アマネ
新年度初日の授業は、午前中で終わった。
授業といっても、HRで二年生用の新しい教科書を受け取って、明日の入学式の段取りを聞いて、それから一学期の主な行事の予定を聞いたぐらいのもので、言ってみれば明後日から始まる本格的な授業の前の、肩ならし的内容だ。まあそれは、先生たちも一緒なんだろうと思う。今年もめでたく俺たちの担任になったアマネ先生も、廊下で会ったヨダせんや他の先生達も、まだどこか気合いの入りきっていない、気怠げな表情を浮かべていた。学校活動が本格的に始動するのは、明日の入学式が終わって、明後日の授業が始まってからなのだろう。
あとは放課後の掃除さえ終えれば、晴れて今日のところは、解散だ。
しかし俺が教室の後ろ側をせっせとホウキで掃いていると、不意にガラリとドアの開く音がした。教室にいた生徒全員が自然そちらの方に目を向けると、そこに立っていたのは我らが新しき担任、アマネ先生その人だった。
「おい、透司郎」
アマネ先生は教室のドアの向こう側から、ぶっきらぼうな口調で俺に言ってくる。
「今から進路指導室に来い。話がある」
「え……でも掃除中ですけど?」
「掃除なんかいいから、龍河と威春にでも任せとけ。早くしろ」
「ええ〜、透司郎ずりい〜。アマネちゃんも横暴だぁ」
巻き込まれた龍河がさも楽しげに不満を漏らす。
一方の威春は、こんなの小学校の時から日常茶飯事だったので、もはや反応すらしない。ただ無言で教室の床をホウキで掃き続けている。
俺はそんな二人の様子をチラと見て「……大丈夫そうだな」と判断すると、手に持っていたホウキを掃除ロッカーにしまって、アマネ先生に答える。
「じゃあ、遠慮なく」
もちろん教室を掃除しているのは龍河や威春の他にも何人かいたのだが、みんな俺が抜けることはそれほど気にしてはいない様子だった。というか前学期に『十六夜家の誰かに不幸があった』ってのは割と学年内じゃ有名だったみたいだから、もしかしたら気をつかわれてるのかもしれないな。そんなに気にされても、龍河の時と同じくかえって俺の方が気にしてしまうというものなのだが。
「おし、ついてこい」
「はい」
進路指導室に着くと、アマネ先生は「そこにかけろ」と言って俺をソファに座らせ、ドアをきっちり閉めてから先生も対面の席に座った。
一体なんなんだろうな……?
俺がなんとなくまだアマネ先生の意図を掴めないでいると、先生は急に今までの固い表情を崩して、笑顔で俺に言った。
「はあ、つっかれた〜。やっぱ久しぶりの学校というものはずいぶん疲れるものだねぇ、透司郎」
「は……はあ」
「昨日も夜十二時までずっとゲームやっててさー、今日から学校って頭ではわかってたはずなのに、なかなか癖というのは抜けないもんだねぇ、透司郎。おかげで今朝はめちゃくちゃ眠かったよ。私も早く帰りたいものだ」
「え、ええ……授業が終わっても先生は定時まで帰れないですもんね。大変ですよね……はは」
う〜ん、マジでなんのために呼び出されたんだろ、俺?
