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16 過ぎ去って

 窓から湿った風が流れ込む。カーテンを揺らし、裏返した解答用紙に頬杖を突く私の鼻先を、そっと掠めた。少しだけ青臭い匂いがする。花瓶のヒマワリから来るのだろうか。夏だからヒマワリ、というのは安直過ぎやしないか。

 以前あの花瓶に挿されていたのは、一体何だった?

 清水は、期末試験最終日の今日になっても登校して来ていない。何かの処分を受けたという噂も聞かないから、自主的に欠席しているんだろう。学校に通う意味を見出せなくなったのか、それとも何か思うところがあるのか、そこの所は知れない。

 居ない時間が続くと、どんどん過去の人物になって行く。当時彼に抱いていた気持ちも、今の気持ちも、もう理解出来ないものだった。どうして好きになってしまったんだろう? 今でも時々こんな風に考えてしまうのは、何故だろう? 恋なんて、冷静になって思い直してみると、まるで焚き火を遠くから眺めている様な感じだ。酷く空々しくて、白々しくて、じれったい。

 一方で、白沢には停学処分が下った。一学期中は登校出来ないらしい。佐藤から聞いた話だ。顔に数針縫う大怪我を負ったのは白沢だが、加害者だという事に変わりは無い。自業自得だと、そういう事だろう。

 でも、あいつは悪人じゃないんだ。それはきっと、私だけが知っている。


 まだ日が高い。真上の太陽にじっくり熱せられたアスファルトで、ミディアムレアに焼き上げられてしまいそうだ。肉汁――もとい、脂汗が額から流れる。前髪が貼り付いて気持ちが悪い。ハンドタオルで拭った先から溢れ出てくる。止めどなく、止めどなく、顔を濡らす。

 確かあの日も、こんな茹だる様な暑さだった。今日よりもずっと重い、六時限分の教科書やらノートやらを一杯に詰め込んだ鞄をぶら下げて、えっちらおっちら歩いていたっけ。あの日と違うのは、代替品のスポーツバッグに、中身が四科目分しか無い事と、足を運ぶのから気を紛らわせる為の考えが一つも無いという事だ。

 そっと、鞄にタオルを戻すふりをして、地面に落としてみる。そんな事をしたって白沢は現れないと、それは捨てる様なものだと解っていながら、私は足を止めなかった。

 どうにもならない。時間が戻る訳じゃないし、そうして取り返せるものなんてありはしない。だいたい、白沢とどんな顔をして会おうと言うんだ。

「あ、あの……」

 背後から聞こえてきたのは、低いぼそぼそ声ではなくて、控え目な掛け声だった。

 振り向くと、そこに居たのは木下だった。一体何の様だと視線を投げると、針で突かれたかの様にびくりと震え、さっと片腕を差し伸ばした。

「あ! こ、これ……落とした、よ?」

 その手には私のハンドタオルが握られている。全く意図しない相手に拾われてしまった様だ。

 それにしても、妙だ。木下なら、私の落とし物など無視するだろうと思うんだが。

 どうも、と礼でも無くタオルを受け取る。木下は「ああ」とか「うん」とか曖昧に呟きながら、何かを言いたげにもじもじしている。何か用でもあるのか。そういう疑問は思うより先に口から出ている。

「あ、いや、その……別に用ってほどでもないんだけど、さ……」

 胸の前で両手を振るけれど、目が泳いでいる。態度ははっきりしないが、割合解りやすい奴なのかも知れない。とは言え、ちゃんとした用件が無いのなら、付き合ってやる義理は無い。未だに言い淀んでいる木下から視線を外し、踵を返そうとした時、「ああ、待って!」とまた呼び止められる。

「あの、一緒に……帰らない?」

 何の冗談だ。罰ゲームか何かをさせられているのか?

