月紗に
「はあ……ふう……」
夜の神社は、この上なく静かであった。
けれど不思議と、夜の神薙神社は昼の時より幾分厳かで、また神秘的な雰囲気が増しているように思えた。そんな静寂の中で俺は、ゆっくりと社の階段をのぼり、両開きの戸に手をかける。
カタッ
夜の雰囲気を崩さない静かな音とともに、社の戸が開く。
すると中にそっと月の光が差し込み、真っ暗だった社の中にほんの少しの明かりが灯る。
「――クシュンっ」
それと同時に聞こえてきたのは、お昼にも一度聞いた、月沙のくしゃみの声だった。
月沙は社の奥、薄汚れた壁を背に、その身を小さく縮こまらせていた。明らかに寒さに肩を震わせながら。しかし月の光に気づいてこちらを見上げると、月沙はわかりやすく驚いた顔をして、俺に尋ねてきた。
「――あ、あれ? と、透司郎さん? なんでここに?」
俺はその様子を見て、――なぜだか一瞬、月沙と自分の位置が逆になったような錯覚を覚えさせられる。けれど今はそんなことどうでもいい。俺はズカズカと社の中に踏み入ると、有無を言わせず月沙の腕をとった。そしてそのまま月沙の腕を力強く引っ張り、「――え?」と目を丸くしてこちらを見る月沙を、社の外に連れ出そうとする。
「と、透司郎、さん!?」
当然月沙は驚いた様子で俺に声を出してきたが、俺はそれを無視して月沙を社の外に連れ出した。
「ちょ、ちょっと待ってください、透司郎さん!」
しかし社の階段を下りたところでさすがに月沙がわずかに抵抗を見せたので、俺は腕を離し、月沙の方に振り返った。
月を背にする俺に、社を背にする月沙が聞いてくる。
「ど、どうしたんですか、透司郎さん、急に。その……またお参りに来てくれたのは嬉しいんですけど、できれば事情を説明してほしいな……なんて」
――いや、明らかお参りに来たわけではないんだが。
月沙のやや天然ちっくなセリフはさておき、とにかく俺はその事情とやらを説明してやる。
と、その前に――
「ひゃああ!」
「あ、わりい、ミスった」
月沙の体に触れようとして、誤って胸のあたりに触れてしまう。
しまった、セクハラするつもりはなかったんだけど……とにもかくにも、なぜ俺がこんな時間にこんな場所に来たのか、月沙に説明を加える。
「お前、気づいてないのか?」
「え? なににですか?」
「いやだから、自分の体が、実体化してるってこと」
「実体化……?」
俺に言われてなお、月沙はぽかーんと頭の上に疑問符を浮かべる。その顔を見るに、どうやらまだちゃんと理解できていないよう。これで神様というのだから恐れ入る。いや逆に、神様らしいのかもしれないけど。
俺は説明する。つまりこういうことだ。
「だから、たぶんだけど、お前の体、実体化しちゃってるんだよ。だから俺が今さわれただろ? それって俺が特別だからじゃないと思うんだよ。むしろ月沙の体の方が実体化してて、だから普通の人間の俺でもさわれるようになってるんじゃないの、お前のこと」
「……ん? んん?? どういうことですか?」
説明を端折りすぎたか……俺は改めて丁寧に説明をする。
「なんて言えばいいかな……俺もあくまで推測で物事を言うんだけど、月沙は普段幽霊みたいな感じでそこにいても誰にも気づかれないしふれることもできなかったんだろ?」
「はい、そうですね……たまに空耳程度に声が届いたり、夢うつつな人と会話することができたりはしましたが、さわれたのはこの数百年間でも、透司郎さんが初めてです。私の存在に気づいてくれたのも」
「でも今は俺にさわれるし、しっかり会話もできると……たぶんなんだけどそれって、俺が特別だからってわけじゃなくて、むしろ月沙の体が実体化してるから俺にさわれるようになってるし、会話もできるってことだと思うんだよな、俺は」
