帰り道
『透くん、お腹減っちゃった? そろそろご飯にしようか』
学校からの帰り道、俺の頭の中にまた、母さんの懐かしい声が響いてくる。
思い出の中の母さんはやっぱり明るい笑顔を浮かべていて、広い青空の下洗濯物を片付けながら、リビングから外を眺めている俺に、母さんは言う。
『もうちょっとだけ待っててね。すぐ準備するからね』
そう言って母さんは素早く洗濯物を腕に抱えると、『よいしょ』とリビングに上がって、またほんの少し俺に、笑いかける。
『透くん』
――母さんは、不思議な人だった。
父さんを早くに亡くして自分もすごく寂しいはずなのに、そんなこと一切感じさせない笑顔で日々を生き抜いていた。親族も全然いなくて、助けの手を差し伸べてくれる人も全くいなくて……それでも母さんは『そんなのへっちゃらだよ? 母さん、すごいもの』と言わんばかりに、たくましくたった二人だけの十六夜家を支え続けてくれた。そんな母さんがいてくれたから俺も、父親がいない寂しさも親戚がいない心細さも感じることなく、今まで生きてこれた。
けれど俺が知らなかっただけで、母さんはもともと重い持病を抱えていて、それが去年ごろから一気に悪化した。それからはあっという間だった。母さんは頻繁に倒れて入院するようになり、その度少しずつ死へと近づいていった。入院を繰り返すごと、どんどん蒼白く透き通っていった母さんの顔は、わざわざ医師の診断結果を聞かずとも、もうそれが取り返しのつかないところまで進行しているのだとわかった。
それでも母さんは、笑顔を絶やさなかった。
『いらっしゃい、透くん。そうそう、私この前ね――!』
病室を訪れるたび、俺に楽しそうに入院生活のあれこれを話す母さん……
だから俺も、母さんの前では笑顔を絶やさなかった。
『はいはい……前も聞いたよ、その話は。もう、母さんは……』
母さんが俺を心配させまいと明るく気丈に振る舞っていたことなんて、誰にでもわかったさ。もちろん、俺にだって。父親がいなくて、親戚もいなくて、たった一人の肉親さえ間も無く失うことになるだろう俺を、それでも心配させまいと、暗い表情にさせまいと、必死に辛い体を押してまで笑顔でいたことを、俺はよく知っている。だから俺も、せめてそんな母さんを心配させまいと、明るく気丈に振る舞ったのだ。別に母さんがいなくても大丈夫だからと、一人でもちゃんとやっていけるからと、なんとか母さんに伝えたくて。
それが……それだけが俺に残された、母さんに対してできる最後のことだと思ったから。
「うぇ〜〜んっ!!」
不意に頭の中に子どもの大きな泣き声が響いてきて、俺はハッと顔を上げる。
見れば川沿いの道、少し先の方に、一組の親子連れがこちらに向かって歩いていくるのが見える。何があったか子どもはヒクヒク大声でしゃくり上げるように泣いていて、その隣を母親が「よしよし、大丈夫だからねぇ」と手を繋ぎながらあやしている。
そのなんでもないありふれた光景に、俺はつい足を止めて見入ってしまう。
帰り道、川沿いの道で……俺の足ははたと止まって動こうとしない。
やがてその親子連れが「うぇ〜〜ん!」「よしよし、泣かない、泣かない。男の子でしょ」なんて、片方は泣きながら、もう片方は困ったようにしながら俺の横を通り過ぎていく……のだけども、そこにあったほんの少しの笑顔に、俺の視線が思わずつられて、顔を振り向けそうになる。
――――っ!!
けれど俺はそれを、全力で止める。
だってそれはもう、いくら手を伸ばしたところで、決して手の届かないものなのだから。
俺はそのまま決して後ろを振り返ることなく、再度川沿いの道を、ゆっくり歩き出す。