アマネ先生の愚痴を聞くなんてのはいつものことだが、わざわざ新学期初日に進路指導室に呼び出してまでする話ではないだろう。てっきり春休み直前にやった葬儀のことで追加の連絡事項でもあるのかと思ったが、そんな様子でもないし……俺も今日はちょっと早く帰りたいんだけどなぁ。
「で、久しぶりの学校はどうだった、透司郎?」
「どうって……何にもないですよ。普通。ああ、えっちんはすごい残念そうにしてましたけどね、ヨダせんのクラスになって」
「ああ、江塔か。バスケ部の。そういえばあいつ、今年はD組になったんだっけか?」
「そうです。で、今朝ヨダせんのクラスになったのをからか――慰めに行ったんですけど、案の定超落ち込んでましたね。『俺の人生終わった〜! これからヨダせんとずっと一緒なんて、俺の一年間は終わったも同然だ〜!』なんつって。龍河は『吉野瀬さんと同じクラスなんだからいいじゃねえかよ〜!』なんて笑ってましたけど」
「ああ、吉野瀬ね。なんだ、お前も吉野瀬と同じクラスになりたかったのか? クク、わっかいね〜」
「そういうわけじゃないですけど……話したこともないですし」
「小奈威春はどうだ? お前たち隣同士の席だっただろう。小学校の時も仲よかったんだろ? お前たち」
「やっぱりアマネ先生の差し金なんですか、あれ? ……ったく、仲良いとか悪いとかそんなんじゃなくて、威春とはもうずっと家から何までお隣同士ですからね。今日も散々愚痴を言われましたよ。どうしてくれるんですか、先生」
「いいじゃないか、いいじゃないか。威春は我がバドミントン部将来のエースでもあるからな。丁重に扱ってくれたまえ」
「また勝手なことを言って……」
コンコン
アマネ先生と話していると、不意に進路指導室のドアをノックする音が聞こえて、そのすぐ後に「失礼します」という女生徒の声とともにドアがガラリと開かれる。
「すみません、魂々時先生がここにいるって聞いて……」
ちなみに『魂々時先生』とは言わずもがな、『アマネ先生』のことである。先生は、本名を魂々時アマネという。よく間違えられがちだが、アマネは名字ではなく名前の方なのである。だがそのものものしい名字を本人もあまり好きではないらしく、ほとんどの生徒は先生のことを『アマネ先生』と呼ぶ。ほんと珍しい名字だと思うが、特に神社とかお寺とか、そういう宗教的なものとは一切関係がないらしい。
「ああ、見島か。どうした?」
先生がドアの方に振り返って聞くと、今年度から同じクラスになった見島さんが答える。
「明日の入学式のことでちょっと確認があって、来賓席のことなんですけど……」
「ああ、それか」
「吉崎先生も体育館で待ってます」
「はいはい、わかったよ。すぐ行く」
アマネ先生は見島さんの言葉に納得したように頷くと、俺の方を軽く見やりながら立ち上がる。
「それじゃあ、私はもう行かないといけないようだからね、透司郎。またな」
「またなって……」
そもそも俺を呼び出したのは、アマネ先生の方なんだけどなぁ……ほんとなんの用で呼び出したのかと訝しがっていると、しかし続くアマネ先生の一言で、なんとなくその背景が見えてくる。
「無理はするなよ、透司郎。まだ本調子じゃないみたいだからな。悩んだらいつでも私のもとを訪ねてくるといい。今度は茶ぐらいなら用意してやるから」
「はあ……」
なるほどね……みんな随分と俺のことを心配してくれているというわけだ。
龍河も、威春も……アマネ先生も。
でも、
「大丈夫ですよ。わかってたことじゃないですか」
俺はきっぱりと答える。
そんなのはいらぬお節介だ。
母さんの病状が悪くて長くはもたないなんてのは、もうずっと前からわかっていたこと。
それに対する覚悟も十分にしてきた。
だからもう、母さんがいなくなったことなどたいして気にしちゃいないのだ、俺自身は。
「……そっか。そうだといいんだがな」
「大丈夫ですって。母さんのおかげで当面の生活もなんとかなりそうですしね」
「わかったよ。でも、道端に傘を放っぽっていくのは感心しないな。傘だって結構高いんだぞ? うちに置いてあるから、いつか取りに来い。あれだってある意味お前の母親が……紗季葉が残してくれたものの一つだろう。コンビニのビニール傘と同じようには扱うな」
「……るせえ」
「ん? なんて?」
「――なんでもないです。それじゃあ」
「あ、おい、透司郎っ」
先生の呼びかけは無視して、俺は先生より先に進路指導室を出ていく。
部屋を出ていくときに、見島が「……っ!」と少し怯えた目をして後ずさったのも、なんともわずらわしい。「まったく……」背後から聞こえてくる先生の呟きも、もう聞こえないフリをする。それから俺は一度も振り返らず、足早に教室に戻ってバッグを回収し、学校を出た。