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15 嵐の後

 担任が連絡をすると言ってから一時間弱、母が迎えに来た。たぶん仕事を切り上げて来てくれたんだと思う。ファンデーションが汗で流れている所為か、幾分疲れて見えた。いや、それも仕事の所為ばかりじゃないだろう。

 接待室で行われた事情説明は酷く簡潔なものだった。私の鞄に何者かが「悪戯」をした事。教室内で喧嘩があり、その仲裁を私がした事。怪我人が出た事。学校が何を把握して何を把握していないのか、これまで何があったかは、はっきりさせないまま。ショッキングな出来事が立て続けに起きてしまったから、大事を取って来て貰ったのだと言う鈴原の言葉を、母は神妙な面持ちで、小さく頷きながら聞いていた。

 私はその間、始終清水の事を考えている。彼は今どうしているだろう? 生徒指導室で取り調べを受けているんだろうか。だとしたら、いつも通りの清水君を装って、正当防衛を訴えているかも知れない。

「ご迷惑をお掛けしました」

 鈴原に職員玄関まで見送られ、隣の母が頭を下げた。校長室前の水槽で、ネオンテトラがきらきら泳いでいるのに見とれていると、アンタも謝んなさい、とばかりに背中を押され、渋々頭を下げる。ぎこちない動きはまるで糸の切れた操り人形だと、我ながら思った。

 どうして母が謝るんだろう。迷惑したのは母の方じゃないのか。

 車に向かって早足に歩いて行く母の後ろ姿が、見る見る遠ざかる。怒っているだろうな。これまでに学校であった出来事は容易に想像できただろうから、私が嘘を吐いたのも気付いてしまったはずだ。相談してくれれば、という気持ちがあるかも知れない。結果的に、母を裏切ってしまったんだから。

 無言で助手席に乗り込んだ。そう言えば、母の運転する車に乗るなんて久しぶりだ。一年ぶり、とは言い過ぎだが、それくらい久しぶりだった。仕事柄、休日と休暇が重なる事は滅多に無く、正月も盆も暮れも我関せずと働いている様な人だから、一緒に出掛ける機会というのもそうそう無い。車は専ら通勤用だ。最後はいつ、どんな用事で乗ったかと、思いを巡らせてみる。


 そうだ。あれは去年の冬、ぶ厚い灰色の空から雪でも降りそうな朝じゃなかったか。いや、寒い寒いと震えていたのは私だけだっただろう。前日から発熱し、翌朝の体温は三十九度七分まで上がっていた。熱に浮かされながらも学校へ行こうとしていると、普段は寝ている母が偶然にも早起きをしていて、赤い顔をしてコートを着込んだ私を見るなり、酷く慌てた様子で車に乗せられたんだっけ。記憶を辿ると、焦りながら運転する母の横顔が思い出される。母の勤める病院に担ぎ込まれ、急患扱いで診察を受け、点滴を打たれた。発熱以外の症状も無く、単なる風邪だと解ると、母は安堵の笑みを浮かべて、そっと私の手を握ってくれた。緊張感から解放されてかこぼした、

「どうして言ってくれなかったの」

 という一言は、本心の吐露に違い無い。その時、母は私に「何かあったら言って頂戴」と約束させた。

 でも、その約束は果たしていない。


 だから母は口を利かないんだろう。約束を反故にされてしまったから、怒っている。私も私で、唇を二枚貝の様に合わせて開かない。本当は謝らなくちゃいけないんだ。ごめんなさいとか、怒らないでとか、許しを請わなくちゃいけない。けれど、私だって仕方が無かった。毎日母の疲れた顔を見ていて、愚痴を聞いていて、私の話なんて出来る訳が無い。

「怖かったでしょ」

 不意に、母が言った。思わず、え、と間抜けな声を上げてしまう。

「怖い思いしたんじゃない? 色々」

 母は真っ直ぐ前を見据えている。

 責められるか詰られるかすると思っていたから、母の言葉は意外だった。親として子供を心配するのは当然の事かも知れない。でも、母の声は考えた末にやっと捻り出したものに聞こえて、それが剰りにスムーズに胸の中に落ち着いていった。そう、心配してくれているんだ。当たり前の事なのに、何故か目頭に熱いものを感じる。

