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10 それは恋(或いは幻想)

 何かの冗談か。清水君の申し出を聞いて、最初はそう思った。けれど、真っ直ぐに私を見返す眼差しは、悪巫山戯に言っているものとは違う。俄には信じられないまま、別に良いけれど、と答えていた。

「良かった。それじゃあ行こうか」

 邪気の無い微笑みが、湿り気を帯びた大気を吹き飛ばす様だった。

 並んで歩き出す。清水君は私の左側、肘と肘とがぶつかってしまいそうな程近くに居る。脂汗の滲む、毛深い私の腕で彼に触れてしまったら、不快な思いをさせる事だろう。そう考えながら腕の振りを抑えていると、自然身体が緊張した。

 無言だった。清水君に他意は無い様だが、一方の私はドギマギとしながら、必死に何と言葉を発すれば良いかを考えていた。礼を言うべきか、否か。下校に誘った理由を問うべきか、否か。惑う。

 目を泳がせると、駐輪場に、近頃見慣れてしまった姿を捉えた。そいつは自転車のサドルに軽く腰掛けて、ぼんやりとしている。そして目線がかち合った。白沢だ。ぴたりと目が合って、白沢は少し首を傾げる。私と清水君、男子とが一緒に居るのを、訝しんでいる様子だ。

 私から目を逸らした。変な勘ぐりをされたら嫌だ。清水君に迷惑が掛かる。見なかったふり、会わなかったふりをして、その場を通り過ぎた。白沢も声を掛けてくる様な事はしなかった。

 正門を抜けた辺りで、ふと思う。どうして白沢が居るんだろう。今日は部活は休みだったのだろうか。いや、あったとしても、白沢は出席出来ない。ならとっくに帰宅している時間だ。誰かを待っているのだろうか。だとしたら、一体誰を待っているのか。尚美か? 私か? いや、まさか。

「大変だったね」

 不意な白沢君の言葉で、我に返った。思わず顔を左に向ける。そこには清水君の整った横顔があって、私は直ぐ様視線を落とした。

「どうして殴ったかなんて、誰もが知っている事なのに、誰も彼もが知らんぷり。どうかしているよ」

 清水君は遠回しに、自分も知っているのだと告げた。

「今までよく我慢したね、君は」

 褒めてくれる。今までも、見てくれていたのか。心臓が強く脈打つのを感じた。

 でも我慢していた訳じゃない。ただ反撃をするだけの力が無いから、今までそう出来なかっただけ。突発的で爆発的な感情に押されて、拳を振り上げてしまったんだ。そう答える。

「強いんだね」

 清水君は意外な事を言う。私はこれ程貧弱で脆弱だと言うのに、そうではないと言ってくれる。

「君はとても理性的な人なんだね。それ故に、抑えていたものが吹き出してしまった。けれどそれは弱さの証明じゃない。常に内なるものと戦い続け、抗い続けてきた証だよ」

 清水君の言葉は、詩を読む様な響きを持っていて、私の脳や胸にスッと染み込んできた。

「強いよ、君は」

 リフレインだ。一番に伝えたいメッセージを、繰り返し送る。同じ箇所を何度も刺される痛みではなく、幼い頃に母が寝かし付ける為にしてくれた様な、柔らかなリズムを打つ様な優しさを感じた。暖かな言の葉と声音とに包まれる。

 素晴らしい人だ。日頃、人間の卑劣さや歪んだ感情ばかりを見ているから、清水君にはまるで、清らかな湖畔の様な印象を抱く。そして私は、例えるなら、澄み切った水面の上に浮かべられた、そよ風に揺れる小舟で眠る、静寂と安らぎを覚えた。

 今すぐにでもその胸に縋り寄って泣けたなら、どんなに幸せだろう。

「君の左腕は綺麗だね」

 突然、そんな事を言われた。左肘の裏辺りに熱いものを感じて、慌てて隠す。そうすると今度は右腕が露わになる。清水君に腕毛を見せたくないから、腕組みをする格好になってしまう。

「見られたくなかった?」

 恥ずかしいから、と答える。

「それは、周りがそう言うから?」

 私は正直に頷いた。清水君は急に笑い出し、「負けたらいけないよ」と言う。

「君を見てどう思うかは、人それぞれだ。君を気持ちが悪いと言う人が居る。君を綺麗だと言う僕が居る。それぞれあって良い感想だし、それぞれの中では全て正しい。けれど決め付けじゃない。君が気にする事じゃない」

