威春
クラス確認を終えてようやく玄関に入った俺たちは、一年の時とは違う下駄箱に自分の外靴をしまい、学校用の上履きに履き替える。
一年の頃はつま先の部分が緑だったが、二年になるとそこが青色のものを使うようになる。
その色を見ると「ああ、二年生になったんだなぁ……」とようやくほんの少し進級した実感がわいてくる。一年生の時は緑色の上履きがまさに一年生っぽくてちょっと嫌だったけど、いざ青色の上履きを履くと、あの緑色の上履きも悪くなかったな、なんて思えてくるから不思議だ。それも所詮人が『持たざるものにコンプレックスを持つ』っていうだけのことなのかもしれないが。
「おはよー」
「おう、おはよー、十六夜」
「あ、左津くん、おはよー!」
「おはよー、なかみー! 今年は一緒のクラスだったね、よろしく!」
「うん、こっちこそよろしくねー!」
廊下で適当に出くわす顔見知りの同級生と挨拶を交わしながら、俺たちは階段をのぼって自分たちの教室へと向かう。
一年生の時は最上階四階の右端から二番目が俺たちの教室だったが、今や二年生になったので教室も一つ下のフロア、三階に変わる。一学年上がるごとにどんどん下の階にスライドしていく仕組みだ。だから今日は二フロア分だけ階段をのぼって、俺たちは学校特有の横に長い廊下に出る。するともう何人もの同級生が廊下のいろんな場所にいて、「それで家に帰ったらおかん超怒っててさ〜」「あはは、そりゃ怒るだろ、そんなことしたら」「今年は違うクラスになっちゃったね〜、残念」「ね、ほんと。来年こそは同じクラスがいいな〜」なんて楽しそうに話をしていた。その様子で一気に、『学校に来た感』が強くなってくる。
隣を歩く龍河が言う。
「ひさしぶりだな〜、この感じも。えっちん達ももう来てっかな! 確認したらえっちんD組だったから、あとで遊びに行こうぜ」
俺も笑って答える。
「いいね。えっちん、よりによってヨダせんのクラスだからなぁ〜、ぜってえ嫌な顔してるぜ、あいつ。あとでからかいに行こう」
「最高」
二人で悪そうにクスクス笑いながら、俺たちは自分たちの教室の中へと入っていった。
教室に入れば、教室にもすでにたくさんのクラスメイトが登校済みで、
「え、そうなの〜? 超うけるんだけど」
「はぁ、今日からまた学校か、やだな〜」
「そういえば、春休みの前に貸したゲームだけどさ、早く返せよな〜。借りパクすんなよ〜」
新年度の初日の教室は少し浮き足立った喧騒に包まれていた。
その雰囲気を肌で感じると、俺たち二人はクスッとまた笑い合い、
「えーと、俺の席は……お、窓際最後尾じゃん、やった! これぞサ行の特権」
「うわ……やっぱ俺左端最前列じゃん。いや、クラス名簿見た時点で予想してはいたけどさ。また自己紹介一番始めかよ……やだなぁ」
「いいじゃねえかよ、格好いい苗字なんだから。文句言うなよ、くく」
「だったら変わるか? 十六夜龍河」
「やだよ。お断りだ。十六夜龍河なんて、キラキラネームにもほどがあんだろ。俺の名前は左津ぐらいがベストなんだよ」
「キラキラって、おい。……ま、いいや。とりあえず、またあとでな」
「おう」
黒板に書いてある自分の席の位置を確認して、一旦二人別れる。
それから龍河は窓際最後尾の自分の席に、俺はさらにそこから右に曲がって一番前の席までスタスタと歩いていく。その間にも、すれ違った初対面のクラスメイトと、お互い新年度らしい微妙な視線のやり取りをかわすのが、少しこそばゆい。
けれど間も無く俺は最前列左端の自分の席について、「ふぅ」とわずかため息をもらしながら、バッグをおろして席に座る。
ガタリと、適当に椅子の位置を直して居心地いいように体勢を変える。
そこまで来てようやく落ち着いて俺は、教室全体を見渡す。
「え〜」
「クスクス」
「すげーな、お前」
「あはは!」
教室の至るところからクラスメイトの笑い声が聞こえてくる。
ああ、新学期だなぁ……なんておじいちゃんみたいに感慨にひたっていると、不意に隣の席から、
「――ねえ」
なんて風に女の子の声で呼びかけられて、俺ははたと隣の席に視線を移す。
するとそこにはなんともよく見知った顔がこちらを不機嫌そうに見つめていて、思わず俺の口から二度目のため息が出てしまう。俺は隣に座るその女の子に、もはやクラスメイトに対するものとは思えないほど自然すぎる自然体で、新年度の挨拶をかわす。
