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19 愛しい距離

 不意の質問に、答える事が出来なかった。いや、その問いが突然でなくても、答えられる訳が無い。質問の意図が解らないからでも、哲学的過ぎるからでもない。

 私は自分が大嫌いだ。自己嫌悪という文字に手足を生やしたら、私の形になる。でも私が私を嫌いだと言ってしまうと、私の認識する全てを否定してしまう事になりかねないから、それを口に出して言う事は出来ない。

 けれど、白沢父は「ぼくは無理だ」とさらりと言ってのける。

「好きになんてなれない。寧ろ嫌いになる。気持ち悪いと拒否感を示してしまうだろうね」

 そうですね。私は思わず相槌を打った。自分の答えを示すのは躊躇ったのに、他人に同調するとなると、酷くすんなりと言える。しかし、彼が言うのは、私が思うのとは少し違った。

「人っていうのはね、得てしてそういうものなんだ。自分と同じものは嫌いになる。自分の事が好きか嫌いかじゃないんだよ。ナルシシストでもきっとそう思う。自分以外の人間はイコール他人だ。自分の目の前に現れた自分は、どこまで行っても『限りなく同一に近い別人』か『よく似た他人』でしかない」

 そうか。自分の事が好きか嫌いかを問うていたんじゃないと、漸く解った。なら、たぶん言う通りだ。私が嫌いな私。好きになりそうにない。

 けれど、どうしてそんな話をするんだろう?

「じゃあ、今度は逆に、君の前に君とは百八十度違った人間が現れたとしようか。君には無い優れた部分を沢山持ってる。けれど同時に、君の持っている優れた部分が全く無い。君が必要だと思う、君が大事にしている部分が、著しく欠如してる。そんな人間が君の目の前に現れたら、好きになれるかな」

 さっきとは全く逆、か。想像力を働かせてみるが、俄にはその人間像が思い浮かばない。しかし色々思う内にすぐ気が付いた。そんな人間とは反りが合わないだろう。一箇所を例に取れば、思慮の欠片も無い相手とは、一緒に居たくない。そんな人間は嫌いだ。

 あれ? おかしい。「おかしいね」と白沢父は笑った。

「自分と同じ人は嫌い。でも全く違う人も嫌い。矛盾してるよ」

 そうだ。酷い矛盾だ。まるで闇の中に放り込まれた様に、何も解らなくなる。「じゃあ」と更に問われた。

「一体、どんな人間を好きになるの?」

 解らない。解る訳が無い。私に似た人間と、私と違う人間。どちらも駄目なら、全て駄目だ。頭の中が渦を巻く。

 その回転を逆回しする様に、「簡単な事だよ」と白沢父は言った。

「答えはその中間だね。同じであって違う、似ていて似ていない。同じだけど似ていない、似ているけど違う。そういう人を、人は好きになる」

 そして、まるで催眠術を解くかのごとく、ぽん、と手を叩く。

「『好き』と『嫌い』は言葉の意味も感情の向きも正反対だ。けど人間の心理っていう解明不可能なブラックボックスの中では、そういう真逆の感情達はせめぎ合う事もなく混在してる。憐憫(れんびん)と嫉妬、愛情と憎悪、好意と敵意は、相手を思う形という同一のベクトル上にあるからね。好きか嫌いかなんて、曖昧なものだよ」

 何故だろう? 「曖昧なもの」なんて、言葉通り曖昧な結論なのに、やけにすっきりしてしまう。そういう矛盾があって良いものなんだと納得してしまう。

 曖昧――そんな霧みたいな言葉がぴたりと当て嵌まる関係にある相手を、私は知っている。白沢父が誰の事を話しているのか、何となく見当が付いてしまった。

 まるで見透かされている様だ。そこに誤解は無くて、ただ思い遣りに溢れた、良い大人の姿がある。

 お喋りな紳士は、わざとらしく「てへ」と舌を出し、「余計なお世話だったね」と言う。全くだ。お陰で余計な事まで考える様になってしまった。

「女の子と話す機会なんてそうそう無いから、ついつい。服もこんなに気合い入れちゃったしね」

 そうでしょうね。自宅でそんな服装をしているなんて、やっぱり奇妙だ。

「ほらほら、ところてんが伸びちゃうよ。食べて食べて」

 寒天は伸びるんだろうか。つくづく変わった事を言う。

 頂きます、と一言断ってから、つるりと啜り込む。驚いた事に、コンビニで売っているものと思えないくらい、本当に美味しかった。すっかりぬるくなったところてんは、噛むと抵抗無くぷつりと切れ、口中に爽やかな酸味を広げて、思わず、思い切り噎せる。


