9 クラス会議(救いの手)
他人を傷付ければ、相応の対価を払う事になる。それがこの世界の常識。法以前の暗黙の了解でそう決められている。けれど倫理や道徳は人心に求められるものだから、酷く曖昧模糊として、白と黒との間にあるネズミ色の領域は、判然としない。白か黒かを決めるのは、主観的な解釈でしか出来得ない。
五時限目の授業時間中に連れ込まれた、生徒指導室という名の取調室には、取調官が二人。担任の鈴原と、生徒指導部長兼体育教師・安斎だ。
「どうしてあんな事をしたんだ」
問い質す口振りは、理由を求めるものとは違っていた。解説や釈明を許さない口調だ。だから私は黙っていた。もし言い訳をするのを許可されたとしても、きっと何も言わなかった。私に正義は無い。如何なるものでも、暴力に正当性は無い。白沢の名前を出した所で、善意の当てこすりにしかならないだろう。解っているから、私は口を閉ざした。
たぶん、あの瞬間は、白沢を笠に着た。義憤という偽善を掲げて、鬱憤を晴らしたかっただけだ。惨めでならない。
けれど、私は完全な黒ではなかった。正当化とか棚上げとかではないが、しかし通り魔の様な、突発的で無関係な人間を相手にしたものとは違う。経緯があり、理由があり、目的があった。その事を鈴原は、犬面のこのおっさんが余程の馬鹿でないのなら、恐らく察しているはずだ。それでもその事に触れないでいるのは、怪我人の出たクラスでのケンカ騒ぎと、今まで黙認されてきた事実との因果関係を結び付けてしまった時、その責が担任に及ぶのを恐れているからだろう。どこまでも腐敗した大人だ。
「何とか言えよ」
ただ、何度も言う様だが、何が何でも、ひとに怪我を負わせたのは私だ。とやかく言う資格も権利も無い。詰まるところ、黙秘を貫く事しかしてはいけないんだ。
まあ、構わない。他人を傷付ければ、いずれしっぺ返しが待っている。それを沢村に教育出来ただけでも、良しとしようじゃないか。
それは自分自身にも言えた事だけれど。
早退を余儀なくされた。鈴原がそのぼそぼそ声で言うには、沢村も大事を取って早退したらしい。鼻血なんてちょっとぶつければ出るものなのに、大袈裟だ。明日になればケロっとして、同族から同情を集めるのは目に見えている。精々憐れな悲劇女優を演じれば良いさ。
しかし、残念なのは部活だ。白沢に着せてしまった汚名を、一刻も早く雪いでやらなくては。責任は果たさなくてはいけない。全て私の所為なのだから。
家に帰ると、珍しく母が居た。母はリビングのソファにぐったりともたれている。帰宅の挨拶をすると、疲労の色をその顔いっぱいに浮かべながら、「おかえり」と返した。
「随分早かったじゃない。何かあったんでしょう?」
きっと、母は学校からの連絡を受けたんだろう。腹を探られている様で、気持ちは良くない。嘘を吐くつもりも無かったから、クラスメイトを殴った、とだけ答えた。「そう」と素っ気なく応えながら、母は額に手を遣る。
「何でやったの? アンタ、先生にも言わなかったそうじゃない」
やっぱり聞いていた様だ。別に話す様な理由なんて無い。ただ腹が立っただけ。そう答えた。
「じゃあ怒るきっかけがあったワケでしょう?」
聞き返されて、私は口を堅く閉ざした。
知っている限りでは、うちの母は、他と比べて子供に理解のある親だと思う。親と子と言えど、自分とは違った人間、他人だという考えを持っている。血統だけで他人同士が解り合う事など到底無理なのだと、熟知している。家を空けている時間が長く、弟の世話も殆ど私がしてきただけあって、母親面をしたくないのかも知れない。だから、今度の事の様に、何かあっても頭ごなしに叱り付ける様な事はして来ない。事情を問い、理解を示す。その努力をする。怒られた記憶はたった一度きりだ。
それだけに、私は母と接するのが苦手だ。肉親であり他人であるという微妙な距離感を、未だに掴めずにいる。私の事をより深く知ろうとする他人と、どう触れ合えば良いのか解らない。気持ちに応えていく術を知らない。
「アンタ、学校で何かされてるなら……」