「そこまで一緒なんだ。嫌じゃなかったら、で良いんだけど、その……」

 煮え切らない態度だが、本心からではあるらしい。私がタオルを落とさなければ、きっかけさえ得なかったという感じがする。

 嫌だ、という事も無い。木下が私に対する罵詈雑言や流言飛語の類に荷担していた事は許せないし、許そうとも思わないけれど、恨んでもいない。あれこれ鬱陶しくちょっかいを出されていたのも、最早過去の出来事だからだ。だからその通りに、嫌はないけど、とだけ答える。すると、木下は自分から言い出した癖、ちょっと驚いた顔をしてから、口元を弛ませた。

 近頃、男子と肩を並べて帰る事が頻発しているのは、一体何の因果だ。片や素顔を隠して私を貶めようとする男、片や掌を返したかの様に振る舞う男。男は単純な生き物だと誰かが言っていたが、実際の所は、複雑さから揉みくちゃにされて思考停止しそうだ。全く、何が何やら。

 木下の用が帰路を共にするという事だけで無いのは明らかだが、横を歩いていて口を開こうとしない。いや、本当は話したいのか、話題を探すか言葉を探すかして、躊躇う仕草を見せている。後ろめたさみたいなものがあるのかも知れない。私はと言えば、そんな木下にもどかしさを覚える事も無く、かと言って無関心である訳でも無く、一応にあちらから口を利くのを待っている。

 肩と肩の間三十センチくらいにわだかまりを感じつつ、数分後、私の家が近付いた頃、木下は不意に足を止めた。分かれ道の無い場所。思わず釣られて立ち止まる。

「あのさ、オレ……」

 そう言ったきり二の句を継がない。私から聞き返すと、木下は意を決した様に唾を飲んだ。

「……オレ、投書箱に入れたんだ。文集に載せるやつ……」

 それは意外だ。一体どんなものかは知らないが、小説にしろ詩にしろ、文筆に表現を頼る様なタイプには見えない。偏見だが、どちらかと言えば口先でものを語りそうに見えるし、同じ文にするにしても、ブログかSNSで無駄話や愚痴に勤しんでいそうだ。人間を外見だけで量り知る事は出来ないとは常々思っている事だが、イメージとリアルの違いには驚かされる事が多い。実名で掲載され、不特定多数の人に読まれるだろう文集に寄稿すると言う事は、それなりの経験と自信があるという事だろう。

 待てよ。それはいつの話だ? つい最近ならば、部活に参加出来ない私は知らない。もしそれ以前だとすれば、心当たりはたった一つしかない。

「確か、六月の末だったと思う……色々ある前だから」

 やっぱり、いや、まさか、木下が書いたのは「無断.txt」か!

 私が思わず大声を出すと、作者である本人はびくりと身体を震わせて、小さく二、三度頷いた。

 重ね重ね驚いてしまう。他人の印象なんてどこまでも当てにならないものだ。私の抱いていた作者像と木下とでは、食い違いが剰りに大きい。少なくとも、木下が部屋の片隅で膝を抱えて居る様な種類の人間とは、どうしても思えなかった。

 ふと、尚美の言葉を思い出す。


『嘘を吐いている感じがする』『自分じゃない自分を演出してる』


 ああ、そうか。やっぱり尚美は凄い。文章を読み解く力に優れている。尚美の読みは、正しかったんだ。

 なら、あれは一体何だったんだ? 「無題.txt」は一体何を書いたんだ?

 木下は言い淀む。それこそが打ち明けたかった事なのか、俯いて目を忙しなく左右に走らせている。そして徐に言った。

「……あれは、お前の、大嶋の事を書いたんだ……」

 私の事? つい聞き返すと、血が頭に上るのを感じた。ずっしりと脳が重くなる。

「オレ、お前の事が、その……す、好きだから!」

 自ら口走った言葉を拒絶する様に、木下は固く目を閉じ、拳を握る。

 好き? 私を? 口に出して反芻する度、心臓がポンプ運動を早め、上気して耳まで熱を帯びていくのが解る。そとから見れば紅潮しているだろう私の顔は、今にも燃え上がってしまいそうだ。額や鼻先や、背中や掌に、脂汗が滲む。

 好きって、何だ? 私を好きって?

 零れ出る声が、舌先が辛うじて作り出す言葉が、喉を熱くさせる。とうとう掠れて言葉の無い吐息になっても尚、焼き焦がしていく。

 恥ずかしさじゃない。喜びじゃない。そんな感情じゃない。

 これは、怒りだ。狂おしい程の憤怒だ。吹き出してくるのは、体中の血液を噴出してしまいそうな激情、嫌悪感。

「オレ、前から好きだったんだ! でも、除け者にされるのが怖くて、酷い事言っちゃって……ほんと、ごめん……」

 木下の声が生温く耳の中に流れ込んで来る。

 勘違いだ。思い違いだ。見当違いだ。黙れ。

 お前が一体何をした。お前のその気持ちが、何をしてくれたって言うんだ。あいつの凶行を止めたか? あいつが傷付くのを防いだか? 私をこんなに惨めにさせただけじゃないか。傍観者が何も知らない癖に何もかも知った風をして、見ても居ない癖に全てを見透かしたふりをして――。

