17 変動
白沢という男は口が悪く、一見自由奔放な男だが、その裏には確かに優しさの芯が通っているのだと、尚美は思った。彼女には言葉の裏に隠したものを見通す才能がある。そんな力で白沢の中身を垣間見た時、感心を通り越して、強く惹かれるものを感じたと言う。
俄には信じ難い話だが、まあ、ひとの気持ちがどう動くかなんて、その時その場でないと解らないものだ。
犯人が白沢でないと解った尚美は、私を交え、部活の面々に誤解だったんだと知らせようとした。ところが、そんな矢先に事件が起きた。いや、私が起こしてしまった。あの沢村を殴った事件だ。私が早退したのを知り、部活に出ず真っ先に帰宅。私に電話しようと思った所、母親に止められてしまった。
「もうあの子と関わるんじゃない」
そうきつく、きつく言い付けられ、逆らう事が出来ず、電話機に近付く事さえさせて貰えなかった様だ。普段から強い束縛は無いが、それ故に、私と関わるなと言う強制力は強く、その時の母親の剣幕は恐怖さえ感じたらしい。
翌日は部活が休みになり、当の私はクラス会議などに掛けられ接触不可能。もどかしく、心配になった尚美がそんな時思い付いたのが、白沢だった。尚美自身から連絡が付かないなら、白沢に連絡して貰えば良い。白沢なら、私の事を思い遣れるだろうし、「守ってあげられる」と思い、電話番号と共にそう伝えた。
あいつのあの台詞は、その所為か。妙な所で真面目な奴だ。やっぱり、何を考えているのか読み切れない。
ただ、尚美から頼まれた事を奴が言わなかったのは、何故だろう。言動の理由を明らかにしないで謎めかすのは白沢の得意技だけれど、他の要因も考えられた。私と清水が一緒に居るのを見たという事だ。清水の素顔を白沢は知っていて、そんな奴と私とが楽しげにしているのを見た時、尚美の意思を伝えるなんて本来の目的どころではなくなってしまったのかも知れない。
兎も角、尚美はそれで一安心した。ところが、その翌日に登校して、私の噂を耳にする。それは白沢と私が付き合っているという噂。尚美は愕然とする。
まるで道化だと思ったんだろう。たった一人で右往左往し、空回りする。惚れた男が友人と付き合っていて、しかも自分は何も知らず、友人の事を男に託そうとした。実に馬鹿馬鹿しい。あらゆる感情が否定された気分になる。裏切られたという気持ちが芽生えても、おかしくはない。
そんな風に思った日に、私が部活に顔を出す。当然、私の顔など直視出来ない。部員達の誤解は解かぬままになっていて、恐らく同じ噂が彼女らにも聞こえていたんだろう、白沢を率先して糾弾した高橋は、そんな男と私とが交際しているのに腹を立てたものと思われ、石原はそんな空気を感じ取り、それぞれの思いで私を迎える事が出来なかった。
私の知らない所でも物事は動いているのだと、改めて思い知らされる。勿論そんな噂は根も葉もないデタラメで、鵜呑みにしてしまうのはどうかと思うけれど、積極的に否定せず勝手に納得していた私には、その事に文句を付ける資格は無いだろう。拒絶したのは私の方なんだ。それで自分の事を受け入れて貰おうなんて、おこがましいにも程があるというものだ。
そして今日、停学処分中の白沢本人から尚美に電話があった。白沢は電話を受けた母親に名前を偽るなんていう器用な真似までして、一連の出来事を尚美に語って聞かせたと言う。全部を聞いた直後、申し訳無くなって掛けて来たのが、この電話だった。
「ごめんね、わたし、何も知らないで……」
そう言って、尚美はまた一層泣き出し始めた。
話を聞く限り、尚美は本当に悪くなんかない。心からそう思う。尚美の話してくれた事は、決して水面下で起きていた出来事じゃないんだ。
私一人の目で見た世界が全てとは限らない。同じ地面の上で、同じ事件の中で、尚美や白沢、たぶんその他の人達も、それぞれの思いを持って動いてる。それぞれが影響して、作用して、因果律に従って、動いている。当事者とそれ以外との区切りなんて曖昧だ。尚美から話を聞いた今は、その事が良く解る。
私こそ、ごめん。何もかも、ごめんなさい。