 ああ、そうか。また一つ思い出した。


 小学校一年生の頃、私は近所の公園で遊んでいた。友達の女の子達と砂場で山を作るなんて他愛も無い遊びをしていると、そこに男の子達が割り込んで来て、砂山を崩されてしまった。友達は泣いたけれど、私は無性に腹が立った。私は当時から、怒りはするけど食って掛かる様な事はしない、捻くれた子供だった。だから、いや、だからと言える理屈は無いが、見返してやろうと思って、サクラの木に登ったんだ。今では制服以外に穿かない、スカートなんかを穿いていたけれど、構わず登った。それまで木登りの経験なんて無く、どんな枝が安全かを知らず、そんなだから必然的に、足を掛けた枝が折れ、私は転落した。

 幸い肘を擦り剥いた程度で済んだけど、落ちる拍子にスカートを破いてしまった。服は砂だらけ、泥だらけ。顔は涙と鼻水だらけ。そんな酷い有様で家に帰り母に泣き付く。すると私が泣き止まずのも待たず、

「何やってるの!」

 と怒鳴り散らした。こぼれ落ちる涙は吃驚して止まる。母は私の肩を掴んで、大きく揺さぶった。何故怒られなければいけないのか、全く解らない。何故? どうして? 居たい思いをしたのは私なのに。スカートを破ってしまったから? 汚してしまったから? すぐ目の前にある母の目が、怖かった。ごめんなさい、ごめんなさい、お母さんごめんなさい。私は何度も謝ったけれど、母は許してくれなかった。

 その時はただただ理不尽さを感じていたが、母はこう言っていたんだ。

「危ない事をして!!」


 ごめんね。

 私は初めて、心の底から謝った。許して欲しいなんて自分本位の感情じゃない。母がどんな想いで言葉を選んでくれたのか、どんな想いで叱ってくれたのか、それが解ったから、今更気付いたから、申し訳なくて。

「どうしたの?」

 歌う様な、子供をあやす様な口振りで母は言う。私もまだ子供だ。

 白沢は、どうしただろう。ふと考える。あの後すぐ保健室に運ばれたから、今頃はきっと病院か。

 ちゃんと叱って貰えただろうか。叱ってくれる人は、居るだろうか。


 幸い弟は遊びに出掛けていて、変な詮索をされる事は無かった。

 リビングに鞄を放り出し、真っ先に浴室へ向かった。体中にまとわりつく脂汗と血の臭いを洗い流したかった。臭いというのは本当にしつこいものだ。降り掛かって来た訳でも無いのに、離れようとしてくれない。時折、母の身体から消毒液の臭いを感じて、迷惑だと嫌悪する事があった。今にして思えば、酷い言い掛かりだ。

 ブラウスを脱いで初めて気付いたが、肩や背中の辺りに赤い斑点があった。凝固した血液が黒い縁取りを作っている。白沢の血だ。

 また増えちゃったな。

 何と無し、そんな事を思った。頬に大きな傷痕だなんて、時代劇の悪役みたいだ。前髪で隠しきれるだろうか。

 私の責任だ。私の所為で、あいつは傷付いた。どう謝れば良いんだろう? どうすればあがなえるだろう?

 考えれば考える程寒くなって行くから、シャワーのコックを捻った。


 翌日の学校では、誰も彼もが一様に、私を見て驚いた顔をする。余所余所しいと言うと元々がそうだから妙なんだが、変に意識をしてかぎこちなくなる。例えば、教室に入るまではベラベラと喋っていたのが急に黙りこくったり、突然机の中を整理し出したりと、ちぐはぐな事をし出す。沢村でさえ、私と目を合わせない様にするのがやっと、という感じだった。

 殊更珍妙だったのは、デブの滝田と、木下だ。

 滝田は、教室に入って来た直後にぴたりと足を止め、締まりの無い下唇を突き出して、「良く来たな」などと、まるで教室の主になったかの様な事を口走った。

 木下については、一度自分の席に着いた後、私の顔をちらちら見ながら逡巡し、意を決した様に、「あの、あの」なんて、つっかえつっかえ話し掛けて来た。

「だ、大丈夫?」

 何が? と聞き返してやると、「あ、いや、その、何でも無いけど」だとか、しどろもどろ言い訳をするのと同じ調子で、曖昧な事を言った。

 まあ、私が依然とこの席に座ってる事は、誰にだって意外だったろう。皆、暫く私は欠席するものと思っていたに違い無い。その証拠に、チャイムの後やって来た鈴原も、ぎょっとした様子だった。

