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 旧校舎の奧、古ぼけた廊下の突き当たり。戸を外された入り口に掲げられた、「図書室」の手書き文字が、何だか懐かしい気がした。

 中からは声一つ聞こえない。誰も居ないかの様だ。孤独感を掻き立てられるが、尚美がここで待っていてくれると言ったから、私は勇気を振り絞って、足を踏み入れた。

「おかえり」

 尚美がこちらに身体を向けて座っていた。

「よっ」

 高橋が男みたいに顔の横で片手を挙げた。

「おー、お久しぶりです」

 石原が屈託無く笑った。

 みんな待っていてくれた。

 尚美は私に歩み寄って、ぎゅっと抱き締めてくれる。私もそっと抱き返した。こうやって女子同士で抱き合うのを、見ていて馬鹿らしいと思っていたけれど、悪くない心地だ。

 ただいま。

「大変だったね」

 うん。大変だった。

 少しずつ、強く強く抱き締められるとそれが、心の中のスカスカな部分に、深く染み込んでくるみたいだった。どんなに繕ってもすぐに変われる訳が無くて、綻びは沢山ある。その隙間を埋める様に、尚美が滑り込んでくるんだ。

 内側にこびり付いていた色々が、涙になって流れ落ちた。

 身体を離して笑い合う。私と尚美との間には、冷める事のない温かさが確かに存在した。今なら臆面も無く、親友と呼ぶ事が出来るだろう。

「そうだ! 先輩、石原は描いてみたんですよ、挿絵」

 余程上手くいったのか、石原は意気揚々とノートを差し出してきた。どれどれと覗き込むと、イラストがシャーペンで丁寧に描き込まれていた。

 形の崩れたオレンジ。写実的で、白い空間に影を落としている。その虫食い穴から、オレンジとは対照的に絵本の様にデフォルメされた、「まっくろくろすけ」を伸ばしたのに良く似た毛虫が、にょろりと顔を出していた。

 可愛い。そんな言葉が思わず口を突いて出た。毛虫なんて気持ちの悪い生物を、良くここまでキャラクター化出来たものだと感心する。隣のページでは、練習なのか落書きなのか、そんな毛虫が這いずり回っていたり、糸でぶら下がっていたりと、活き活きしていた。今にも大きな目をぱちくりさせそうだ。

 「どうですか?」と訊かれ、すごく気に入ったと応えると、石原は照れ臭そうに鼻の頭を掻きながら、少年の様に「ヘヘッ」と笑った。

「何でアタシには描いてくれないんだよ」

 高橋がへそを曲げた。対して上機嫌な石原が「だって注文が多いんですもん」と、柄にも無く率直に言ってのけると、高橋は俄然上唇を突き出して食って掛かる。「この野郎!」と首を絞める真似をして、尚も笑う石原をぐらぐら揺すった。じゃれ合う女子二人だが、尚美は真剣になって止めに入った。「じゃあ小栗が描いてくれるのか」と無茶苦茶な事を言い出す高橋と、矛先を移されて吃驚する尚美、声を立てて笑う石原。

 ああ、やっぱり楽しいなあ、ここは。

 口の中だけで呟くと、意図せず笑い声が出る。他の三人は、普段の私がそんな笑い方をしないばっかりに酷く驚いた様だけど、それでも笑いは止めどなく込み上げてきた。

「お待たせ」

 そこへ、佐藤が顔を出す。続いて、「やあ」と副担任の黒沢ものんびりと現れた。

「あれ、黒沢先生。随分久しぶりなんじゃないですか?」

 真っ先に石原が言った。黒沢は女子にちょっとした人気がある。石原もご多分に漏れないらしいが、一方で高橋は全く興味無い様だ。

「こう見えて忙しいからね」

 白々しい態度でそう応えた所を、石原にすかさず「サボってただけじゃないんですね」とツッコまれる。あはは、とわざとらしく笑うのは、きっと図星だからだ。

 佐藤は私の目を見ると、やんわり微笑んだだけで、何も言わなかった。黒沢だって知っているだろうに、その辺に触れてくる素振りを見せない。先生方なりの配慮なのかも知れないし、私の顔を見たり声を聞いたりして安心したのかも知れない。何にせよ有り難かった。

 夏休み中の予定表が配られる。何の事や無い。表計算ソフトで作ったカレンダーの、部活のある日だけに丸を付けた、単純なものだ。四人分がそれぞれの手元に行き渡るが、佐藤の手元に一枚だけ残った。それはきっとあいつの分だ。