知ったかぶりをしていたのは私の方だ。
教卓の横で深々と頭を下げる。壇上に上がる際、クラスメイト達が目を丸くし、息を呑むのが解った。これまでの行いを告発されるんじゃないかと恐れていたのかも知れない。でもそんな事は無意味だから――いや、それではまた物事を悪い方向へ押し転がすだけだから、しない。
顔を上げると、清水と目が合う。大袈裟に左腕を吊った清水は薄く口を開けて、驚愕の色濃く私を注視している。
彼が登校するのを待っていた。テストの返却が済み、夏休みまでの授業日数を消化していくだけの日々が過ぎ、とうとう夏休みの二日前に迫った今日、漸く清水は登校して来た。清水は相変わらずのしれっとした態度で、誰とも接せず、真面目で無害な男を演じていたけれど、でも私はそんな彼を待ち侘びていた。
この謝罪は、清水に見せなくちゃいけない。自分を再び見つめ直すに至ったのは、おかしな話かも知れないが、彼のおかげなんだ。
清水の言った、私が他人を見下しているという言葉は、本当の事だ。私はいつだって、私以外の人間の大半は糞の様なものだと思っていたし、そういう連中とは関わり合いを持つのは愚か者だと思っていた。
彼らの私にする事が、謂われの無い暴力だとは、今の私には断言出来ない。私は他人を知らず傷付けていた。どちらが先だったかなんてもう判然としなくて、寧ろそれを考える事の方が馬鹿なんだろう。以前の私は、知った風に自分が悪だと気取って一人合点していたけれど、その悪を正そうとしなかった事こそが、真の悪だ。
結局、私は自己中心的な人間でしかなかった。私が蔑み、呪う言葉は、そのままの形で私の元に返って来ていたと言うのに、自分のした事には見ないふり。それではまるで、私が嫌悪し忌避してきた人間と、なんら変わり無いじゃないか。同族嫌悪というものかも知れない。
改めなくちゃ。自分が変われば世界も変わるなんて思いは思春期の空想でしかないが、それでも私の見方を変える事が出来たら、この世界ももう少しだけ、マシに見えるかも知れない。
帰り際の清水を掴まえて、一緒に帰らないかと誘った。もう蠱惑的な笑みを浮かべるのをやめた清水は、眉間に戸惑いの皺を寄せて、答えるでもなく背を向けて歩き出す。私はそれを好きにしろと言う意味で受け取って、勝手に少し後ろを付いて行く事にした。
「……言いたい事でもあンのかよ」
間近に迫った夏休みに心躍らせる様に、騒ぐ生徒達の影も疎らになった頃、清水は振り返る事もせずに言った。私は答える。あると言えばあるし、無いと言えば無い。「意味解んねェ」と吐き捨てられた。
「あんな事して猫被りやがって。いけ好かないんだよ、オマエ」
そう思うなら、今はそれで良い。謝罪の言葉は真意だったが、解って貰えるのには時間が掛かるだろう。けれど、だからこそ、これからもこの気持ちを示していく。態度に出して、声に出していかなくちゃ、伝わらないんだ。
「本当は恨み言でも言いたいんだろ? 言えよ」
そう言われて考えてみるが、特に思い浮かばない。仕方が無いから、馬鹿とか阿呆とか小学生でも思い付きそうな悪口を、適当に口に出してみた。
たぶん、白沢の頬を切った事は、彼にとっても不本意な出来事だった。カッターナイフは、いつか誰かを切り裂いてやろうと持ち歩いていたのかも知れないが、そんな事は出来る訳が無く、出来ないから、その矛先を小動物に向けて衝動を紛らわせていたんだろう。暴れ狂う衝動を繋ぎ止めていたのが、優しさか罪悪感かは知れない。しかしいずれにせよ、ふとした瞬間に鎖を引き千切ってしまった事を、後悔しているに違い無い。そう思える人間だ。そう信じたいなんて、無根拠に思い込んでいるのではなくて、でなければきっと、私か白沢は殺されていると思う。
清水は振り返って「何なんだよ、オマエは」と、顔中で不快感を露わにした。
「言っておくけどな、オマエを構ってやろうなんて、もうこれっぽっちも思っていないんだ。オマエとはもう関わりたくないんだよ。近寄るな。これだけ言って解らないなら、また……」