「なんだよ、威春か。驚かせんなよ」
「なんだよ、じゃないわよ、十六夜」
威春も威春で〝十六夜〟と俺の名前を呼ぶ声音には、新年度の緊張や遠慮など微塵も感じられない。それもごくごく当然のことで、ようはもう長い付き合いなのだ、この〝小奈 威春〟とは。その長さと来たら、きっと縁結びの神様ですらびっくりするほど。……残念ながらそういう浮いた類の話は、こいつとは一切ないのだが。
「なんでまたあんたと隣同士になんなきゃいけないわけ? ただでさえ家まで隣同士だってのにさ。最悪。あーあ、せっかく華の中学二年生の時代がやってきたってのに、どうしてこう、腐る程見知った顔を、また一年間もの間見ないといけないのかなぁ。……不満だわ」
「はは、言ってくれるねぇ」
威春がさも不満そうな顔をして、俺に突っかかってくる。
とはいえこんなやりとりもすっかり慣れたもんで、俺もそのご挨拶なご挨拶に、笑って皮肉で返してやる。
「それを言ったら、俺だって不満だぜ、威春? でもお互い裸まで見せあった間柄だろ? 仲良くしようぜ?」
「ちょっ――バッ!?」
俺の衝撃発言に、威春は焦って手を伸ばして俺の口を塞ごうとしてくる。けれどすぐに周囲にクラスメイトがいることを思い出して、その手を再度慌てて引っ込める。そして顔を半分は赤面させながら、もう半分を怒りに打ち震えた様子で、俺にひそひそ声でまくしたててくる。
「な、なに言ってんのよ、あんた! やめてよ、学校でっ。裸って、そんなのすっごい小さい頃の話でしょ!? セクハラで訴えるわよっ」
「小さい頃ってか、赤ん坊からの話だろ? 今さら何恥ずかしがってやがんだよ、ったく……女子じゃあるまいし」
「女子よ! 正真正銘の女子です! もうっ、あんたってほんといつまで経っても変わんないのね! 別のクラスだった一年の頃が恋しくてたまらないわ」
「あはは、ごめんごめん。冗談だよ」
「知ってるわよ、もう!」
言って威春は「はぁ……」とため息をつきながら、その顔を黒板の方へと向き直す。それから少しの間、俺の方に視線を向けないようにして黒板だけを見つめ、何かを考えるように頬杖をついた。その横顔は、幼馴染みながら至極整っていて、一瞬目を奪われてしまう。他の男子生徒がよく俺と威春の関係を聞きたがるのも、十分納得できる。それぐらいはたから見た威春は、結構可愛い、らしい。……まあ、小さい頃から一緒にいる俺にとっては、いまいち実感はないのだが。
威春とはもう、物心つく前からの顔見知りだ。
というか俺たち二人は、同じ日に同じ病院で生まれ、沐浴や授乳なんかも、ずっと同じタイミングでしてきたらしい。たまたま家が隣同士でいわゆる『お隣さん』というだけでなく、俺と威春に関しては赤ん坊の時から隣のベッドで育てられてきた、まさに生来の『お隣さん』なのである。昔はそのことでよく友達からバカにされたものだが、中学生ともなるとむしろ自分からからかいネタに使えるぐらい。当の威春の方は、まだそれに慣れてはないらしいが。そこは男子と女子の心持ちの違いなんだろう。
「…………」
隣の威春は、まだ何かを考えるようにして、ぼーっと黒板を見つめている。
しかしその表情が不意にわずかに真剣なものに変わったので、俺は身構える。
すると案の定「……ねぇ」なんて俺たちの関係には似つかわしくない真面目な顔をして、威春は俺に言ってきた。
「残念だったね……紗季葉さんのこと」
〝紗季葉さん〟とは、俺の母親のことだ。
俺と威春がお隣同士ということは、当然うちの母さんと威春もお隣同士というわけで、特に威春は俺の母さんと仲が良かった。しょっちゅう俺の家に来ては母さんの世話になっていたわけだし、今でもリビングの軒先を見れば、そこに威春と母さんが並んで座ってスイカを食べてる昔の光景が、思い出が、蘇ってしまうぐらいだ。けれど身構えていた俺は、威春のその言葉に、ニカっと明るい笑顔を浮かべて、返事をすることができる。
「なんだよ、威春、心配しれてくれてんの? やっさし〜」
「ちょっ!? そういうわけじゃないけどっ! けど……ああもう! 知らなわいよっ、勝手にすれば!? 馬鹿っ!」
「はいはい、それじゃあ俺はそろそろ龍河と一緒にえっちんのとこ行ってくるわ。それじゃあな」
「ふんっ」