いをする人間が、同じ場所に立っているなんて、信じたくなかった。
「あの……」
不意に、石原がおずおずと口を開いた。
「さっき白沢先輩見たんですけど……」
で? 咄嗟に牙を立てる。その話を今しなければいけないのか。察して欲しい。「あの、なんだか」と言い難そうにしながらも、石原は続けた。
「掃除で教室のゴミを出しに行ったんですけど、そこに……」
校舎の裏手にゴミの収集所がある。そこに白沢が居たと言う。
昨日の一件もあって、石原は声を掛けなかった。白沢は気付かず、真剣な面持ちで何かをしている。見ると、ゴミ袋の口を開けて、中身を漁っていたらしい。「ヘンタイだ」と高橋は嫌悪感を込めて言った。
「気にしない方が良いよ。アイツはただのヘンタイ」
単に変人だと思っていたのに、そんな奇行に走っていたのでは、変態としか言い様が無い。高橋に同意した。
何だか胸がスッとした。この数日間をそんな男に振り回されていたんだと解ったら、途端に馬鹿馬鹿しく思えた。馬鹿馬鹿しいから、もう考えない。考えるだけ無駄なんだ。
「また書こうよ。内容はわたしも憶えてるから。ね?」
私の肩を抱いて、尚美が優しく慰めてくれる。けれど私は、頭を振った。
もう良いんだ、「オレンジ」は。元はと言えば、あの男をきっかけにして書き始めた様なものなんだ。滑稽にも対抗意識に近いものを感じていたし、あの「スタンドアローン」へのオマージュも意識下にあった。思い返してみれば、実に下らない。あんなのの為に自分らしさを捨てて、自分でも赤面する様な内容の小説を書いていただなんて、笑い話にもならない。良いさ。もっと自分らしく、良い作品を書けば良いのさ。
「そっか……うん、そうだね」
尚美は、残念そうだが頷いてくれた。けれど、なんだか虚しかった。
「全く、何だってんだよな。仕返しのつもりかよ」
きっとそうだろう。高橋が「逆ギレとか有り得ねえ」と口にする怒りは、空に舞う。
逆ギレ――たぶん、そう言い切るのは不可能だ。奴を追い遣って、引き金を引いたのは私達。そして撃鉄を下ろしたのは、きっと私なんだ。
白沢の腕を思い出す。「無題.txt」の主人公の様に、白くて綺麗な腕。刻まれたのはカッターナイフの切り傷ではなく、私を助ける時に作った傷だ。私が助かる為に作った傷。なのに私はろくに礼をせず、謝る事さえせず、奴を追い出すのに荷担した。
動機はどうあれ、白沢を赦す事は出来ない。でも私は、恨まれて仕方の無い事をした。私が被害に遭うのは、道理なんだ。白沢も私も、加害者であり被害者だ。
復讐の報復。憎悪の応酬。巡り巡る連鎖の中に、順も逆も有りはしない。一巡の鎖なんだ、それは。末端を求めるなら、切り離し、両端を認めなくてはいけない。一方の加害から始まり、被害で終わる。それを受け入れなくてはいけない。
だから、私は認める。繰り返される怨恨の愚かさを知っている、私が我慢しなくてはならない。全て私が悪いのだと、承服しなくてはいけない。私が白沢の要求に応じなかったばかりに、善意に応えなかったばかりに、彼を迫害したばかりに、こんな事になってしまった。私は悲劇のヒロインではない。
そう。全てそう。私に向けられる誹謗中傷の類は、謂われ無き暴力じゃない。全て私から端を発し、因果律に基づいて私に巡り戻ってきた、それだけの事。
私は世界の末端に立っている。それで良いんだ、私なんかは。
「大丈夫? 家まで送って行こうか?」
帰り際にそう提案してくれる尚美に、大丈夫、と答えた。
カッターナイフが錆びている。百円ショップの安物を小学生の頃から持っているけれど、使う機会は少なくて、大して触ってもいないのに、銀色の部分は僅かも残っていなかった。
怖かった。切れないカッターナイフが、怖くて堪らなかった。
キチキチと音を立てて、迫り出してくる刃。剥き身の凶器を見ただけで、心臓を抉られる幻覚がする。
私はリストカットを自慰だと言った。でも私がしようとするのは自慰じゃない。だから、これはリストカットじゃない。殺そうとしているんだ。私という悪人を、殺そうとしている。
自殺願望は以前からあった。いや、死を願っていたのではなくて、正しくは、自己の存在が消失してしまえば良いと願っていた。人生の終わりを欲していたんじゃない。生まれてこなければ良かったと思っただけだ。だって、死ぬのは怖いから。
怖いんだ。死ぬのは怖い。痛みという実感で死を悟るのも怖い。
カッターナイフが床に転がった。私はベッドの上で膝を抱えて、震えていた。死にたくない。死にたいなんて思ってもいないんだ。
怖いよ。助けて。
誰かに何かを求めている。誰に? 尚美? 何を? 慰め? 解らない。たぶん自分から逃げ出したいだけだ。悪を気取って悪に成り切れない、自分に嫌気が差しているんだ。
ハハッ! 笑いが込み上げる。何だよ。駄目じゃん、私。白沢をクズと呼んだ私は、きっとクズ以下の何かだ。涙も出ない。
翌朝、一睡も出来ないまま登校した。何の為に学校に行くのか解らない。悪意を一身に浴びて、被害者面をしたいからだろうか。そうして尚美に慰めて欲しいからだろうか。
家を出たのも到着したのも、いつもより遅い時間だったから、なるべく無心で居る様に心掛けた。視線を感じたくなかった。
廊下からの早足を緩めないまま教室に入ろうとすると、不意に、「おい」と二の腕を掴まれ、強く引っ張られた。
「素通りするなよ。待ってたんだ」
見上げると、長い前髪の隙間から、一重瞼が不機嫌そうに見下ろしている。白沢だった。