「ん? ん〜???」
なぜかわからないが、実体化というワードを出すと途端に月沙の理解が悪くなる。しかしそれもある意味当然の話だった。月沙は不意に疑問符だらけだったその顔を少し物憂げに変えると、確かな声で俺に言った。
「ありえ、ません……そんなことはありえないんです、透司郎さん。だって私、本当はもうとっくの昔に死んじゃってるんですよ? 体なんてもの存在するはずがありませんし、今透司郎さんに見えてる私は、神様とはいえ、あくまで元人間だったものの残りかすに過ぎません。そんな私が再度人間みたいに実体化するなんてこと、あるはずがありません」
しかし俺はそれに再度反論する。月沙の立場からしたらそう考えるのも無理はないのだろうが、少なくとも俺から見たら、事実は真逆だ。だから言う。
「いや、それを言ったらお前の存在自体がすでにあり得ないようなものなんだけど……現に今お前、明らかに寒さを感じてるだろ?」
「それは……はい。私自身もちょっと不思議には思ってはいたんですけど。――クシュン!」
「ほら、くしゃみしてるじゃんか。春になったとはいえ、まだ三月が終わったばっかりなんだぞ? 夜の神社なんてさみいに決まってるじゃねえか。にも関わらず実体化した状態で気づかないままあんな隙間風びゅーびゅーでホコリだらけのとこいてみろ。風邪引くぞ」
「で、でも! わたし、神様ですから! 神様は大丈夫なんです、いくら寒くても、食事だってしなくても。だってわたしは――」
とそこでタイミングをはかったかのように、月沙のお腹が小さく「く〜……」と空腹状態を告げる音を鳴らす。それを聞いて月沙は「あれ……?」という困惑の顔を浮かべ、俺は「ほら見たことか」と呆れ顔を浮かべる。もはや月沙には弁解の余地もない。俺は再度無言で月沙の腕を取ると、改めて神社の外へ向けて、月沙を引っ張って歩き出した。
「ま、待ってください、透司郎さん! どこに行くんですか?」
それでも最初は月沙も抵抗の色を見せた。
「知るか。でも少なくともここにいたら絶対危ないだろ、お前は。寒いし、本当に実体化して他の人にも見えてるんだったら、あんな暗い場所に一人でいること自体危ない。とにかく今晩だけでも、別の場所にいなきゃダメだ」
「で、でも、私にこの神社以外の行き場所なんてありません。それに私は、私の体は、この神社の外にはっ!」
しかし、
「――って、あれ?」
それも神社の境内から一歩出た瞬間に、ポカンと呆気にとられた表情に変わった。そして月沙は初めて俺にふれた時みたいに、静かな驚きをたたえた顔で小さく呟きを漏らした。
「あれ、出れてる、私。あれ……?」
事情はよくわからなかったが、月沙の発言からこの神社にとどまらなければいけない理由が一つ消えたのは、よくわかった。だから俺は再度月沙の手をしっかり握ると、
「……そ。じゃ、大丈夫そうだな。行くぞ」
とだけ言い放って、止まっていた足を再び動かし始めた。
「え、あ……はい! って、えっ、はい? えーと……はい!」
すると月沙ももう、あまり抵抗することなく素直に俺の後ろについてくるようになった。
後から聞いた話だが、月沙は人に触れることはおろか、この数百年もの間、一度も神社の境内の外に出たことがないらしかった。神社の外に出ようとすると、透明な壁みたいなものにぶつかり、それ以上先に進めなかったらしい。けれど今に限っては実体化していたせいか、あるいは全く別の理由か、初めて神社の境内の外に出ることができていた。それは私にとって奇跡みたいなものでしたと、後に月沙は言った。
「と、透司郎さん……っ!」
「ん?」
「その……えっと」
「……なんだよ?」
「な…………なんでも、ないです」
けれどその事実を、この時の俺は、まだ知ることはない。




