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6 嫌な奴

 翌日の部活で、未完成の「オレンジ」を尚美に読んでもらった。未完の作品をひとに読ませるのは好まないが、結末が思い浮かばない。一晩中考えたが、しっくり来ない。どうしたら良いだろう、という相談が口に出した理由だ。裏にもう一つ、私が「ケムシ」と呼ばれている事を尚美が知っているのか、それを確かめるという目的もあった。けれど、もし知っていたとして、優しい尚美がそこに言及するとも思えないが。

 尚美は気付いてくれるだろうか? この作品に込めた、沢山の嘘に。

「何だか可愛いお話だね」

 にこやかに言った、最初の感想だ。そうだろうか。児童書っぽく書いたのは確かだ。

「いつもと違うから、ちょっとビックリした」

 まあ、そうだろうな。主人公が人間でないし、いつもはもっと堅い文章を書いている。こういう抽象的なのは、私らしくない。言いたい事を明確にしないのは、それも一つの嘘だ。尚美は「でも、何だか」と笑い顔の眉毛をハの字に曲げる。

「切ないね。誰にも理解されないなんて」

 そうだね、と私は建前で答えた。そういう事じゃないんだ。

「仕方ないんだろうけど。だってハエは腐ったものにしか集らないし、カブトムシはもっと甘いのが好きだし、ナナフシは元から葉っぱしか食べない虫だし」

 そういう事でも、ないんだ。別に、どの虫が何を食べるかなんて、あまり考えてなかった。

「それに毛虫と対照的なのばかりだから、毛虫の悪い所ばっかり言う。でも毛虫自身は前向きなのが、ポジティブで良いと思うよ」

 ポジティブ、か。私が書いたのとは全く逆だ。それはそうだ。思い直した。尚美は親しい友人だ。その好意的な、肯定的な目で「オレンジ」を読んだら、良い部分しか見えないだろう。もしかすると、誤字脱字なんていう初歩的なミスでさえ見逃してしまうかも解らない。対象とした読者とは、違うんだ。

 一番読ませたいのは、悪意を持って、否定的な目で見る相手だ。そういう連中に向けて書いた。私を快く思っていない人間、とも言える。例えば、そう、「次は俺だ」と言って不躾に尚美の手から原稿を引ったくった、こいつ。まだ見せるとも言っていないのに、無許可で目を通す、勝手な奴。

 白沢は原稿に素早く視線を這わせた。一重瞼の下で瞳が忙しなく上下している。その表情は割と真剣。思っていたよりも、ひとの作品を読む時の態度は、真摯な男なのかも知れない。ちょっと見直した、と、思ったその時だった。白沢が唐突に吹き出したのは。「傑作」と上目遣いに、嘲笑混じりに言う。

「あんた病んでるな」

 お前に言われたくはない。そうは思ったが、白沢の指摘は正しい。そうだ、私は病んでいる。世界の毒素が脳までたっぷり染み込んだ、人間の漬け物だ。そんな私が日頃何を考えて生きているか、それをありあり描いたのが「オレンジ」だ。

「どっちが腐ってるんだ?」

 どっちかな? 私は聞き返していた。もう少し、白沢がどう思うかを聞きたい。たぶんこの場に居る読者の中で、こいつだけが「オレンジ」を正しく理解出来る。悔しい事でもあるが、そうしてしまったのは自分だ。白沢は「ムカつく」と言いながら、顔は笑っていた。

 お前なら最後は何て言う? 尋ねてみた。予想はしていたが、「知らないよ」と投げ放たれた。

「あんたのだろ?」

 まあ、そうだとしか言い様が無い。ただ、だからこそ迷っている。最後をどうするかで、この作品の方向性が大きく変わってしまう。最後の最後での、大事な大事な一文。他人に任せてしまおうなんて、私も意気地無しだ。

「石原にも読ませて貰って良いですか?」

 不意に、そんな事を頼まれた。別に構わない。完璧主義者ではないから、未完成なものを人に見せるのを禁忌としている訳ではないし、原稿用紙に書くという事は、いずれ不特定多数の人間の目に触れる事だ。石原は原稿を眺めながら、「なるほど」と知った様な呟きを漏らした。高橋に関しては、はなから興味が無いらしい。読ませたいとも思わないから、好都合だった。

