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14 カッターナイフ

 教室に戻ったのは六時限目の途中だった。教室中の生徒や教師までもが、後ろ側の戸から入った私をハッと見遣る。まるで幽霊でも見る様、と言ってしまうと平易だが、まさしくそんな目付きだった。

 その中で一人、微かに鼻で笑った人物が居る。普段通りの清水君の顔をした、清水彰だった。私が打ちのめされるのも、気丈に振る舞うのも、彼にとっては笑えるリアクションなのかも知れない。

 床は何事も無かったかの様に掃除され、私の鞄も消え失せていた。教員連中が処理したのか。まあ、どう後始末を付けたところで、授業日程を変更せずに済むとは思えない。それでも授業が行われているのは、大人の傲りだろう。誰も何食わぬ顔をしてはいられない。現に、私の顔を見ただけで、思い出し泣きをしてしまいそうな顔をする生徒もあった。

 席に着いて間も無く、独りでに保健室を出たのを知った担任の鈴原が、教室に駆け付けて来た。痩せこけた中年親父が肩を切らせている様を見るに、相当慌てたらしい。労う気持ちは無いが、彼が用件を口にするより早く、下ろしたばかりの腰を上げた。

 この短期間で生徒指導室に二度も呼び出されるなんて、余程の不良でもそうそうある事じゃないだろう。私も立派な問題児になったものだ。

「何があったのか聞かせてくれ」

 そう言ったのは、毎度お馴染みの安斎だ。ティーシャツの袖もきつそうな、筋張った両腕をテーブルに載せて、少し前のめりにゆっくりと話す。どうやら、私が被害者だという認識はあるらしい。

 失笑せざるを得ない。私の身の回りで何が起きていたかなんて、とっくに把握しているはずだろう。こうしてまた生徒指導部が動いたのも、今回が度を過ぎていた為に、被害が私個人に止まらず、他の生徒連中に悪影響があると判断したからに違い無い。見え透いている。教師というのはつくづく現金な連中だ。全体主義的だとも言える。

 何もありません。私はそう答えた。教師らは当惑して互いの顔を見合わせる。これまで何も無かった事にしていたのは、どこのどいつだと問いたい。

「じゃあ、誰があんな事をしたのか、解るか?」

 成る程、彼らにはたった一人の悪人が必要な様だ。この人達にとっては、個と全は対義であるらしい。つまり、全が個に対して作用するなら全は無視し、個が全に作用した場合には個を取り沙汰しようと、そういう事だ。

 なら、ここで清水彰の名を出した場合、どういった反応を示すだろう。あれが言う様に、まさかと強く否定されるだろうか。私の言う事だから、という事よりも、清水彰に対する誤解、肯定的な意見が強く働くだろう。告発は全くの無意味だ。

 だからこう答えた。

 私がやりました。

「何……?」

 清水は目を見開き、安斎は逆に大きな目を細めた。「どういう事だ」と問い返され、私は、自分で鞄に入れました、と言った。

「そんな訳ねえだろ」

 奥歯を噛み締め、牙を剥く様な顔付きをする。相手を脅し掛ける時、本能的にする表情だ。だが、そんな顔をされても、別にどうという事は無い。

 私が子猫を殺し、鞄に入れ、学校に持ち込んだ。という事にする。それで良い。

 安斎は暫く私を睨んだが、やがて肺の中を全て吐き出す程の溜息と共に、頭を掻いた。

「訳解んねえな」

 苛立ちを隠そうともせずに言う。

「どうして庇うんだか」

 別に、庇護するつもりは無い。犯人の名前を挙げても無駄だと判断したに過ぎないんだ。それに、私自身も理解出来ていない、複雑な心情が絡んでいる。

 清水が私に悪戯をした。だから、どうなんだ? それを言いふらして、何になる。彼を悪にして、私は何になるのか。それが解らない。少なくとも、善にはなり得ないんだ。させたのは私なのだから、多少の罪はあるはずだ。これまで通り、私一人が悪人だとしていた方が楽だと思う。

 許すか、許さないか。実際問題はそこのところだろう。彼がした事は、別人のした何かよりも数段に、比べものにならないくらいに、酷い事だ。普通なら許しておけないだろう。けれど今の私は普通じゃない。勿論、許そうなんて気持ちは無いが、同時に、絶対許さないという気持ちも、涌いてこなかった。