そう言い掛ける母の言葉を、何にも無いよ、と遮った。誰にも、特に母には話したくないんだ。部屋に居るとだけ告げて、二階に上がろうとしたところを、呼び止められた。
「本当に何も無いなら良いけど、何かあるならちゃんと話しなさいよ」
母はそう言うけれど、その顔は連日の仕事に疲れ切っていた。そんな顔をされて、自分の話なんて出来る訳が無いじゃないか。
結局そうやって、思い遣りを遠回しな方法で返す事しか、知らなかった。
携帯電話は、母に買い与えられたものだ。たぶん、こういう形でも私との接点を持ちたかったのだろう。しかし私にとって無用の長物だと言い切る事は、決して出来ない。普段の使用目的と言えば、専ら目覚まし時計の代わりでしかないが、尚美の声を聞きたい時にはとても役に立つ。
「はい、小栗です」
応答したのは尚美の母親だった。今時中学生でも携帯電話を所持するのは当たり前だけれど、尚美はそれを禁じられている。彼女の家が特別に厳格だという事ではなくて、本当はそちらの方が、常識的で良識的な家庭のあり方だと思う。どんなに小さな社会でも規律や戒律は必要だろう。そういう意味で、尚美の家は完成している。だとすれば私の方は、逆にどうしようもなく破滅的だ。
「あ、ああ、大嶋さん? ごめんなさい。あの子、まだ帰ってないのよ」
窓の外にはまだ薄青く日の光が残っているが、時刻は七時になろうとしている。尚美がこの時間になっても帰宅していないとは考えられなかった。けれど、私は納得して、夜分の電話を詫び、切った。
悪事千里を走るというのは、全く嘘ではない。私が学校でした事は、小栗家にももう伝わっている様だ。そうならば、娘との接触を拒否するのは当然の事の様に思われた。もしかすると、キリスト教は流血沙汰を忌避するものなのかも知れない。
たった一度きりしてしまった、暴力の代償は大きかった。
翌日、終わりのホームルームを延長して、クラス会議が開かれた。議題は「暴力を根絶するには」だった。笑わせる。実際は「大嶋めぐりをどう処置するか」だろう。
PTAから指導の要請があったらしい。つまり、沢村の母親がPTAを代表して、学校に抗議した。モンスターペアレントというヤツだ。
その結果がこれ。ろくでもない子を持った馬鹿親と、無抵抗主義者の鈴原のお陰で、私を吊し上げる場が設けられた訳だ。何と情け無い大人連中だろう。
クラス会議は、学級委員主導で行われた。「みんなで話し合って、みんなの力で解決して欲しい」などと鈴原が言い出して、逃げた所為だ。教師のたがが外れたら、どうなる事か知れない。
学級委員は二人。男子の谷中と、女子の長谷川。どちらも私の敵だ。谷中は私を「ケムシ」と呼ぶのを広めた男で、長谷川は、昨日のあの時、沢村と一緒にいた内の一人だ。長谷川に起立を求められ、大人しく従う。
「まず、どうして沢村さんに暴力を振るったのか、説明して下さい」
私は黙秘を貫いた。長谷川を始め、ここに居る連中全員が知っている事だ。わざわざ話す必要は無い。
「黙っていたら解りません。話して下さい」
知っている癖、しつこく尋ねてくる。私が弱気だから黙っているとでも思っているのだろうか。言葉で責めるのを楽しんでいるかの様だ。
「理由も無く暴力を振るったという事ですか?」
そういう事にしたいのなら、好きにしたらいい。私は何も言わない。「解りました」と長谷川は言い、
「理由の無い暴力について、意見のある人は手を挙げて下さい」
などと呼び掛ける。すぐに二人程が手を挙げた。どちらも女子だ。つまり、沢村の子分。
「最低だと思います。絶対に許しちゃいけない事だと思います」
「大嶋さんは反省してない様に見えます。謝って下さい」
一斉に「そうだ、謝れ」とか「謝りなさいよ」とかいう声が上がる。「静かにして下さい」という鶴の一声で、漸く静かになった。
「大嶋さんはこの場で沢村さんに謝って下さい」
謝るべきは私だけではないはずだ。私は口を閉ざしたまま、沢村に目を遣る。沢村は昨日の予想通り、ケロリとしていた。その憎たらしい顔を見ながら、謝るつもりはありません、と一言だけ答えてやった。