「これ、白沢君に届けて貰いたいんだけど」

 佐藤が言う。なら、尚美が行くのが良いんじゃないか。白沢が停学になった事で一番傷付いたのは、恐らく尚美だ。合って話をすると良い。私もそれを望む。

 けれど、目配せすると尚美は小さく首を横に振り、私を見返して、薄い微笑を浮かべた。私に行けと言っている様だった。どうして私が? そんな疑問を目で訴えれば、尚美は、今度は軽く頷いてみせる。未だに噂を信じているのでもないだろう。でも、尚美は行くべきだと目で言う。

 解った。尚美がそう言うなら、そうしよう。


 一度家に帰って私服に着替えると、佐藤から教わった白沢の自宅に電話を掛ける。受けたのは白沢の父親だった。平日の昼間だから当然母親が出ると思っていたが。今日はたまたま休暇を取っていたのかも知れない。兎に角、用件を伝え、今すぐ伺いたい旨を告げると、

「それはそれは。どうぞどうぞ」

 と軽妙な調子で許してくれた。

 佐藤の手書き地図を頼りに白沢家を訪ねる。その作りは意外にも洒落ていて、デザイナーズハウスと言われても納得してしまうくらいだった。コンクリート打ちっ放しの外壁、狭い敷地を活かしてか直線的な縦長の家屋だが、三階建ての階層ごとにちょっとずらして箱を積んだ様な、遊び心を感じるデザインだ。

 ここに白沢が住んでいるのかと考えると、不釣り合いな気がしないでもない。

 インターフォンを押すと、「はいはい」と電話と同じ声がして、すぐにドアが開かれた。

「やあやあ、いらっしゃい」

 ひょっこりと顔を出したのは中年の紳士だった。今時紳士という表現はどうかと思うが、その風貌からして、やはり紳士と呼ばざるを得ない。薄い水色にストライプの入ったシャツを襟のボタンまでしっかり留めて、赤色無地のネクタイを締め、シャツに良く合う鳶色のスラックスを穿き、おまけにサスペンダーまでしている。

 かと言って無理のあるファッションでもなく、すらりとした長身に良く似合っている。顔立ちは白沢に似ていると言えば似ているが、ずっと涼しげだ。短めの髪を撫で付け、髭のそり残しがコンマ一ミリも無い。石田純一に近い感じがする。

 完全な紳士だ。嫌味なくらいに。これがあの白沢の父親だとすると、空恐ろしいものがある。しかし、

「ささ、どうぞ上がって上がって」

 二度繰り返すのは癖なのだろうか、飄々とした口調と物腰が、見た目に対して剰りにアンバランスに思えた。

 お持て成しは折角だが、辞退する。本人でも家の人でも、予定表を渡したらすぐに帰るつもりだった。

「あらら、それは困るよ」

 白沢父は眉を八の字に曲げた。

「そういうのは本人に渡してやって欲しいな」

 そう言われてしまうと、私の方こそ困る。白沢とはまともに顔も合わせられない気がするからだ。

 あいつの顔の傷は、私の所為だ。あいつがその事をどう思っているかは、さして重要じゃない。傷付いた白沢の顔を見た時、きっと私は苦しくなる。それが怖い。

 本当を言えば、白沢の家族とも話したくはなかった。もし白沢が傷を負った事件の事を聞かれた場合、何と言えば良いのか解らないんだ。白沢の事だから、家族にだってちゃんと話をしているとは思えない。全てを打ち明けるのが私の責任かも知れないが、その時白沢の気持ちはどうなる。

 白沢の部屋に案内されるかと思いきや、招き入れられたのは一階のリビングだった。外観と違わず、素敵な内装だが、いや、私はゆっくりする気は無いんだ。ソファに座るよう勧められるが、恐る恐る声を掛ける。

「まあまあ、気にしない気にしない。折角来て貰ったんだから」

 白沢父は私の気持ちなど知らずに言いながら、そそくさとキッチンの方に消える。マイペース過ぎる所は、流石親子と言えるかも知れない。

 兎に角、突っ立っているのも阿呆らしいので、言う通りソファに座る。落ち着かない待ち時間を予想したが、間も無くして戻って来た。

「お待たせお待たせ。ここら辺に美味しいところてんを売ってるお店があってね。良かったらいかがかな?」

 そう出されたのは、明らかにコンビニやスーパーで売っているものだった。水切りをして汁を注ぎ、青海苔まで掛けられているが、パッケージの安っぽい容器そのままだし、おまけに袋入りの辛子がちょこんと添えられる。これが美味しいのなら、うん、表現に間違いは無い。間違いではないけれど、やっぱり何かがズレている気がする。ジョークのつもりなんだろうか。だとしたら苦笑しか出ないんだが。それにこういう場合は普通お茶とかジュースとかを出すものじゃないのか。