 なら、清水君は私の腕を、私を、本心から綺麗だと思ってくれているのだろうか。

「君が恥ずかしいと思うなら、それは正しい。だけど、周囲がそう言うからそう思うのなら、間違いだよ。既に君の本心じゃない。ねじ曲げられた、見解の刷り込みだ。君は君を貫かなくちゃ。君は君なんだから。君は君であるべきだ」

 そうだ。頭では理解していたのに、その思想に徹する事が出来ずにいた。

「君は負けちゃ駄目だ」

 清水君は、私を後押ししてくれている。ひねられたら捻れ、叩かれたら平たくなる。そういう粘度の様に軟弱で、不定形の私に、骨組みを与えてくれようとする。

 そう、私は私。人が何と言おうと、私という人間は変わらない。気持ち悪いと言われても、私は決して気持ち悪くなんかない。私はケムシなんかじゃない、大嶋めぐりという人間一個人だ。私に必要だったのは、浴びせ掛けられる石のつぶてをしのぐ為の盾でも、反撃をする為の剣でもない。何事にも打ち崩されない、鉄壁の意思だ。

 私の中で何かが弾けたところに、後ろから、ミィ、とか弱い鳴き声がした。子猫が私達を見上げて、付き纏いながら鳴いている。黒毛に少し三毛が混ざっているのか、まだらに茶色がかって毛並みが悪い。近くの廃工場が野良猫の住処になっている。そこで生まれた子だろうか。視線は、清水君の方に向けられていた。知っている猫かを尋ねると、

「さあ。人懐っこい猫だね」

 と、困った様に笑った。猫の様な警戒心の強い動物は、人の性根を見分けられると聞いた事がある。この子も清水君の優しさに当てられた様だ。

 遠くで、別の猫の太い声がした。月極駐車場の真ん中辺りに目脂の酷い三毛猫が立ち尽くしていて、もう一度鳴いた。母猫だろう。勝手に離れちゃいけません、と叱っていた様で、子猫はその声に応え、よたよたとした足取りで駆け戻って行った。

 母猫の足元を駆け回って、子猫がはしゃぐ。清水君は暫くその仕草を微笑ましく見守り、私はそんな清水君の顔を見詰める。視力は良くないらしく、少し眼を細めて、頬の肉を弛める表情は、慈愛に満ちていた。

 この瞬間が永遠であれば良い。私はそう念じた。しかしこの世に永遠など無く、彼と別れが訪れる事は、夕日が嫌味に語っている。

「僕はこっちだけど、君は?」

 分かれ道に差し掛かり、清水君は私の言えとは逆方向を指差した。「残念だね」と、本当に残念そうな顔をしてくれる。

「もう少しお喋りしたかったけど、ここでお別れだ」

 それではまるで、二度と言葉を交わす機会は無いみたいじゃないか。また明日も学校で会えると言うのに。そんな寂しい事は言わないで欲しい。

「僕は見ているよ。君があんな悲しい事を二度としてしまわない様に。君は、耐えられるよね?」

 耐えられるさ。耐えてみせるとも。あなたがそれを望んでくれるのなら、どんなに苛烈な虐待でも堪え忍ぶ事が出来る。

「良かった。それじゃあ」

 軽く左手を挙げて、別れ際に「僕は見ているから」ともう一度繰り返し、背中を見せた。広くて純白の背中が、見る見る遠ざかっていく。さようならを言いそびれた私は、その場に立ち尽くしたまま、彼が次の角を曲がってその姿を消してしまうまで、じっと見続けていた。

 駆け寄って行って、また彼に会う事は、許されるだろうか。背中や手の感触を確かめるのは、叶うだろうか。そんな事は出来ない。出来ないけれど、したい。強く抱き締めたい。彼の臭いで体中を満たして、深い眠りに落ちたい。

 心臓が収縮する、ギュッ、とした痛み。今なら、積極的にこの感情を呼ぶ事が出来た。

 私は清水君に恋をしている。


 家に帰ると、今日は普段通り母が居ない。それを良い事にクーラーをガンガンに利かせてリビングで寝転がっていた弟に、「顔赤くない?」と指摘された。普段は私の顔色など全く気にしない癖に。日に焼けた所為だと誤魔化した。このほとぼりは大事にしたい。肉親に奪われるのはまっぴら御免だ。

 制服のままベッドに倒れ込んで、枕を抱き寄せる。記憶が薄れる前に、枕を清水君に見立てて、抱き竦める。背中を丸めて、膝を曲げて、顔を埋めて。胎児がする格好で、幸福の余韻に包まれていた。胸を掻き立てるもどかしさに、勝手に笑いが込み上げる。有りもしない幻想を思い浮かべると、枕の中で、わっと叫び出してしまいたかった。まだこんな純朴な面があったのかと、自分でも驚く。嘘みたいだ。これまでの辛い出来事は、今日のあの時の為にあったのではないかと思ってしまう程、劇的だった。

 嗚呼、至福!