 二階の一室、階段を上ってすぐのドアをノックした。そこが白沢の部屋だ。

 暫く返事が無い。まだ寝ているのかと、もう一度ノックしようとした時、ドアが開かれた。

「長いよ」

 久しぶりに会った白沢は、不機嫌そうに言った。何がだと問い返すと、「話」と超端的に返される。相変わらずだった。白沢は父親とは対照的に、灰色っぽい部屋着のフリース姿で、寝癖も直していない。こちらの方が自宅での正しいスタイルだ。少々引き籠もりっぽい。

 でも、左頬に貼られた大きなガーゼが痛々しい。その下はまだ抜糸もしていないだろう。

 私は目を逸らさない。白沢とは、しっかり向かい合わなければいけない。そうでなければ、私と白沢は、永遠に理解し合えないんだ。その勇気はきっと、彼の父親に貰ったものだ。

 部屋に上がっても良いかと尋ねると、露骨に嫌な顔をされる。「何で?」と訊かれて、別に、と白沢の口振りを真似てみる。白沢は鼻の横に皺を作ったが、身体を避けて私を招き入れてくれた。

 白沢の部屋はやたら狭い。いや、元々はそこそこ広い間取りになっていて、一人で生活するには十分な大きさなんだが、ものが乱雑に散らかっていて、足の踏み場も無いくらいになっていた。漫画本やらゲーム機やら、一年生の教科書やらCDやら、技術の授業で作った電気スタンドやら、無造作に脱ぎ捨てられた制服やら、整理整頓という言葉が全く無視されたかの様な、酷い有様だ。食べカスなんかのゴミらしきゴミが無いだけ、まだマシかも知れない。まあ、男子の部屋なんてこんなものなんだろう。

 ベッドの上へ適当に腰掛ける。私が勝手に居座るのを見て、白沢は立ち尽くしたまま口をへの字に曲げた。

「何してんの?」

 見ての通り、座っている。我ながら、嫌味と言うか、腹の立つ言い方だ。でも今日は白沢のご機嫌取りに来たんじゃない。

「大した用事でもないんだろ。どうせ」

 ご明察。予定表を渡しに来ただけだ。すっかり湿気った予定表をポケットから引き摺り出し、渡してやると、「普通鞄に入れるだろ」と汚いものかの様に摘んで持たれる。白沢はそれを開きもせず、テレビの上に投げ遣った。

 部活に出るつもりは無いのか? 訊ねれば、「どうして?」と逆に訊かれてしまう。尚美がそう望んでるからだと答えると、白沢は鼻を鳴らして、私を見返してきた。

「あんたは?」

 藪から棒の反問に、私は――答えに窮した。

 白沢の言葉には困らされてばかりだ。いつも大事な部分が足りないし、意図が汲めない。しかし今度ばかりは、何となくその真意が解ってしまったから、尚の事答えにくい。

 その代わり、私は詫びた。ごめんなさいと謝る。

「……別にあんたの所為じゃないだろ」

 少し怒った様に冷たく言い放って、白沢はぺたりと床に座りながら、「ムカつく」と継いだ。

 白沢の口癖だ。何度も私に向けられた言葉。その意味を訊いた事は無かった。私の何が白沢を苛つかせるのか。

「あんた、何でも自分の所為だと思ってるだろ」

 確かに、そうかも知れない。この頃起こったありとあらゆる出来事は、私の気持ち一つでどうにでもなったと、そう思っている。

 でも、私はもう気付いていた。尚美と電話で話した時から。滝田と話した時にも、木下に意地悪をした時も、文芸部員の面々と久しぶりに顔を合わせた時にも、白沢の父親と言葉を交わした時にも、それを実感した。

 世界は人々の意思で出来上がっている。私が他人と呼び敬遠する彼らの心こそが、世界なんだ。そして私も、世界を形成する一要因、小さな欠片の一つに過ぎない。

 それぞれが影響し、接続され、連鎖するから、世界は形を成す。別々に見える全ては、必ずどこかで繋がっている。末端の無いネットワーク上に、孤立無援のスタンドアローンは有り得ない。何もかもを一人の所為には出来ず、一人の為にあらゆるものが動きもしない。

 だから、誰か一人が全てを抱え込もうとするなら、それは思い上がりというものだ。悲劇を演じる被害妄想だ。他人を認められないばかりに、自分という領域から一歩も外へ踏み出せないばかりに描いてしまった、愚かな幻想なんだ。