 まだ好きなんだと思う。馬鹿げた事に、嫌いになる要素を感じない。狂っているな、私は。今更ながらそう思った。

 誰がやったのか、誰を庇っているのか。繰り返されるそれらの問いに、私がやったの一点張りを続けた。押し問答にもならないまま、六時限目の終わりを告げるチャイムが、時間切れだと鳴った。

 代わりのスポーツバッグを受け取って、鈴原と教室に戻る。先程と全く同じ視線が集中した。しかし清水に関しては、私の方に目もくれず、机の中身を鞄に戻していた。

 連絡事項を述べる鈴原の口振りは、教室で起きた一件から逃げる様でもあり、生徒達の記憶を呼び起こすのを避けている様でもあった。こういう対処はきっと、いずれ近いうちに後悔を招く。この事はすぐに生徒の親達に知れるだろうし、そうしたらPTAも黙ってはいない。その時やり玉に挙げられるのは、担任である彼なんだ。当然、私も素知らぬ風は装えないだろうが。

 起立。礼。さようなら。

 白紙に戻したい大人と、白紙に戻せない子供達の間に齟齬が生まれたまま、ホームルームは終わり、鈴原は逃げる様に教室を出て行った。普段はざわめく教室も、今日ばかりは無言に満ちたまま放課後を迎える。それぞれ重いものを飲み込んだ面持ちで鞄を取り、出口に足を向けた。

 私も帰ろう。教科書でごつごつとしたバッグを肩に掛け、顔を上げる。

 違和感を覚えた。いや、明らかに異質な存在を見た。

 白沢が教室に入って来た。鞄も持たず、手ぶらだ。放課後でも他のクラスの人間が入ってくるのは希だから、他の生徒もこの異様さを感じ取り、一同足を止め、白沢の姿を見遣った。

 白沢は私の方にちらりと一瞥をくれると、早足に通り過ぎていき、清水の傍に歩み寄った。

「お前だろ?」

 いつもと変わらない調子で言った。いつも通り、主語の無い、ヒントだけで解答の無い謎掛けの様な言葉遣い。清水は清水君のまま、動じる気配も見せず、アメリカ人の様に肩を竦めた。

「何が?」

 周囲には、この遣り取りに何の意味があるか解らない様子だったが、私には解った。白沢は、犯人はお前かと問い、清水は白を切った。白沢は清水が子猫を殺した一件を知っているから、噂を聞き付け、すぐに結び付ける事が出来たのだろう。

 たった一言の詰問、たった一言の受け答えで、白沢は全てを悟った。

 それから先の行動は、咄嗟にした事ではなかったはずだ。白沢は始めから確信を持ち、そうするためにやって来た。

 俄然右腕を振り上げると、固く握りしめた拳を、清水の頬目掛けて振り抜いた。拳と顎骨との間に鈍い音がする。つい先日私がさせたそれより、何倍も重く、低いものだったと思う。清水は蹌踉めきながらも踏み堪えるが、出した先から膝が折れ、崩れ落ちた。

 はっと息を呑む音で、教室内が真空になってしまったかの様だった。まるで時間が止まり、世界が静止画の中で呼吸を止めたかの様だ。白沢という異世界の男と、清水という別世界の男。二人が巻き起こしたブラックホールが、クラス中の意識や思考を吸い込んだ。

 白沢は固めた握り拳をゆっくりと下ろしつつ、肩を怒らせたまま繰り返した。

「お前がやったんだろ?」

 まだ惚けるのなら考えがあるんだ。そう言わんばかりだ。口調は穏やかだが、その裏にある激しい感情は隠していない。

 清水は些か脳を揺さぶられたらしく、顎を押さえながら目眩を振り払う仕草をしていたが、やがて唸る様に言った。

「何の事やら……」

 それを聞くや否や、白沢は清水の机を蹴り飛ばす。文字通りに蹴り飛ばされた机が、椅子諸共けたたましく床に倒れ、清水の横に跳ねた。白沢らしからない、激しくて荒々しい行い。

 誰も皆、見守るばかり。止めに入る事も出来ず、ただただ立ち尽くしている。私も同様だった。膝が震えている。誰かがこれ程、怒りを露わにするのを見た事が無かった。

 清水が膝を押しながらゆっくりと立ち上がり、白沢と対峙する。顎から手を離した時、その顔は明らかに、私の前だけで見せた、悪意を剥き出しにしたそれに変わっていた。

「……オマエさ、何の証拠があるって言うワケ?」

 殴り返そうとせず、言葉で反撃をする。平静を装ってはいるが、その口調は噴き上がるものを抑え切れない様子だ。ここが教室で、クラスメイトの面前だという事を忘れている。それにそう問い返しては、白沢が何を示唆しているのかを理解し、またその犯人が自分であると、言葉の裏で認めている事になる。賢明と言うべきか狡猾と言うべきかは解らないが、兎に角知恵の働く清水にしては迂闊な発言だ。それだけ彼も動揺していた。