 結局、結末のヒントも得られなかったが、問題じゃない。きっと何か意見が出たとしても、私はそれとは別のものを考えようとしていただろう。自分というのは、そういう奴だ。まあ、良い。時間はたっぷりある。今日は週末だ。土日を使って考えるとしよう。


 映画は良い。情緒に溢れて感性訴えかけるフランス映画も良いかも知れないし、或いは静寂に満ちて文学的な行間さえ感じさせる日本映画も良いかも知れないが、やっぱり映画はひたすら解り易いアメリカ映画が一番良い。何も考えないで見られる。見ている間は何も考えていないから、見終わってみて初めてその映画の善し悪しが解る。後味に清涼感のあるアクション映画や、ほうと溜息を吐きたくなるロマンス映画などは当たりだ。最近はそういう単純な映画も随分と減ってしまったけれど、「007 慰めの報酬」は久しぶりに見た良い映画だった。いや、あれはイギリス映画か。単にダニエル・クレイグが好きなだけかも知れない。

 だから何だと言われるだろうが、何の事や無い、結局「オレンジ」は手に付かなかったというだけの話だ。二日の休日が過ぎ、週明けの月曜までもが過ぎてしまった。この三日間、頭の隅では常にどうしようかと考えていたが、思い付く事柄は皆無。手から離れすぎている。嘘を吐きすぎて、自分のものでなくなっている。小説は子供みたいなものだ。育てている内は自分の手の中で思い通り行くが、一度離れて行ってしまうと、どうにもならない。まあ、子育ての経験など当然無いのだけれど。

 自分の小説に悩まされるのは、ままある事だ。書き始めが衝動的だったりすると尚の事。ああでもない、こうでもない。ああするべきか、こうするべきか。そんな事を考え込むと、脳の僅かな作業領域が独占されてしまう。他の一切が思考の外に追いやられる。どうにも、ぼんやりしてしまう。

 火曜日になっても、それは続いている。授業が頭に入らない。情報が左耳から入って、右耳に流れ出て行く。黒板に書かれる数式をノートに写しているが、ペンを握る手が勝手に動いている様で、無意識な単純作業だった。

 ふと、小さく折り畳まれた紙切れが、頭の右脇を通り過ぎて机に落ちた。背後で「馬鹿」と誰かの失敗を叱責する声がする。紙切れを取って開くと、ガキっぽい、キャラクターの書かれたメモ帳の一枚。そこには「クラスにいらないやつアンケート」とラメ入りのペンで書かれている。正の文字が一番多く書かれていたのは「ケムシ」だった。ちなみに二番目は滝田。鼻で笑って、破いて捨てる。横に見遣ると、一瞬沢村と目が合ったが、すぐに逸らされた。こういう陰湿な真似をするのは、この女以外に無い。

 沢村はクラスの女子のリーダー格だ。いつも数人と連んでいる。デパートで数回見掛けたが、いつも数人を引き連れていた。テストの成績がそこそこで、顔もまあまあ。外面が良いから、女子連中から人気がある。とは言え、それは群れるのが好きな馬鹿の間だけの事。私には嫌で堪らない女だ。出しゃばりで図々しくて、仕切りたがり。親がPTAの役員だというから、尚更だ。

 誰がやったのか知られない様な悪戯は、全て沢村がやっている。例えば教科書を便器に詰めたり、上履きに画鋲を仕込んだり。本人はしらばっくれるが、私には解っていた。群れというのは、集団でたった一人を迫害して統率を図るものだ。その下らない指揮を執っているのが、沢村という女だった。


 やはり、呆けている。水泳の授業があるというのに、水着を持って来ていなかった。持ち物を忘れるというのは、私にとってあるまじき失敗だ。嘘も方便、生理不順な所為か長引いていると理由を付けて、また見学にしてもらった。

 白沢も同様に、今日も見学らしい。わざとなのか、忘れっぽいのか。いずれにせよ、建前は違えど、こいつと一緒だというのは悔しい。「またかよ」と挨拶代わりに声を掛けられたが、無視した。しかし、今度の白沢は何故かしつこい。私の横にへばりついて、ブラシ掛けの真似事などする。一体何なんだ。そう尋ねると、

「あんたに言いたい事がある」

 勿体ぶらずに言え。だが、「忘れた」と本末転倒な事を言い出した。今に始まった事じゃないが、頭のネジが弛んでいる様だ。それも、一本や二本では済まないくらいに。こいつは、やっぱり駄目だ。傍に居るだけで苛々する。