 庇ってくれる。守ってくれる。助けてくれる。きっとそうしてくれる。そうなると良い。そんな、外見的な魅力から起因して抱いた妄想は、単なる憧れは、真実としてその姿を見せた。嬉しくて堪らない。胸がはち切れそうだ。

 何という興奮だ。何という熱情だ。

 私という裸電球は、清水君という強烈な電流を与えられて、今にもフィラメントを焼き切ってしまうくらい、熱く眩い輝きを持った。

 そんな時、机の上で携帯電話が震えた。小刻みに天板を打つ喧しい音で邪魔をする。一体どこのどいつだと、携帯電話を絞め殺す様な気持ちで飛び付き、ディスプレイを見た。そこには登録の無い、見た事も無い電話番号が表示されていた。ゼロ、ハチ、ゼロ――相手も携帯電話だ。間違いか悪戯の類かと、応答せずに様子を見る事にした。

 しつこい。留守番電話が答えると一度切られ、すぐにまた掛け直される。どの繰り返しが五回も続いた。流石に何かあるのか。警戒しながらも通話ボタンを押し込み、無言でスピーカーを耳に寄せた。

 相手も無言だった。こちらが声を発さないから、あちらも戸惑っているのかも知れない。しかし、もしもし、と言うのも躊躇する。ちょっとした恐怖感は否めない。

 やおらに、スピーカーが「ムカつく」という声を上げた。声の憶えなんて関係無い。いきなりそんな事を言うのは、白沢を置いて他に居なかった。

「電話に出たら何か言え」

 当たり前の事かも知れないが、白沢に咎められるのは、何かが違うと思う。断りも無く電話をしてくる方がいけない。そもそも、この番号をどうやって知ったんだ。

「小栗から聞いた」

 尚美か。一体どういうつもりだろう。ひとのプライベートな情報を勝手に教えてしまうなんて。人一倍思い遣りがあって、そこを信用している分、たまに見せるこうした無配慮さが、酷く頭に来る事がある。

 どうして電話なんかするのかを問うと、「別に」と答えた。

「あんたと清水が一緒に帰るのを見た」

 それが理由だという物言いだが、それとこれとに何の関係があるのか。

 そう言えば、白沢は誰かを待っている様子だった。尚美だろうか。訊くと、「さあね」とはぐらかされる。その口振りからすると、当たっているかも知れない。

「俺の事はどうでも良いだろ」

 そうだな。どうでも良い。ただ不可解なままにしておくのが嫌だから、訊いてみただけだ。今度は白沢の側から尋ねられた。

「あんた、清水と付き合ってんの?」

 馬鹿を言うな。私は思わず大声で否定していた。清水君とはまだそんな関係じゃない。「そうか」と白沢は平坦に言う。

「『まだ』ね」

 まだ、と言ったのにはいずれそうなりたいという願望があるからだ。私が不用意だったとは言え、重箱の隅を突く様な勘繰りは、気分が悪い。つい怒鳴りたくなるのを抑えて、威嚇する様な低い声で、何故そんな風に思うんだと問い返す。

「あんたが楽しそうだったからさ」

 そんな事は無い。別れの間際では確かに心が躍ったが、少なくとも学校を出るまでは、そうでなかったはずだ。何を見てそう言うのか。推測はすぐに立った。

 後をつけて来たのか?

「まあね」

 なんて奴だ。それでこんな電話をしてくるのでは、まるでストーカーだ。何を考えている。

「別にイタ電じゃないけど」

 悪戯でないにしても嫌がらせだ。「怒るなよ」と全く場違いな事を言って、

「忠告するけど」

 と前置きする。何だと聞き返すと、白沢は一拍の間を置いてから続けた。

「……清水は、駄目だ」

 駄目? 駄目とはどういう事だ。

「あいつは気持ちが悪い」

 何を言い出すか。彼の何を見てそんな事を言うんだ。清水君の言っていた歪曲した観念の押し付けだろう、それは。

 ついに、巫山戯るなと怒鳴り散らしていた。それでも白沢はその妄言をやめず、

「あいつには近付くなよ」

 と最後に告げて、一方的に電話を切った。

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