教室中から一斉に野次が飛んだ。
「全然反省してねえよ、アイツ」
「最低だな」
「ケムシの癖に」
罵声を浴びる。反省を求めるならいくらでもしてやる。謝罪の言葉が欲しいならそれを言うのもやぶさかじゃない。殴り付けたのだから、謝罪は責務だ。けれど、順序はある。沢村がこれまでの行いを顧みない限り、詫びをくれてやるつもりは、毛頭無い。
そもそも、お前らは何なんだ? ここに居る全員が私に殴られた気にでもなっているのだろうか。それとも、人間に劣る私のした反抗が、気に食わないのか。いや、自分らの非道さに正当性を求めているのか。何というウジ虫共だ。
吐き気がする。悪意の矢面に立たされた事にではなく、この矮小で醜悪な、おぞましい生き物がうごめく場所に立っている事が、気持ち悪い。呼吸をしたくない。同じ空気を吸いたくない。腐敗臭がする。
助けが欲しくなった。今すぐ誰かに連れ出して欲しくなった。勿論、そんな酔狂な人物は現れないのは承知している。ただ、私は無力なんだ。結局、この場の空気に雁字搦めにされて、言い返す事も、逃げ出す事も出来ず、立ち尽くし、言われるがままになっている私は、所詮非力な弱者でしかない。
少女漫画のヒロインの様に、不幸な待遇と戦う事も、抗う事も出来やしない。そういう心の強さは持ち合わせていない。受け止めて、己の中で消化するのが精々だ。だから、虐められる。解っているんだ。
目眩がした。キャリーオーバーだ。何でもないふりをするのには、限度がある。
本当は辛い。どうしようもなく、悲しくなる。他人からの暴力は、他人であるだけ、理解出来ない。理屈の無い、理由の無い、意味など持たない、一方的な暴力。理屈をこじつけ、理由を求め、意味を与えようと、一向に止まず、解らず。助けを呼ぶ声は、小さすぎて誰の耳にも届かない。届いたところで、それさえ無視されるのだから、為す術が無い。
声に出来ないから書き綴っても、破り捨てられてしまう。
足が竦む。断崖絶壁に立たされている気分だ。後ろからは、飛び降りろと言う煽る声がする。死ねと言うわめき声がする。
そんな時、ふと救いの手が差し伸べられた。いや、掲げられた。
「何ですか、清水君?」
斜め前の席で、清水君が右手を挙げていた。委員長が指すと、教室がぴたりと静まりかえった。清水君は静かに、すっくと立ち上がる。その背中はまるで、進んで同じ崖っぷちに立ってくれるかの様だった。「意見があります」と前置きする声は凛として、響き渡る。
「もうやめにしませんか。この会議は不毛です」
予想外の提案だったのだろう。長谷川は明らかに狼狽した。
「これまで、大嶋さんが訳も無く暴れる様な事はありませんでした。それ相応の理由、沢村さんが殴られるだけの理由はあったのではないかと、僕は考えます」
この発言には、沢村が「ハァ?」と頓狂な声を上げた。食って掛かろうとする沢村を、清水君は「勿論」と制した。
「大嶋さんのした事は許されるべきものではありません。どんな理由があるにせよ、殴って良い道理はありません。僕が言いたいのは、大嶋さんを僕達が責めるのはおかしいという事です。本来、喧嘩は当人達の問題ではないでしょうか」
至極真っ当な正論。でも、正論を言えるのは、この狂ったクラスにあって奇特な存在だ。
「対岸の火事と見て見ぬふりをしたくない、というのは良い事です。しかし、今のこの状況は、寄って集って大嶋さんを言葉の上で殴り付けているのに等しい。これではまるで、リンチです」
過激な言論は、考えの足りない奴らを動揺させる。一度揺さぶりを加えた所で、追い討ちを掛ける様に続けた。
「良いですか。どんな理由があるにせよ、殴って良い道理はありません」
繰り返される清水君の言葉こそが、この無意味な議論の答えだった。
「大嶋さん」
早々に教室を立ち去り、昇降口を出た所で、背後から清水君に呼び止められた。少し呼吸が乱れている。私を追って来てくれたものらしかった。
「確か、帰り道は途中まで一緒だったよね」
清水君がそれを知っているなんて、驚いた。
「一緒に帰ろう」