 向かいに腰を下ろした白沢父は、にこやかにところてんを口に運んだ。実に美味しそうに勢い良く食べる。ところてんを掻っ込んで食べる人を初めて見た。

「君がめぐるちゃん?」

 凄まじい速さでところてんの器を空けつつ、唐突に尋ねられた。どうして知っているんだろう。電話口では苗字しか名乗らなかったはずだ。

「君の話は息子から聞いてるよ。根気良く相手をしてやってくれてる様だね」

 それなら納得だ。しかし、奴は一体私の何をどう話しているのか。きっとろくでもない話ばかりだと思ったが、存外に白沢父が持つ私の印象は、そう悪くない様だ。白沢父は破顔して「どうもありがとう」と言った。

「近頃は学校が楽しいらしくてね。君は知ってると思うけど、学校嫌いの息子がちゃんと登校しているのは珍しい事なんだ。だから君には感謝してるよ。君のおかげだ」

 急にそんな風にお礼をされても、困る。言葉は耳から入って頭の中でごちゃごちゃと絡み合った。

 私は何もしていない。白沢に絡まれ、ただただ白沢を疎んじただけ。あいつの為になる事なんて、何一つしちゃいないんだ。

「息子が五歳くらいの時に母親を亡くしてね、それ以来人と接するのが苦手になった。家を建てて部屋を与えて、パソコンを買い与えてインターネットを出来る様にしたら、尚更自分の殻に閉じ籠もる様になってしまった。そんなあいつを外に引っ張り出してくれたのは、たぶん君だ」

 諭す様な優しい声だ。

 しかし、そんなつもりは私には無かった。白沢がそういう種類の人間だという印象はあったけれど、でも、それをどうにかしてやろうなんておこがましい考えは、少しも無かったんだ。もし私の影響があったとしても、それは白沢の勝手だ。

 素直にそう言ってみると、白沢父は「だろうね」と頷いた。

「外に出るかどうかは、本人の意思なんだ。結局ね。無理矢理引き摺り出そうとすればもっと頑なになるし、耳も塞いでしまうから誘い出すのも難しい。他人がやろうとして出来る事じゃないんだよ。でも息子は君に興味を惹かれて、堅い殻からニョキニョキ顔を出してくれた。君の意思とは無関係にね。だから、ぼくも君の意思とは関係無く、感謝をしなくちゃいけない。そう、君の存在に」

 でも、でもでも――私が居た所為で、あいつは傷付いてしまった。白沢の頬の傷は、私の所為なんだ。

 私は罪の告白をした。

 何と言われても、その事ばかりは、私の意思と関わりがある。私の気持ち一つでどうにかなったはずだ。色んな物事と向かい合って居れば、清水はあんな凶行に走らずに済み、白沢に暴走を促す事も無かった。どの場面でどうしたら良かったかなんて、考えればいくらでも思い付くけれど、全てはきっと、数々の出来事に諾々と流され、確固たる意思を持たなかった私が招いてしまった事だ。

 そして私の存在は、感謝して貰える様なものじゃない。寧ろ恨んだり、憎んだりされる方が当然だ。私はそんなに素晴らしい人間じゃない。

 こんな吐露を聞いても尚、白沢父は笑い、「聞いたよ」と意外な事を言った。

「その辺りの事は大体、息子から聞いたね。でも君が悪いなんて言ってなかったよ。あと、清水君か。彼が君にした事も聞いたけど、彼についても悪く言わなかった」

 え? 私は思わず聞き返す。どうして白沢は清水を悪者にしないんだ。あれほど彼に怒っていたのに。

「それはたぶん……いや、これは本人から直接聞いた方が良い。他人が憶測で言う事じゃないよ」

 白沢父はソファにもたれると、何事か思いを巡らす様に窓の外へ目を向けた。

 殺風景な街並み。見慣れたものではないのに、でも知っている、ありふれた景色。

「ねえ、めぐるちゃん。もし君の前に、もう一人の君が現れたら、君は君を好きになれるかい?」

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