 馬鹿だったんだ、私は。世界を俯瞰したつもりになって、達観した気になって、他人を拒絶していただけなんだ。本当は、ひとの心は見えないからと、見える事だけが真実だと信じ込んで、見ようとする事を忘れて、足元に目を落としてばかりだった。

 思い返すと、後悔で泣いてしまいそうになる。しかし白沢に、私の気持ちは見えない。

「ムカつくんだよ、あんた見てると。何でもかんでも自分が自分が自分が……そう思ってるんだろ?」

 そうじゃないんだ。それは以前の私だ。いや、人間はそれ程すぐには心変わり出来ないだろう。でも、変わりたいと願った今は、世界の見方を変えた今は、違うんだ。

「ムカつく。本当に腹が立つ。あんたは自分の事ばかりの癖に、知ったかぶって……!」

 白沢はこれまで抑え込んできたものを噴き上がらせる様に、鍋を弱火に掛ける様に、少しずつ少しずつ、怒りを募らせていく。

 口というのは、どうしてこうも無力なんだろう? 原稿用紙とペンがあるなら、私の気持ちを沢山綴る事が出来るだろうに、今目の前で激昂しつつある男に掛けたい声は、ほんの一文字分も出てこない。

 ごめん。何も伝える事の出来ない私の口は、そんな三文字を捻り出した。

 その言葉は、白沢の感情を煽り立ててしまう。爆ぜる様に私に飛び掛かり、左腕を掴まえて、ぐいと引き寄せられる。歯を剥き出して睨む白沢の顔が、すぐ目の前にあった。獣の様に鼻息が荒い。前髪の合間から覗く双眸は、僅かに水気を含み、鈍く光っていた。

 ふと、白沢の視線が落ちる。私の腕を掴む親指が、何かの感触を確かめる様に動く。そこには、私が自分自身で付けた傷痕がある。錆び付いたカッターナイフで皮一枚を切った、薄茶色の痕が残っている。

 白沢の口元が歪み、不意に解放された。そして白沢の喉が、「悪い」と小さく震えた。

「……俺だ。俺が悪い」

 ふらりと背を向けて、その場にへたり込む。

「解ってるんだ。本当は……」

 その先は掠れて、震えて、上手く聞き取れなかった。でも、こう言ったらしい。


「本当は全部俺が悪い」


――漸く、白沢という男が解った気がする。

 白沢の肩が微かに震えている。

 白沢の事を私はどう思っていただろう? 他人。駄目な奴。嫌な奴。

 ムカつく。

 そう、私も、白沢と同じ事を思っていた。口に出さないまでも、白沢の事をムカつくと思っていたんだ。

 訳が解らない。理解出来ない。認められない。認めたくない。自分とは違う人間だ。

 好きになれないが、嫌いにもなれない。積極的に触れ合おうと思えないが、けれど、強く突き放してしまおうとも思えない。

 白沢が自身の左腕を強く握る。親指の爪を食い込ませ、ぎりぎりと握り込んでいた。

 咄嗟に身体が動く。ベッドから下りて白沢の背後にしゃがみ、後ろからその手を放させようと引っ張った。白沢は拒む。しかし、私は諦めない。

 もう十分傷付いたじゃないか。これ以上は苦しくなるだけだ。

 白沢が力を込める分、私はその倍で止める。何が何でも、白沢を救ってやりたいと思った。

 白沢は、私に似ている。

 他人を受け入れられず、自分という枠から抜け出せない。心の内は仲間が欲しいと願うのに、外からの接触は酷く嫌う。独りぼっちが怖い剰りに、孤独を誇示して、どんどん独りになっていく。

 本当に、どうしようもなく駄目な奴だ。白沢も私も。

 憐れみでも同情でもないこの気持ちは、全く言葉になろうとしてくれない。この口は使い物にならない。

 だから、声にする代わりに、そっと抱き締める。

 丸まった白沢の背中は思っていたよりもずっと広くて、頼りない癖に硬くて、少しだけ温かい。

 ありがとう。

 私の使えない口は、場違いな言葉を呟いた。けれど、ずっと言い忘れていた言葉だ。やっと伝えたい言葉を言えた気がする。

 たがを外すのに必要な、求められていた言葉は、そんなにも簡単なものだった。白沢のすすり泣きで知る。

 私と白沢との曖昧な関係が、このゼロ距離では、とても愛おしいものに思えた。

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