8 モダン・タイムス
驚いた。と言うより、愕然とした。一瞬だが確実に、魂が身体から抜け出た。白沢から接触してくるなんて、一体全体、どういう事だ。
もしかすると、私への意趣返しが足りないのか。いや、ひょっとすると、私の口から直接謝罪や謝恩の言葉を聞きたいのかも知れない。陰湿な報復をする男が、そんな直接的な行動に訴えるなんて考え難い事だが、しかし、予想外の出来事に混乱した私はそう思った。
その時は、受け止めるしかない。どんな罵詈雑言や暴力でも、黙っていなくちゃいけない。覚悟は決めた。
けれど、白沢は急に手を放すと、
「あんたに渡したいモンがある」
と鞄をまさぐる。例えそこから刃物や銃が出て来ても構わないと、私は本気で考えていた。
取り出したのは、B5サイズに二つ折りされたプリントの束だった。一度水に濡れて乾いたかの様にしわくちゃで、不格好に重なり合っていた。一体何だろう。訝しみながら受け取り、そっと開いてみる。
原稿用紙だった。ただの原稿用紙じゃない。二枚の原稿が張り合わされている。それも上の一枚は細かく散り散りになったものを、パズルの如く集めて、組み合わせて、元の形に戻してた形跡がある。濡れた様なのは、糊の跡だ。
一行目には「オレンジ」の題名と、私の名前。
思わず口を押さえた。所々抜け落ちて、糊の所為か掠れているけれど、紛れも無く私の文字。私の小説だった。
どうして? 吐息に混じってそんな声が出た。
「あんたのだろ?」
そうだけど、どうして白沢がこんな事をする? だってこれは、白沢自身が破いたんじゃ――ああ、そうか。漸く気付いた。犯人は白沢じゃなかったんだ。そう解ってみれば、問い詰めた時の白沢の態度は、白を切っていたのではなくて、ただ単に何の事か理解していなかっただけだ。そうだ。今になって思えば、いきなり問い詰められて困惑した顔をしていたじゃないか。そうなんだ。原稿を盗むなら、始めからそのつもりでないといけない。だったら、部室から追い出す以前から計画していた事になる。因果律の崩壊だ。理に適わない、濡れ衣だ。有り得ない。
「結構大変だった」
白沢は自慢げに鼻を鳴らす。石原が目撃したのは、「オレンジ」のピースを探す姿だったのか。きっと私の一心不乱の行動は、奇行として広まっていたんだろう。だから白沢は、私が原稿を捨てたのを知っていた。
馬鹿だったんだ、私は。
でも、どうしてここまでしてくれるのか、解らない。疑いを晴らしたかったからか? 尋ねると、「疑われてたのか」と白沢は妙な納得をした。そして、
「悔しいだろ。壊されたら」
ああ、そうだ。悔しかった。教科書や上履きが無くなるのは構わない。けれど、これは私の作品だ。私の作った、大事なものだ。
白沢もきっと、小説書きだから解るんだ。自分の創作物を破壊されたらどれ程悲しいか。誹謗や批判に遭うのは、まだ良い。それは作品があって初めて出来る事だ。作品が誰かの目に止まった証明にもなる。でも、滅茶苦茶にぶち壊されるのは、無くされてしまうのは、侮辱だ。作品が引き裂かれるのは、心が引き裂かれるのと同じなんだ。
「オレンジ」で沢山の嘘を吐いた。世界という腐ったみかんが美味いという嘘。自分を醜いと思わないという嘘。他人が羨ましくないという嘘。理解者が欲しいという嘘。孤独を嫌う嘘。
嘘は本音の裏返し。
腐った世界で呼吸をする、私は醜い。自分を誇張したり、自分を正当化したりして、そんな風に無関心に生きられたら、と他人が羨ましくなる時もある。こんな私は理解されない方が良い。理解されてしまったら、私はきっと、背を向ける事しかできないから。だから私は孤独で良い。その方が、気が楽だ。
「オレンジ」に詰め込んだのは、嘘の裏にある私の本音。私なりの吐露。本心。それが破り捨てられ、打ち砕かれたから、私は私を失った気持ちになったんだろう。自分を消し飛ばしてしまいたくなった。
でも、私の心は返って来た。ひび割れたり欠けたりしていて元通りではないけれど、白沢の不器用な手で繋ぎ直されて、戻った。