 もし、誰かに何故学校へ来たのかと尋ねられたら、私は答えられない。自分でも意地になっているだけなんだと思う。

 結局、清水は来なかった。それはそうだろうと思う。学校から処分を受けたのかは知らないが、あれだけの騒ぎの後だ。来ない方が正常だろう。


 静かなものだった。つい昨日までは何かとちょっかいを出してきた奴らが、今日は一切手出しして来ない。授業中に後ろからホチキスの針を飛ばされる事も無ければ、トイレに立って尾行される事も無い。平和そのものだった。無視をしているのとも、関わりを断とうとするのとも違う様だ。

 日常を取り戻すのに必死だ。私にはそう見える。ただ、空回りしている。本当に日常に戻そうとするのなら、いつもの様に手出ししてこなくては、全くの非日常を作り出してしまうじゃないか。

 きっと清水はやり過ぎたんだ。戦争に条約があるのと同じく、嫌がらせにも暗黙のルールがあったんだろう。流血沙汰にまで発展したそれは、嫌がらせの範疇を超えてしまった。ルールを超越した攻撃はテロリズムだ。剰りに過激で衝撃的だったばかりに、戦争当事者達も引いてしまった。

 これが結果的な終結なのか、一時的に沈静化したのかは解らない。しかし、私の周囲を取り巻く状況が、望まぬ形で思わぬ方向に向かったのは、確かな事だ。

 感謝でもすれば良いのか。そんなのは、まともじゃないが。

 それにしても、空虚だ。何も無い一日というのが、こんなに虚しいだなんて知らなかった。部活という拠り所、尚美という友人を失って、対抗すべき相手と、清水という対抗の理由さえ無くした今、この学校には一体、何が残っているんだろう?

 いつの間に梅雨明けしたんだろう。と言うか、いつから梅雨だったんだろうか。解らない。成る程、数学の授業が期末試験対策だったのは、そういう事か。自分の身の回りの事に囚われてばかりいて、季節や季候という大きな事に目を向けている暇が無かった所為だ。けど、これからはいくらでも見られる気がする。

 小説を書きたいと思わない。恋はもうしたくない。友達付き合いにも疲れた。敵とか悪とかどうでも良い。

 帰りたい。窓の外に広がる青空、遠くにのっそりと佇む積乱雲に向けて、口の中だけで呟く。そうすると、瞬く間に気力が萎えていった。生きる気力と言うか、青春の日々を過ごす気力と言うか。

 これでお終い。そんな言葉が頭に過ぎった。


 放課後、またも鈴原に生徒指導室へ呼び出された。そこで待っていたのは鈴原と、文芸部顧問の国語教師、佐藤だった。佐藤は私が入るのを見ると、眉をハの字に曲げて腰を浮かし、正面に座る様促した。

「いきなりでごめんなさい。白沢君の事でちょっと聞きたい事があって」

 佐藤はそう切り出した。

「先生達が聞いた話だと、白沢君からいきなり殴り掛かったって事なんだけど」

 それは事実だ。

「でも、白沢君は訳も無く人に手を上げる様な子じゃない。それにわざわざ別のクラスに行って、なんて、道理が通らないわ。だから本人に事情は聞いてみたんだけど……」

 何も言わなかった、という事か。別に違和感は無い。あいつはベラベラとものを語るタイプじゃないからだ。自分が何を思い、何をしたかなんて、素直に話す訳が無い。

 でも、それではあいつ自身の身が危ない。それはたぶん、白沢自身が一番解っている事だろう。

「あなたにあんな事があった後だから、もしかしたら関係してるんじゃないかと思ったの。もし何か知っているなら、教えてくれないかしら」

 私の目を覗き込みながら、ゆっくりと問い掛けてくる。私の身に起きた事件と、白沢が起こした事件。二つに関連性を見出しているのは、明らかだった。まあ、余程の馬鹿で無い限り思い付く事だろう。

 ただ、何故関わりがあるのかは、私もよく解っていない。何も知らないんだ。頼んだ訳ではないし、それほど親しくしていたのでもない。知らぬ存ぜぬと責任転嫁をするつもりじゃないが、あれの全ては白沢の自由意思だ。あいつの心理を読み解く事も、私には出来ない。

 だから、白沢が何も言わなかった場合、私の口から語れる事なんて、ありはしないんだ。

 何も知りません。私はそれだけ答えた。

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