13 豹変
まるで何事も無かったかの様だった。清水君は平素と変わらない。前日に一匹の子猫を惨たらしく殺したと言うのに、平然としている。怖い。ワイドショーで聞く、肉親を殺す成績優秀で大人しい人間というのは、彼の事なのかも知れない。
それでも、いや、だからこそ、助けてあげたいと思った。
一晩寝ずに考えて、この目で見た真実を信じないなんて非建設的なのはやめた。全てが歪み無く完璧で、非の打ち所が無くて、清い心しか持ち合わせていない人間なんて居ない。そう思う事にした。
人間は誰だって、腹の中に黒い獣を飼っている。そいつはいつだって貪欲に牙を剥き、よだれを垂らして、獲物を狙っている。多数派の一見善良な人間も、獣を飼い慣らす事を覚えているだけだ。そういう人間も、ふとした拍子に手綱を取り損ね、抑制していた分を一気に解き放ってしまう事がある。獣が他人、或いは自分の喉元に食らい付く。もしそうなるのを防ぎたいなら、どうするか。何かしらの手段で餌を与えてやるしかない。
私の場合は小説を書く。物語の中で、獣を好きな様にさせてやる。望む通りにさせてやる。人を殺したって構わない。作り事の中では、餌は食い放題だ。
清水君は、子猫を殺す事でしか、満足させてやる術を知らないのだろう。手段はいくらでもあるのに、たった一つにしか気付かず、他を知らない。たぶん、それだけの事だ。
だから、助けてあげたい。他の方法に気付かせてあげたい。その為に私が出来る事なんて何一つ無いかも知れないが、けれど、そう願っていたい。
朝のホームルームで、進路アンケートが配られた。卒業後の進路や将来の夢についてを問うている。一年生の頃にも書かされたが、その時私は何と書いただろう。憶えていないが、きっと当時の私は何も考えず、進路に高校と書き、将来の夢を小説家と書いた。
名前も書かずに、鞄にしまい込んだ。
期末試験前、最後の水泳の授業は、前回のタイム計測で欠点を取った者と不参加者だけが再計測、他はずっとレクリエーション。これは好都合だった。更衣室以外では公的な理由で隔離されるし、連中は遊ぶのに夢中で私など眼中に無い様子だからだ。練習で入ったプールの水は冷たく、生憎の曇り空の下では心地良いものではない。
プールサイドで、白沢は相変わらずブラシを杖に立ちん坊している。成績表なんかはどうでも良いらしい。ちょっと見るだけで目が合う。私の水着姿がそんなに珍しいのか。
ところで、清水君は何処へ行ったんだろう?
「あいつは保健室」
プールを上がりスタート位置に戻る際の、すれ違い様の一言で、白沢は私の疑問を解消させた。見学の報告をしに行った時、一緒になった様だ。体調が悪そうな様子は無かったが。この授業は無駄だと踏んだのかも知れない。
欠席の裏に何かあるとは、この時から何と無く悟ってはいた。真相を知るのは、それから数時間後、給食の時間だった。
給食の品を極端に少なくされるのは、最早特筆する必要すら無い事だ。強いて挙げるなら、ミネストローネをただの赤色をしたお吸い物にされた。解りやすい嫌がらせだ。まあ、私は元々小食だから気にしない。
清水君は、水泳の次から当たり前の様に授業を受けていた。誰もそれを責めないが、代わりに心配もしない。清水君が居るとか居ないとかを気にしていないんだ。有っても無くても良い存在。構う事も構われる事も必要としない人間。清水君はこのクラス、いや、学校で、そういう立ち位置に居る。少し羨ましかった。
しかし、だとしたら私を庇護したのは、一体何故だろう?