 鞄が肩から落ちる。どさりと崩れる音がする。

「大嶋、オレと付き合って……!!」

 乾いた音が湿った大気を打ち払った。私の右手が左上にある。木下の左頬がじわりと赤くなる。

 嬉しくない。いらない。欲しくない。一方的な慰め。独善的な恋。偽善的な愛。そんな傲慢さは、押し付けられても辛いだけだ。

 愛して欲しくなんかない。


 午後六時。携帯電話が鳴った。ディスプレイには尚美の名前が表示されている。

「……あの、もしもし……」

 通話ボタンを押下してから一拍の間を置き、聞き慣れた声がおずおずと言った。それを聞いてから初めて、どうしたの、と応えた。

 暫く、無言のノイズに紛れて尚美の息遣いがする。いつまでも用件を言い出す気配が無いから、私の方から訊ねてみた。すると、

「……ごめんね」

 ぽつりと尚美が言う。何を謝っているんだろう。私には解らない。

 肘の内側にぽつぽつ浮き上がる、小さな赤い球を見ながら、大丈夫だよ、と答えた。

 私はもう大丈夫。怒りは無い。痛みも無い。ありとあらゆるものが、綺麗さっぱり抜け落ちた。

「大丈夫じゃないよ! 全然、大丈夫じゃない!!」

 突然、電話越しに強い言葉をぶつけられた。少し面食らっていると、尚美は重ねて言う。

「わたしがしっかりしてたら、めぐるが傷付いた時、一緒に居てあげられた。めぐるが独りで辛い思いをしなくて済んだの! わたしも酷い事しちゃったから、だから、だから……!!」

 一息にそこまで喋って深く息を吸うと、後は嗚咽に変わっていた。すすり泣きの合間から、また「ごめんなさい」と言う声がした。何故そんなに必死に謝らなくちゃいけないんだろう。いつもなら「めぐちゃん」なんて、気安く呼んでくれるのに、どうしてそう出来ないんだろう。

 私は平気だと言った。いくら友達だと思っても、口約束を交わしても、所詮は他人同士、解り合える訳が無い。何かがあって、友達だと思う事が出来なくなるのも、約束が無かった事になるのも、それは仕方の無い事なんだ。繋いだ手は、両方から引っ張られたり誰かが間に入ったりした時、簡単に解けてしまうものなんだ。それを後になってどうこうしようと思っても、悔いても詫びても、どうしようも無い。また繋ぐ事は簡単に出来るだろう。けれど、それまで互いの掌で暖め合っていたぬくもりは、取り返し様が無い。

 だから、大丈夫。それが自然で、必然だから、そんなに謝らなくて良い。

「違うの! 全部わたしが悪いの……」

 別に尚美は悪くないよと言ってあげる。電話の向こうで、激しく頭を振られるのが解った。

「わたしね、好きなの……白沢君の事」

 はい? 私は思わずそんな聞き返し方をした。好きだの何だのはもううんざりだ。けど、尚美が白沢の事を好きだったとは、聞き捨てならない。頭の中が疑問符で埋め尽くされて、それが口から飛び出してしまいそうだった。それを何とか抑えつつ、それが何の関係があるのかと、それだけ聞き返す。

 しゃくり上げる事の方が多くて、尚美の語る事は要領を得なかったが、大体は知れた。

 白沢が私の原稿を破ったんじゃないかと疑惑が上がった後、本当にそんな事が奴に出来るのか、怒り半分とその疑念半分とを持ち、本人に確かめに行ったらしい。「そんな事するかよ」と白沢はあっさり否定した。

「腹癒せなら三年のあの人にするよ」

 確かに、白沢を部室から追い出すに至ってしまった時、一番強く出たのは高橋だ。剰りにあっけらかんとした様子に驚き、なら原稿が破られた事は知ってるか、と問うと、「まあね」と白沢らしい肯定の仕方をした。そして、修復して私に手渡してくれた事を聞いた。

 その時尚美は、白沢という男の人格を見誤っていたのだと知った。

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