 白沢はこの自白を誘っていたのかも知れない。もしそうなら目的は達したはずだ。しかし白沢は、清水の言葉を聞いて尚更に怒りを募らせた。

「そうかよ」

 全てを知った上で、白沢は近くにあった椅子を掴んだ。そして素早く、清水に投げ付けた。椅子は清水の左腕に打ち当たり、勢いを失わないまま、机の上を転げた。その近くに居た女子が咄嗟に屈み込み、頭を抱え、悲鳴を上げる。白沢は他人への危害など気に掛ける素振りを見せず、腕を庇って再びうずくまる清水目掛け、新たに椅子を振り上げた。

 振り上げる動作に躊躇いは無かった。頭上高くに掲げた椅子を、今にも全力で振り下ろそうという構えに、例えその結果清水が死ぬ事になっても良い、そんな鬼気迫るもの、殺意の様なものを感じた。

 いけない! 私の脳が叫ぶ。けれど身体はぴくりとも動かず、口も舌も、声を発する事をしようとしなかった。


『俺は守ってやれない』


 白沢はそう言った。

 白沢という奴は酷く不器用だ。庇い立てをする、何かが起きない様に防止策を練る。そういう賢い真似が出来ない。だからこうして、事が起きてから、報復に打って出る事しか出来ない。そう言いたかったのを、不器用さから上手く言葉に言い表せなかったんだろう。

 攻撃しか出来ず、それすら無意味だとしたら、こんなに虚しい事は無い。

 私は復讐なんて望んでいないんだから。

 振り下ろされた椅子を、清水は避けた。けれど残した左腕に当たり、呻き声を洩らす。二度までも強か殴られた左腕はだらりと垂れた。

 いよいよ、清水も為されるままに出来なくなった。沫と共に叫ぶ様な怒号を飛ばし、右のポケットに手を突っ込む。取り出した何かで、白沢に反撃した。頬を狙った一撃に空振りに見えた。音も無く、白沢も僅かな首の動きで受け流した様だったから。

 でも、白沢の頬はぱっくりと、まるでもう一つ口が出来た様に、裂けていた。清水の手にはカッターナイフが握られている。

 鮮やかな赤い液体が溢れ出す。頬を伝い顎を伝い、どばどばと流れ落ちる。その感触に驚いてか、白沢が頬に触れ、傷口を撫でる。そして掌を真っ赤に染め上げられたのを見て、目を色を変えた。歯を剥き、眉を吊り上げて、驚愕の表情を浮かべる。

「……てめえ」

 呟き声は微かに掠れ、大きく見開いた瞳をぎょろりと清水に戻した。

 清水は、この時になって初めて、自分が何をしたのか気が付いたんだろう。自分の手に握り締めたカッターを取り落とし、「僕は悪くない」とうわごとの様に口にした。

「僕は悪くない……僕は悪くない……僕は……僕は……」

 下唇が痙攣している。きっと、人を傷付けた事が無いんだ。それが出来ないから、小さな動物を捌け口にするしかなかったんだ。

「てめえ!!」

 白沢の絶叫で、教室中が震えた。これまで以上に憤怒を露わにして、清水に殴り掛かろうと拳を振り上げる。

 解らない。この瞬間、私の身体が勝手に動いた。思考より早く、頭よりも腕が、脚が、駆け出していた。どうしてか、解らない。思わず白沢に飛び付いていた。

 白沢の腰に腕を回して、間に入る形で押さえた。軟弱そうに見えて、白沢も男だ。私なんかよりもずっと力が強い。白沢が一歩を踏み出そうとする度、私は滑る足を二歩も三歩も踏まなくちゃいけない。それでも無我夢中で食らい付いて、止めようと必死だった。

 そんな事はして欲しくない。もうやめてくれ。

 私は何度も叫んだ。これ以上傷付いて欲しくない。だから、何度も何度も叫んだ。

 返事は無い。代わりに、血の雫と獣の様な息遣いが、頭の上から落ちてくる。

 背後で清水がへたり込み、教師が騒ぎを聞いて駆け付ける足音がした。

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