「何か臭くねえ?」
教室の隅からそんな声がした。谷中の声だ。それを聞いた誰かも「本当だ」と同調する。クラス中が静かになる。それぞれ鼻を利かせて、臭いの発生源を探した。
「なあ、この臭い、ケ……大嶋の方からしねえ?」
ケムシと言い掛けてやめたのは、鈴原が居るからだろう。
クサイという言葉はキモイに次いで頻繁に聞かされるが、今度の場合、謂われ無く貶める為に使われたのではない。何故なら、私の鼻も、異臭を感じていたからだ。生臭い様な、生肉の腐った様な、言い知れようのない悪臭だ。谷中が騒ぎ出す以前から感じ始め、時間を追う事に、徐々に強まっていた。
「オ、オレは鼻が詰まってるから解らない」
そう言ったのは、谷中とよく連んでいる、隣の席の木下だった。だが鼻が詰まっている程度で解らなくなる程、生易しいものではないと思う。
私じゃない。私であるはずが無い。そう自分の持ち物を確かめる事はしないでいたが、それも限界だった。兎に角酷い臭いがするんだ。
机の中を覗き込んでみる。教科書も引き摺り出してみるが、何も無い。水着かと、体操着と一緒に放り込んだビニール袋も開けてみるが、ツンと鼻に来る塩素の臭いしかしなかった。後は鞄だ。臭いは目に見えないが、疑ってみると、何か得体の知れない雰囲気を感じる。顔を近付けて、鼻を覆った。確かに、汚臭は鞄からした。恐る恐るフックから外し、手に取ってみる。空のはずだったのに、僅かな重量感があった。また何かの悪戯に違い無い。
膝に載せて、鞄を開ける。途端、臭いが立ち上り、私の鼻腔を強烈に刺激した。
中身をそっと覗くと、愕然とするより先に身体が動いた。脊髄反射的に鞄を突き飛ばし、席から立ち上がる。べちゃり。木下の足元に転げた鞄は、確か、そんな音を立てたと思う。そこから先は全く無音の世界だった。
鞄からじわりと広がるどす黒い液体。血だ。鞄の中に見たのは血溜まりと、そして、グロテスクな肉の塊。形を成さないそれは、骨が混じり、毛の混じる、子猫のミンチだ。
床がぐらりと揺れる。いや、揺れたのは私だろう。視界が大きく傾き、立っていられなくなる。どこか遠くから誰かの悲鳴がする。どこからか私の名前を叫ぶ声がする。
清水君の顔が見えた。表情は無い。その仮面の下には、どんな感情があるんだろう。
飛び起きる。気が付けば、保健室のベッドに寝かされていた。どうやら私は失神したらしい。気絶していたのはそれ程長い時間ではなかった様だ。クリーム色のカーテンを透ける日の光はまだ白かった。
「やあ、やっと目覚めたね」
横合いから声がする。清水君が居た。ずっと付き添っていたのか、椅子に腰を据えて、文庫本を携えている。閉じられた本の表紙を見ると、「ライ麦畑でつかまえて」だった。
「気分はどう? 良い訳が無いだろうけど」
苦笑混じりの微笑み。濁りの無い瞳が真っ直ぐに向けられている。屈託の無い目だ。しかし、その奧に秘めたものを、私はもう知っている。
信じちゃいけないんだ。外面なら、沢村の様にいくらでも繕える。外見は人格を判断する根拠にならない。どんなに近くに居ても、知ったつもりになっても、本当に他人を理解する事なんて出来やしない。信じるなんて言葉は、知る努力をしない人間のエゴでしかない。
だから私は、清水君を知る為に、どうして居るのかを訊ねた。
「心配だからだよ。授業時間中だけど、教室は混乱しているからね。抜け出すのは簡単だった」
間髪を入れずに答えられた。でもそれは嘘だ。「ウソ?」と清水君の眉間に僅かな皺が寄る。
「ウソっていうのは、どういう事かな」
清水君が教室から消えた事を誰も気にしない。そこは良い。嘘は「心配だから」という点だ。清水君がここに居るのは、心配して来てくれたからじゃない。そもそも、心配などしていないんだ。私の反応を伺いに来たんだろう。いや、私がどれだけ怯えているのか、観察しに来た。私にはもう解っている。
清水君は少しムッとした。