嬉しい。
「何泣いてんだ?」
無くした物を取り戻した喜び以上のものがここにあるから、涙が出る。
ありがとう、と言った。
「別に。疑われたくないから」
それを知ったのは今の癖に。嘘吐きめ。おかしな奴だ。本当に、笑える。
「泣いたり笑ったり気持ち悪い。生理だから情緒不安定なの?」
関係あるか、馬鹿。
チャイムが鳴った。白沢は「じゃ」と踵を返す。そして去り際、
「楽しみにしてる」
とだけ言った。
結末を決めた。最後はたった一文。それが全てだ。
もう原稿を破ったのが誰かなんて、どうでも良い。誰を憎むべきかを考える事は、しなくて良い。もっと大事な事は、この原稿を作り直したのが、白沢だという事。それだけで十分だった。
折角そう思えたのに、事件は起こる。
普通はそうしないけれど、そうしていたくて、昼休みに原稿を眺めていた。
白沢は本当に不器用だ。一つ一つ糊付けされているけれど、所々捲れ上がっていたり、はみ出した液体糊を取るのに失敗したのか、文字が滲んでいたりする。でも、ジグソーパズルの様に、ピースが綺麗に嵌る訳も無いから、白沢はきっと、内容を思い出しながら繋ぎ合わせていったんだろう。とてつもない労力を使ったに違いない。
元は私の作品。だけど、白沢の手も加わっている。それがとても素晴らしい事の様に感じた。抱き締めたくなる。
今すぐにでも、白沢の汚名を晴らすべきだ。尚美や、高橋や、石原に、あいつは悪くないんだと言ってやらなくては。全て私が悪いんだと、訂正しなくては。
どん、と誰かが肩にぶつかった。
「きゃ。ごめぇん」
沢村だ。プールでしたのと同じ様に、わざとぶつかって来たんだろう。でもこんな女の事はどうでも良い。そう思わせてくれるくらい、白沢の作り直してくれた原稿が魅力的だった。
沢村は女子の群れの方に小走りで向かっていく。そして加わるなり、私の方を横目に見ながら、「ねえ、見てよ、アレ」と忍ぶ風を装って、言う。
「汚ぁい」
汚いとは何だ。私の事か? 私の事なら良い。百も承知だ。けれど、もしこの原稿の事を言っているのなら、捨て置けない。「アレって、この前捨ててたヤツじゃない?」。群れの一匹が言った。
「じゃあゴミ漁って貼り直したんだ。きったなぁい」
汚いとは、何だ。黙っていられなかった。席を立ち、キッと睨む。「うわ、なんか反応したんですけど」と嬌笑している。当たり前だ。私の事は兎も角、この原稿や白沢の事を悪く言う奴は、許せない。
「書き直せば良いだけなのにねぇ。ビンボー臭い」
黙れ! 叫んでいた。こいつらに、創作者の、私や白沢の気持ちなど解らない。解る訳が無い。「書き直せば良い」? ハッ! 馬鹿を言え。創作っていうものは、その時その時の閃きなんだ。一瞬の輝きを形に変える作業だ。輝きを失った後で同じものなんて作れない。文学は一字一句を全く同じに書けば、同じ文章が出来る。だがその原稿は、魂を失った抜け殻だ。コピーされた虚像だ。「書き直せば良いだけ」なんて台詞は、自分では何も生み出す事の出来ない、諾々と他人の文章をなぞる事しか出来ない、愚者の妄言だ。
内容を憶えていた白沢が、デジタルで打ち直す様な事はせずに、わざわざ原稿を修復するという手間を掛けた。その意味を解せないのなら、物を言う資格など無い。
「わ。何コイツ、キレてるじゃん」
ひとが怒っていると知って、どうしてまだ笑っていられるんだ。気に入らない。
撤回しろと、私は詰め寄った。「何言っちゃってんの?」と、沢村はとことん私を見下すつもりらしい。あくまでそうならば、こちらにも考えがあるんだ。
胸ぐらを掴む。「触んな」と払い除けられ、押し返され、突き飛ばされても、掴み掛かりに行く。周囲が止めに入ろうとするが、あたふたするばかり。烏合の衆だ。
「もしかして、あたしがやったと思ってんの?」
そう思い込んではいないが、容疑者の一人ではあるだろう。逆に、お前がやったのか、と問い返す。「何、勘違いしてんの」と沢村は唾を吐く様に言った。