別に良いよ。そう言ってやる。また良からぬ事を私にしたいと言うなら、それも悪くない。清水は狐に抓まれた様な顔をした。
毒を吐き散らしながら平静を装うのは、辛いでしょう? だったら、私の前くらいでは、今みたいな酷いツラをしたって良いんだよ。それはきっと、可哀想な猫が何匹も死んでいくよりは、余程良い事だから。
言葉を紡ぎながら、清水の吊り下げられた左腕を強く掴む。少し驚いた様だけど、なんだ、やっぱり平気じゃないか。
「今日は終業式だな」
早朝の教室で、滝田が私に向けて言った。滝田から世間話をされた事は無かったから、少々狼狽えつつ身体ごと向き直って、そうだね、と答える。誰も居ない教室は驚くくらい声が響く。私の席と滝田との席は距離があるけど、それでもお互い声を張り上げる必要が無かった。
「前から聞きたかったんだけど、なんでいつもこんなに早いの?」
相変わらずもこもことして聞き取りづらい声だが、訊ねる口調に淀みは無い。朝早くに来れば机に悪戯される事がないからだと素直に答える。今はただの習慣だけど、と付け加えると、滝田は「ああ、納得」と、少し申し訳なさそうに笑った。特に何もしていないのを私は知っているのに、返す言葉が見付からない。気まずくならない様にか、滝田はすぐ「うちはさ」と継げた。
「毎朝酔っ払って帰って来るんだよ、親父が。浮気してるんだよ。で、母親に怒鳴るんだ。朝っぱらから」
滝田はさらりと言う。
「昔っからそうでさ、そういう時は妹連れて表出る様にしてるの。それでおれも朝早いんだ」
じゃあ今日もそれで? そう聞き返そうになって、やめた。
でも、そんな辛い家庭の事情を平気な顔で語れるというのは、一体どんな気持ちなんだろう? いや、滝田にとっては、それが当たり前になっているのかも知れない。私も似た様なものだ。母子家庭がさして珍しくなくなった昨今でも、やはり私の家の様な家庭環境は異質なんだろうが、それでも私にとってはあの家が、帰るべき当たり前の家なんだ。
お返しに、私の事も話した。母と弟とで暮らしている事、父の顔を知らない事、母は仕事で殆ど家に居ない事、そしてそれを苦と思っていない事。
話し終えると、滝田は「へえ」と頻りに頷いて、言う。
「やっぱり、家は人それぞれだよなあ」
その言葉は自分に確かめさせている様だった。
滝田が持ち物を整理する為に話を切り上げた頃から、ぽつぽつとクラスメイトが顔を見せ始めた。その中に混じった木下は、ふと目が合うとすぐに逸らして、苦い顔をした。谷中と駄弁に勤しんでいた口を閉ざし、存在を消す様に私の隣の席に着く。叩いてしまった事が相当堪えているらしい。
そんな木下に、私から声を掛けた。その所為で木下はつつかれたネズミみたいに飛び上がり、周囲の興味を惹いた様だが、構わずに続ける。「アレ」を文集に載せても良いかと訊ねた。
「え? や、や、良いけど……良いの?」
戸惑った口振りが可笑しくて思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、最初からそのつもりだったけれど、一応作者の了解を得ないといけないから、と言い返す。木下は何度も頷いた。
話は他にもあった。手招きをして、口元に手を当てて内緒話の仕草をすると、木下は身を乗り出して耳を寄せた。そっと小声で囁く。
もし「アレ」がラブレターのつもりなら、全く駄目だ。ちゃんと形式通りに書いてくれたら、内容次第で考えてみるよ。
言い切って離れると、目を丸くして私を凝視する木下の顔が、見る見る茹でダコになっていった。それが剰りに面白くて、とうとうクスクス笑ってしまった。
木下を叩いた事に後悔は無い。間違いではなかったと思う。他人の人格を想像して、押し付けるのは、大変な過ちだ。そう気付いた私だから言える。
けれど、木下の気持ちに嘘偽りは無いのだとも思う。やり方や示し方はどうあれ、それが本物なら、精一杯応えなければいけない。だからと言って、二つ返事で受け入れてる事も出来やしないから、もう少しだけ考えさせて貰いたい。
きっとそれが一番だ。