 今回の授業は二十五メートルのタイム計測らしい。こんな成績に影響する様な日に水着を忘れるなんて、全くツイていない。そう思っているのは私だけの様で、白沢は「なあ」とまだ私に声を掛けてくる。

「アレ、出来た?」

 アレというのは「オレンジ」の事か。頭を振ると、舌打ちされる。別にお前の為に書いている訳じゃない。腹立たしくて、そう言葉を返す気も起きなかった。用件を思い出すのを諦めたか、またムカついたのか、白沢からやっと解放された。

 しかし、二十五メートルも泳げないのが多いなんて、中学生としてどうなんだ? いくらなんでも、それは無い。恥ずかしくないのか。どうかと思う。

 清水君はどうなのだろう。プールの端から端まで泳ぐなんて、造作もない事に違い無い。水泳部に引けを取らない早さでもおかしくないだろう。彼の泳ぎを見てみたい。きっと気晴らしになる。そう思って、その姿を探したけれど、見当たらなかった。

 不意に、右肩の辺りに、どん、と力が加えられた。泳ぎ切って戻る女子の肩とぶつかったらしい。きっと訳の無い衝撃だった。けど、呆然と立ち尽くす私をよろけさせるには十分で、砂を流すのに水を沢山撒いたのも悪い要因だった。

 ハッと気が付いた時には、頭からプールに落ちていた。事故に遭うと、人間の脳は危機回避の為に普段とは比べものにならない程活発に働いて、一瞬をまるでスローモーションの様に感じると、誰かが言っていた気がする。そしてかなりの興奮状態になるとも。

 目を開けていられない。瞼を閉じてしまうと水の中では上も下も解らず、手足をばたつかせた。しかし、もがけどもがけど、沈んでいく。このままだったら溺れる。このままじゃ死ぬ。水難事故で死を招くのはパニックだ。良く聞く話だが、それは丘の上での理屈で、いざというときに思い出せるものではない。肺の中の酸素を全部吐き出してしまって苦しんでいる人間には意味が無い。

 何かが手に当たる。私は必死になってそれを掴んだ。本能的に爪を立てたと思う。

 水面から顔が出た。慌てて息を吸う。「立てるぞ。立て!」。誰かが叫んだ。

「痛えよ」

 白沢が言った。学校のプールは浅くて、底に足を付けてみれば、水面は胸くらいまでしか無い。私が掴んでいたのは白沢の腕だった。白い肌にくっきりとひっかき傷が出来て、赤く血が滲んでいる。

「大丈夫か!」

 安斎が駆け付けて来た。反応が遅かったのではなくて、私が溺れていたのが一瞬の出来事だった様だ。「水は飲んでないか」とか「どこか打たなかったか」とか矢継ぎ早に訊かれる。私はそれに一々、大丈夫です、と答えた。

 見上げると、私にぶつかってきた女子が口を両手で覆っていた。沢村だ。この女、私を突き落とすつもりだったのか。

「ごめんなさい! 怪我しなかった?」

 そう言う声が、白々しく聞こえる。

 引き上げられながら、「気を付けなくちゃ駄目だろう」と安斎に叱られる。沢村に悪意があったかは兎も角、私の不注意もいけないのは確かだから、仕方無く謝った。

「白沢の対処が速くて助かった様なもんだ。礼を言えよ、礼を」

 目を見ずに礼を言う。逸らした目線の先に、冷笑がちらほら見えた。本当は、白沢に感謝しなくてはいけないのだろうが、私は素直にそうする事が出来なかった。不機嫌になった事だろうな。「ムカつく」を予想したが、違った。代わりに放ったのは、

「キティちゃん」

 という一言だった。どうして下着の柄を知っているんだ。そう下を見ると、体操着が身体に貼り付いて、透けている。私は咄嗟に胸を隠した。


 噂が広まるのは早い。放課後、尚美は私の顔を見るなり、その出来事を心配した。別に何とも無いし、すぐに着替えたから平気だと答えると、心の底から安堵の溜息を吐いてくれる。良い子だ。

 彼女の真逆を行く白沢は、私を見付けると、

「よう、キティちゃん」

 いきなり馬鹿にしてくる。この野郎。感謝しなくて正解だった。

 挙げられた白沢の右腕に、みみず腫れが浮き出ていた。 

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