「ケムシが書いたのになんか、興味無いっつーの」
そうだろう。そうだろうな。誰もお前なんかの為に書いてる訳じゃないっつーの、という感じだ。笑いたければ笑えば良いし、否定したいなら勝手にすれば良い。私も沢村なんかに興味無いんだ。
手を放した。もう、ムキになっても仕方が無い。こいつは何も知らないから、無知だからひとを簡単に侮辱出来る。馬鹿馬鹿しい奴なんだ。構う事は無い。
そう、私はいつもこうして諦める。こうした諦念を持つ私が、何もかも悪い。
席に戻ると、「何なの、アイツ」と言う声が聞こえた。
「そう言えばアイツさ、今朝男子と一緒に居るの見たよ」
「見た見た。別のクラスのヤツでしょ?」
そんな会話をしている。耳は閉じる事が出来ないから、聞きたくなくても聞こえてくる。そこに沢村の声が加わった。
「白沢だよ。白沢誠二。小学校の頃同じクラスだった」
まるで白沢の全てを知った様な口振りで語る。
「アイツさあ、ひっどいヒッキーだったんだよね。風呂入らないから臭くて、たまに学校来ると最悪。しかも殴り合いのケンカとかしょっちゅうやってんの。女子叩いた事もあったよ。アレ、シンショーだよ、絶対。気持ち悪いの」
ケラケラ笑う。
「何? アイツら付き合ってんの? マジ? チョーお似合いじゃん?」
ゲラゲラ、ベチャベチャ。白沢が馬鹿にされている。
白沢は、頭がおかしいかも知れない。言う事はいつも的を射ないし、噛み合わない。理解不能な男だ。けど、自ら健常を謳う連中に比べたら、余程世界というものを冷静な目で見ている。「スタンドアローン」だ。誰とも繋がっていない、繋がりを求めない。望んで外側に立っているから、外側に追い遣りたい連中は、いい気になる。いい気になって、排除したつもりになる。群れという排他的なネットワーク上で、集団心理のローカルルールを敷き、それぞれが端末である事を忘れ、個を確立しようとせず、個を消し去ろうとする。没個性。没個人。異常なのはどちらだ。
我慢出来るのか。我慢出来るか。
白沢に対する侮辱を、我慢出来るのか。
我慢出来るか。
再び、立ち上がる。勢い余って、空中に飛んでしまいそうだ。身体が重力を感じていない。足を運んでも、まるでばたついているかの様で、慣性だけで前に進んでいる錯覚がする。
怒りに慣れてしまったのかも知れない。私自身驚く程冷静だった。いや、本当の怒りというのは、吹き出す様な激烈なものではなくて、踏み締められた土から雨水が滲み出る様な、静かで、穏やかなものなんだ――たぶん。
「何? キモいんですけど」
丁度、私も同じ事を思っていた。
なんと気持ちの悪い生き物だろう。高尚な人間のツラをしているが、中身はゴキブリとどう違う?
ゴキブリを退治するにはどうしたら良いか。そんな事、誰だって知っている。
叩き潰せば良い。
それは、ボールを投げる動作に似ている。あまりしない動きだが、やってみると簡単だ。鼻の下、唇の上を狙って、思い切り右腕を振る。今更ながら知ったが、人間の顔面は意外と堅い。
きっと沢村にとっても初めての経験だった。私の腕力などたかが知れているが、剰りに不意の出来事だったんだろう。踏み止まるのも顔を押さえるのも出来ないまま、アクロバティックに仰け反りながら反転し、背後にあった机の顔に強か顔面を打ち付けて、床に倒れ伏した。顔を打つ音、机が足を引き摺る音、沢村の倒れるどうという音。それらはクラス中が、ハッ、と息を呑むのに吸い込まれる。
革命的だった。例えるなら、独裁者が打ち倒された瞬間だった。しかし、名誉革命の如く喝采をもって迎えられるものでもなければ、私は英雄でもなく、そして自由を勝ち取った哀れな民草の一でもない。これは一方的な暴力以外の何ものでもなかった。
裏付けるのは、右の拳の痛みと、起き上がった沢村の、鼻血で真っ赤に染まったブラウス、誰かの悲鳴。
初めてひとを殴った結果は、一瞬の爽快感の中で聞こえた「ティティーナ」の旋律と、間もなくやって来た後悔だった。