神社
家に、着く。
鍵を開けて玄関に入り、しかし靴は脱がずにバッグだけ玄関の脇に置いて俺は、再び家を出る。
「さてと……」
時刻はまだ昼の十二時半。
今日は初日で学校の給食もなかったから、本当はまず家で昼ごはんでも食べたいところだが……その前にどうしても行かなければならないところがあった。
それは……
「こんにちはー、すみません、ひしゃく借りまーす」
「はいはい、どうぞ〜」
「ありがとうございます」
――谷下霊園。
死んだ俺の父親と母親が、一緒に眠っている場所だ。
無事新年度を迎えられたら、一度ここにお参りに来ようと決めていた。
別にそうしないといけない理由はない。しかしそう、決めていた。
「…………」
十六夜家の墓石の前で手を合わせ、俺は少しの間目をつむる。
――霊園は、静かだ。
時刻はまだ月曜の午後一時だというのに、風が木々をなでる音さえしっかり聞こえてくる。
さっきまでいた学校の喧騒とは、えらい違い。
自然の音だけが、俺の耳の左から右を、するりと通り抜けていく。
「……よし」
短くはあるがしっかりお参りを済ませて、俺は目を開ける。
それから借りたひしゃくと手桶を丁寧に元の場所に戻して、霊園を出ることにする。
別に墓掃除は前にもしたし、近場で気軽に来れるから、長居する必要もない。
俺は管理事務所のある出口から霊園の外に出ると、軽く伸びをして空を見上げる。
「さて、と……」
これからどうしようか?
いつもだったら平日の月曜なんて学校、部活に遊びで大忙しなんだが、母さんが亡くなって以来部活は休みをもらってるし、かと言って他の奴らは全員今頃、新年度初部活に精を出してる頃だろうから、遊び相手もいない。となると、あとは買い物ぐらいしかやることがないけど、それも一時間もあればすぐに終わってしまうからなぁ。まさか部活がなくなるだけでこうもヒマになるとは。
「仕方ない」
とりあえず一旦家に帰って、飯でも食うか。
そう思って俺は、適当に家のある方へと道を歩き出した。
しかし時間も有り余ってるので、ここら辺の地理を把握する意味も含めてこれまで通ったことのない道をあえて選んで進んでみる。……するとそれがいけなかった。近場だと思って油断していたら、あっという間に俺は道に迷ってしまい、周囲の景色になんとなく見覚えはあるものの、自分が今どのあたりにいるのかすっかり分からなくなってしまう。
「……ま、いいか。時間は腐るほど余ってるわけだし」
けれど多少時間をロスしたところで別に問題ないし、これもある意味地理感をつけるのには必要なことだと思って、気にせず俺は目の前の道を突き進んでいった。
黒と灰色の瓦屋根が続く家屋、
最近では珍しい砂利と石畳でできた小道、
それに、視界の端を静かにたなびく木々の枝葉……
そうして数十分は見慣れぬ道を歩き続けた頃だろうか、
――いやそう思っただけで、実際は十分も経っていなかったかもしれない。
とにかく俺は、気づけば昔ながらの簡素で静かな、けれどどこか優しさを感じさせる一本の裏通りに出会っていた。
その道はなんとも不思議な感じで、場所自体はありふれた住宅街の中の方にあるのだけど、どことなく空間の広さというのも感じさせて、周囲の景色も他とたいして変わらないはずなのに、なぜかこの道の風景だけは、少し特別な感じを覚える。
「……変な感じだな。でも、嫌いじゃない。――ん?」
不意に顔を左に向けた際に、視界の少し先に珍しいものを見つけて、俺はやや目をこらす。
それは、神社のやしろと思しき建物の一部。
神社の全容までは見えないが、石塀の上に、神社のやしろにありがちな三角をいくつも組み合わせたような瓦屋根と、その少し離れた場所に赤みがかった鳥居の一部が目に映る。さらにそれらを隠す、俺の身長と同じぐらいの高さの石塀は、数メートル先でぽっかり穴が開いたように神社の中への道を構えていて、俺はまるで吸い込まれるようにその神社の入り口へと歩を進めていく。
「…………」
それはまるで、最初から俺がこの場所を目指して歩いてきたかのようだった。
それぐらい俺の体は流れるように、俺の意思はなんの抵抗も持たずに、俺はその神社の中へと足を踏み入れていった。
『――――いらっしゃい』
まるで俺に挨拶でもするかのように、透き通った風がサーっと服をなでる。
……なんなんだろう、この気持ちは。
自分の家からさほど離れてるはずもない辺鄙な神社の入り口で、俺は不思議な感情にとらわれる。初めてこの世界に生を受けた時みたいな、あるいは夢の中で空に包まれているみたいな、少し神秘的で、少し優しい……そんな不思議な感覚。
きっと現実では味わうことができない、でも生まれるその一瞬と死ぬその瞬間だけ垣間見ることのできる、世界の本当の裏側。……もちろんそんなもの俺だって一度も見たことがないけど、見たことがないから今見てるこれが本当にそうなのかどうかも立証不可能だけれども、それでもなおそれは真実に思えた。それを真実に思えることこそが、それが真実であることの証明かのように。
『――――て』
再び透き通った軽やかな風が、俺の肩を優しくなでる。
その風に導かれるように、俺はさらに歩を進めて遠目で見えたその社の方に近づいていく。
やがて社のすぐ目の前まで来たところで、俺の足がピタリと止まる。
顔が上を向き、社の全容を、見上げる。
「…………」
そこで不意に神社の外を、一台のバイクがブイイイィン! と大きな音を立てて、通り過ぎた。
その音で俺は意識を取り戻したみたいに、ハッと我に返る。
「……なにしてんだ、俺?」
そしてまるで今まで本当に意識を失っていたかのように、小さく独り言を漏らした。
軽く周囲を見回せば、俺はどうやら住宅街の中にポツンと存在する小さな神社の境内にいるみたいで、――いや、確かにさっきまでもしっかり意識を持ってこの場に来たはずではあるのだけど――あたりに人の姿は見えないものの、家の中や遠くの路地からは人々の生活音がわずかに聞こえてくる。さっきまで肌に感じていた神秘的な空気も、今はすっかりその気配を失っている。まったくもっていつも通りの、ありふれた地元の光景……さっきまでの俺は、この景色の一体どこにあんな神秘的な空気など感じしていたのだろうと、逆に不思議にさえ思えてくる。それとも俺は、一瞬の白昼夢でも見させられていたのだろうか……? そう思えるぐらい、今の自分は間違いなく現実の一部に、ちゃんと立っていた。