「引っ掛かる言い回しだね。けど、まあ、言い方の違いだろうけど、君の様子が気掛かりだった、というのは合っているよ」
そういう事じゃない。そうだとしても、そこには優しさなんか無い。
何故なら、清水君が私の鞄に子猫の死骸を入れた、張本人だからだ。
事の顛末を見届けに来た。そう、毒を与え、苦しみながら死んで行く子猫を眺めたのと同じ事を、私でしようとしているだけ。或いは、子猫の死骸をエアガンで撃つ様に、私に何らかの手段で追い討ちをかけに来た。
「そうか。君もだいぶ錯乱している様だね。無理も無いよ。あんなものを見たら、ね」
違う。私は今、自分でも意外な程に冷静だ。それはたぶん、全ての事実を見通せているからなんだと思う。
犯人当てのつもりで当てずっぽうな憶測をしているのじゃない。ロジックを組み立てて完成させた推理でもない。ただ、清水君の心底に真っ黒なものが横たわっているのを知っている。それだけの事だ。
しかし、私は未だに疑問を口にしていた。どうしてだ? どうして私に近付いて、こんな仕打ちをする? それがまだ理解出来ない。
見詰めた清水君の瞳は、澄んでいる。けれど、青空の様な温かみのあるものではない。名が表す様に、泉水の様に清らかなものとも違う。氷に似ている。長い時間を掛けてゆっくりと凍った、曇りの無い、冷たいそれだ。
「……詰まらないなァ」
清水君は眼を細め、片側の頬を歪めて、笑った。声のトーンも一段と低く、いつもの調子とは全く違っていた。
「成る程、見ていたのか、オマエ」
心をくすぐる様だった口振りは、今や鋭利な爪を立て、切り裂こうとするものに豹変している。
「もう少し遊んでいたかったんだけどなァ。本当に詰まらない女だよ、オマエはさァ」
姿勢を崩す。伸びていた背筋を丸め、閉じられた脚を開き、膝に肘を置き、前屈みになっる。もう、私の知っている清水君の姿はどこにも無い。
まるで蛇だ。爬虫類が青い舌をちろりとさせる。これが彼の獣の正体、本当の彼の姿なのか。
「ちょっとは楽しませてくれるんじゃないかと期待していたのに、残念だよ。落胆を通り越して失望したねェ」
どうしてなんだともう一度問うた。何故私なのかと訊いた。清水君、いや、清水彰は鼻で笑った。
「オマエを見てるとなァ、ムカつくんだよ。無性に腹が立つ。苛々するんだ」
腹の底から唸る様な声で言う。「ムカつく」か。どこかの誰かから何遍も聞かされた言葉だ。
「オマエのさァ、腹の中で人を見下してる感じが胸糞悪ィんだよ。一匹狼気取って、自分が特別だと思い込んでいる。そういう所がムカつくんだ」
そうだろうか。そうなのかも知れない。たぶん、そうなんだろうな。私は秀でた人間じゃない。けれど、私に干渉してくるのは、下等で下劣で、下賤な下衆なんだとは、思っている。
「だから一遍ぶっ壊してやりたかったんだよ。完膚無きまでに叩きのめして、二度と立ち上がれなくなるくらいに、人生棒に振るくらいに、死にたくなるくらいに、ぶち壊してやりたかったんだ」
ククク、と笑う。
「途中まではまんまと騙せたのになァ。油断したよ。全く予想外だった。まさかオマエが、ひとの事を付け回す様な変態だなんてなァ」
確かに、騙されていた。彼の表層しか見なかった結果だ。
ある種の罰だったのかも知れない。因果応報というものだ。他人を外見だけで評価するのを嫌い、外見だけにしか目を向けようとしなかった私には、罪があった。
清水彰はすっくと立ち上がり、「それじゃあ」と言った。
「ここに居る意味が無くなったよ。それで、どうする? 僕の事を誰かに告げ口する? まあ、しても無駄だけど。どうせ誰も、オマエの言う事なんか信じない」
きっとそうだろう。しかし、例え私の言葉を鵜呑みにしてくれる人物が居たところで、私は誰にも、話さないと思う。
背を向け、カーテンを割り、立ち去ろうとする清水の背中に、私は何を思ったのか、手を差し伸べていた。届く訳も無く、届けるつもりも無く、ただ手を伸ばした。
憎悪や嫌悪や憤怒や悲哀、そうした一切合切は生まれてこなかった。